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ナナシと呼ばれた魔法使いが、神に拾われ魔王と恐れられるまで  作者: こいち


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第96話 少女は、記憶のカケラを手に入れる

背後から伸びた腕を、少女は拒まなかった。

すう、と包み込むような温度。


「おかえり」


星降る静堂。

少女のために――と、アストレイルが用意した場所。

天には星が満ち、地はその光を映して淡く輝いている。

朝の来ない夜。

ここは、そういう世界だった。


「……ようやく戻ってきてくれたね」


その声に、怒りはない。

少女が長く姿を消していたことも、

別の男のもとに身を寄せていたことも、

すべてを“最初から知っていた”かのように受け入れる声。


――神様みたいだ。


そう思ってしまうほどに。


「……ふざけないで」


少女は震える声で言い、そっと、その腕を振りほどいた。


「思い出したんだから……全部」


手のひらには、一本の花。

ベガが摘んでくれた、リリスミア。

淡い紫は、この夜の中で白く浮かび上がっている。


「わたしに残ってた記憶は……前の世界での、どうしようもない暮らし」


言葉を選ばず、吐き出す。


「生きるために誰かと寝て、残飯を漁って、凍える夜は薄っぺらい布にくるまって……それだけ」


花が、指の間でくたりと力を失う。


「生きてる価値もなかった。救いもなかった。……だから、戻る意味なんてないって、思った」


暗い路地。

すり減っていく心と身体。

終わりの見えない日々。

――いつまで、これを続けるんだろう。

その問いの先に、差し伸べられたもの。


「……でも、違った」


声が、少しだけ揺れる。


「居場所が、あった」


思い出すのは、やわらかな笑顔。

――レイン。

何も持たない少女に、ただ“ここにいていい”と言ってくれた人。


「あなたは嘘つき」


少女は、まっすぐにアストレイルを見る。


「記憶を消して、わたしを縛った。嘘で塗り固めて、新しい記憶を植え付けようとした」


なぜ自分だったのか。

理由は、もうどうでもよかった。

大切な人の記憶を奪い、

無理やりこの世界に連れてこられたこと――

それだけが、許せなかった。


「あの世界に……戻らせて」


涙が、溢れる。

星の光を映して、静かに落ちていく。


「……」


沈黙。

やがて、アストレイルは小さく息を吐いた。


「君を守る、という言葉は嘘じゃない」


それでも彼は、微笑んでいた。

慈悲深く、やさしい瞳で。


「……うそ」


そう言いかけた瞬間、距離が詰まる。

逃げようとした手首を、強く掴まれた。


「離して!」


抵抗する少女の手を、逃がさない。


「どうしても戻りたいなら……見せてあげる」


視界が、闇に閉ざされる。

瞳を覆う手。


「開こう。パンドラの箱を」


涙が床に落ちる。

星のような床に、波紋が広がる。

――記憶の、波。



揺れていた。

馬車が、規則正しく。

長い夢を見ていた気がする。

目を開けると、頬に温もり。


「起きた?」


肩を貸したまま、レインがこちらを見ていた。

眠っている間、ずっとこの姿勢だったのだろう。


「……ごめん」


「謝らなくていいよ。可愛い寝顔、見られたし」


陽だまりのような笑顔。

少女は、気づく。

絡めるように繋がれた右手。

そのぬくもりに、安心していた自分に。


「……ずっと、繋いでたの?」


「うん」


見つめていると、レインはその手に口づける。


「これからも、ずっと繋いでいたい」


優しさが、深すぎて。

溺れそうになる。


「……わたし、愛を知らない」


「僕は知ってるよ。だから、生涯かけて教えたい」


「……やだ。長い」


少女は、そっと手を離した。

レインは、少しだけ寂しそうに笑う。


「今日は、もう終わりだから」


街に戻れば、裏路地。

希望も夢もない生活。


「……楽しかったよ」


理由も分からないまま、涙が溢れる。

止め方も、知らない。

似合わないドレスも、

不相応な化粧も、

ぐしゃぐしゃになるほど泣く。


「リズ……」


「違う……わたしは……っ……わたしは…」


嗚咽に、言葉が崩れる。

――リズなんて、最初からいなかった。

そこにいるのは、

薄汚れて、感情を失って、

居場所を知らない――ただの少女。


「愛してる」


抱きしめられる。

強く、逃げ場がないほどに。


「……やだ……っ……。言わな、いで……」


「何度でも言う。愛してる。……君を、愛してる」


「聞きたく……ない……」


それでも、腕は緩まない。


「まだ、話がしたい。対等な関係で。……僕のこと、知ってほしい」


「……………」


「君のことも、教えて…?」


「……何も、ないよ?」


「それでもいい……ありがとう」


少女は、目を閉じる。

帰りたくない。

もっと、一緒にいたい。

震える手で、抱き返す。


「……わたしに、レインの一日を、ちょうだい」


「いいよ」


背中の布を、皺が寄るほど掴む。

強く。

強く。

――愛を知らない少女は、

この日、

“愛する人がいる”ことを知ってしまった。



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