第90話 少女は、幸せの余白を知る
日々は、あまりにも穏やかだった。
春になりきらない陽光が、街路を淡く照らし、
それがまるで、二人の歩み出しを祝福しているかのように思えた。
暗闇しか知らなかった少女にとって、
この日常は、出来すぎている。
柔らかすぎて、指の隙間から零れ落ちてしまいそうなほど。
――どうか。
このまま、続いてほしい。
少女は、願ってしまう。
永遠を信じるほどの確信もないくせに。
相変わらず、通り過ぎる冒険者たちの視線は刺さる。
囁き声や、後ろ指。
けれど最近は、それらが少し遠くなった気がしていた。
慣れただけなのか。
それとも――。
「……違うか」
広場に面したベンチ。
噴水の水音を背に、少女はぽつりと呟く。
「なにが、違うの?」
「なんでもない」
影が、少女の上を横切った。
太陽の光を遮り、同時に、周囲の視線も切り離す影。
さきほどまで少女を肴にしていた冒険者たちは、
いつの間にか、散り散りに消えていた。
「お待たせ」
何事もなかった顔で、隣に腰を下ろすベガ。
片手には、買い物を済ませた袋。
「足りる?」
「これだけあれば、三日分くらいは生きていけるさ」
「わたしは……あんまり料理、できないよ」
「いいよ。オレがする」
あまりにも自然な返答。
その軽さが、逆に胸に引っかかる。
――こんな人の隣に、立っていていいのだろうか。
後ろ指をさされても、せめて恥ずかしくないように。
少女はほんの少しだけ、胸を張る。
ぴきり、と背中で小さな音がした。
「………そう」
人と一緒にいるのは、やっぱり疲れる。
慣れないことをしている自覚だけが、遅れてやってくる。
「もう一つ、行きたい場所があるんだけど。まだ大丈夫?」
「そんな大荷物で行ける場所があるなら……」
「これくらい、大したことないさ。……体力には自信あるよ」
ベガの小さなウィンク。
その仕草ひとつで、余計な思考が入り込む。
意味なんてないはずなのに、意味があるような気がしてしまう。
「今……ふざけたこと言った?」
「それは夜のお楽しみで」
「やっぱり、ふざけてるじゃん」
少女は勢いよく立ち上がる。
同時に、噴水が高く、空へと水を噴き上げた。
***
昼下がりの街は、緩やかだった。
人の流れも、音も、すべてが角を落としている。
少女は、気づけばベガの腕に寄り添って歩いていた。
それが自然であることに、少しだけ戸惑いながら。
「どこに行くの?」
「雑貨屋さん。生活するなら、あった方がいいものがある」
「意味……ある?」
「あるさ。レディの記憶がなくなっても……思い出すかもしれない」
一瞬だけ、ベガの表情が曇る。
「そうならないために……抗うんでしょ?」
「……そうだったね」
その会話の途中だった。
「――あれ」
横から、軽い声。
壁に背を預けた男。
気の抜けた笑みと、関西弁。
「偶然やなぁ。デート中?」
少女は、ほんの一瞬きょとんとする。
「……ヴル」
「名前、覚えてくれてたん?それだけで今日ええ日やわ」
ベガが、半歩前に出る。
露骨ではない。
けれど、自然に少女の前に立つ距離。
「……誰だっけ?お前」
「通りすがりの善良な大人や」
「怪しい人」
即答だった。
「ひどない?なぁ、彼氏さん」
ベガは一瞬だけ、ヴルを見る。
探るでも、睨むでもない視線。
「……今は時間がない。また今度、話そう」
「せやな。邪魔する気はないで」
ヴルは一歩引く。
「一緒に住んでるん?」
軽く投げるように。
少女が答える前に、ベガが頷く。
「そうだよ」
「へぇ」
短い笑み。
「洗濯物、溜まるやろ」
「……それは」
少女が少し困る。
「オレがやるから、問題ない」
「えらっ。そら大事にせなあかんな」
誰に向けた言葉なのか、わからないまま。
沈黙。
人の流れが、三人の間を通り抜けていく。
「ほな」
ヴルが手を上げる。
「今日はええ顔しとる。それが見れて十分や」
「……何それ」
「意味ない言葉や」
少女は一瞬考えてから、ふっと笑う。
「変なの」
「せやから、覚えんでええ」
ヴルはベガを見る。
「……大事にしたりや」
それだけ。
もう一度、少女に視線を向けて。
「ほな、またな」
振り返らずに言う。
「今日は――ちゃんと、幸せそうやから」
背中が、人混みに溶けていく。
少女はしばらく、その方向を見ていた。
「なにか、気になることがあった?」
「……ううん。……なんでもない……」
「変なやつだったな」
「……でも」
小さく、付け足す。
「悪い人じゃないと思う……」
ベガは、それ以上聞かない。
代わりに、少女の手を取る。
「行こう。日が暮れる」
「……うん」
二人は、また歩き出す。
まだ、知らないふりができる時間の中を。




