第97話 少女は、溺れる
馬車は、裏路地の手前で静かに止まった。
石畳の向こうに、夜の匂いが滲んでいる。
泣き止んだ少女とレインは、まだ手を繋いだままだった。
離せば、この時間が終わってしまう気がして。
「……まだ、離れたくない」
少女の声は、ほとんど囁きだった。
「うん……」
短い間のあと、少女は決心したように言う。
「……だから。わたしの部屋に、来てほしい」
本当は、断られるかもしれないと思っていた。
また今度、と優しく距離を置かれるかもしれないと。
それでも、ほんの少しの期待を込めて、上目遣いに見つめる。
「……その顔、ずるいよ」
レインの頬が、ゆっくり赤くなる。
「いいよ。君のわがまま、聞いてあげる」
「……ありがとう」
二人で馬車を降りる。
手は、まだ繋がれたまま。
「ね……一つだけ、約束」
「うん。なに?」
少女は、少し言いにくそうに視線を落とす。
「レインが、わたしを“リズ”って呼んだみたいに……レインは、わたしのお客さん、ね」
「……え?」
戸惑いが、声に滲む。
「この先に……あの男がいる。金貨を渡せば、わたしと寝られる。そういう仕組みだから」
「ぼ、僕は君を買わない! それに……僕は、そんなことをしたいわけじゃ……」
慌てるレインの唇に、少女はそっと指を当てた。
「分かってる。フリでいいの」
拳の中に、金貨を押し込む。
「……これは、君のお金だろう?」
「サービス。今日が、楽しかった分」
「でも……」
「行こ。……何も、言わないで」
裏路地に足を踏み入れると、空気が変わる。
いつもの、冷たい夜。
少女はレインの手を引いた。
「知りたいんでしょ。……わたしのこと」
レインは、黙ったまま頷く。
その奥にあった場所は、
路地のさらに深い、影の底。
「……なんだ、そいつは」
男は、二人を見下ろしていた。
「見て分かるでしょ……お客」
冷たい視線。
値踏みするような目。
「随分いい格好だな。良い客を捕まえたじゃないか」
「……そうかもね」
少女は一瞬、レインを見る。
口だけで、“お金”と伝える。
我に返ったように、レインは金貨を差し出す。
さらに、自分の懐から二枚。
「……これで、朝まで?」
「三時までだな」
意地悪な笑み。
「……もう二枚。これで、ここに近づかない?」
「熱い夜をご所望か。いいだろう」
男は満足したように、闇の奥へ消えた。
「……レイン。だめだよ、あんなこと」
「だって……ああしなきゃ、君がまた……」
「三時に売られたこと、ないよ」
「あ……そうなんだ……」
少女は、小さく笑って、部屋へ案内した。
何もない部屋。
ベッドとソファーだけ。
「座って……何もないけど」
二人で腰を下ろすと、肩が触れ合う。
「……部屋の中、まじまじ見ないで。見られると、恥ずかしい」
「ここで、生活してるんだって思って……嬉しい」
そんな理由で喜ばれるなんて、思わなかった。
「……朝までいる気?」
「僕、三男だから。……あまり厳しくないんだ」
「……そっか」
「君が眠ったら、帰るよ」
肩に回される手。
近づく距離。
「話、しに来たんでしょ」
「……うん」
それからレインは他愛のない話をしてくれた。
学校の話。
家族の話。
遠い世界の出来事のようで、
とてもなぜか眩しかった。
「……つまんなかった?」
「うん。つまんなかった」
わざと意地悪を言うと、レインの表情が曇る。
「……ずるいね。僕ばっかり」
低く落とされた声に、胸が揺れる。
「……わたしの話の方が、つまらないよ。我慢、できる?」
少女は、レインの膝に跨る。
「……いいよ」
抱き寄せられる。
そして、少女は話した。
初めて。
自分の過去を。
売られた日々を。
金貨の重さを。
「……つまらなかったでしょ?」
そう言って、首に腕を回す。
「そんなことないよ。逆に奇跡みたいだって思った……神様が、僕たちを出会わせてくれたのかな」
「……クサい」
でも、嫌じゃなかった。
「眠くなってきちゃった。ねえ……一緒に、寝よ」
「寝るだけなら。……君を、大事にしたいから」
「……変なの」
この人は、裏路地の人間じゃない。
腕の中の温もりに、身を委ねながら、少女は思う。
――失いたくない。
初めて、
“溺れてもいい”と思える人だった。




