第89話 少女は、裏側で動く戦いを知らない
カラン、コロン―――
小さなベルの音とともに、ベガは店内へ足を踏み入れた。
静かなバーだった。
低く抑えられた照明と、グラスの中で氷が触れ合う音だけが、空気を満たしている。
ベガの腕には、いくつもの傷。
新しいものも、古いものも混じり合い、無言のまま今日一日を語っていた。
店員はその姿を見るなり、何も聞かずに奥の席へと案内する。
人目を避けるように設えられた、黒いソファ。
「……はあ」
深く、息を吐く。
身体が重かった。
どさり、と腰を落とすと、ソファは低く沈み込む。
同時に差し出される、いつもの酒。
透き通った茶色の液体が、氷の角を美しく際立たせていた。
「おつかれさん。初日から、だいぶ行かれてもうてるやん」
隣で白い小瓶を傾けながら、ヴルが言う。
「自分、そんなんで持つんか?」
「黙れ。負け犬」
「おー、こわっ!」
軽口。
けれど、その空気はどこにも転ばない。
敵意にも、親しみにも、完全には染まらない。
この男に呼び出され、来てやった。
その結果が――これだ。
カミサマの刺客。
一度や二度ではなかった。
すべて撃退したが、消耗は隠せない。
「オレを殺したいのか? お前。まさか、カミサマ側に寝返ってないだろうな?」
「お前のことは嫌いやけどな。そないなことするわけないやろ」
返答は軽い。
軽すぎるほどだ。
「……本当か?」
ベガは、この男が分からない。
つい先日まで、同じ少女を巡って睨み合っていた。
それなのに、ヴルはあまりにもあっさりと身を引いている。
仕掛けてもこない。
探りも入れない。
「どういう風の吹き回しだか」
酒に手を伸ばし、一口含む。
ようやく、喉を通る“まともな酒”の感触に、わずかに肩の力が抜けた。
「ちゃうねん。わいなりの考えがあんねん」
「お前に……考え、ねえ?」
「始まる前からネタバラシする趣味はないねん。せやけど、優しいヴルさんからヒントや」
白い小瓶を揺らし、楽しげに。
「“今は”――お前に譲る、っちゅー意味や」
「あん?」
細められた瞳の奥に、かすかな執念が宿る。
少女のことなど、どうでもいいとでも言うような口調。
それでも、言葉の端々に引っかかりが残る。
「そもそも…。あの子のお前に関する記憶は、全部消滅している。今さら、その薄っぺらい顔さらして、何の意味があるんだ?」
「……記憶に残らんでも、出来ることはあるんや」
「カミサマの目をかいくぐって?お前に出来ることなんてあるのか?すごい魔法でも編み出したのか?」
「わいは正面から喧嘩売る気はさらさらないで。お前みたいに、自分の身ぃ守れるほど強ないしな」
「じゃあ、諦めたってことだ」
ベガは淡々と言い切る。
「負けだよ。おとなしく下がって、指でもくわえて見てろ」
嘲笑交じりでヴルは、けらけらと笑った。
「…最後の記憶に残ってたモンの勝ちや」
意味を測る気はなかった。
測ったところで、今は不要だ。
「………」
ベガは何も言わず、涼しい顔で酒を飲み干す。
最後の一滴まで、きれいに。
「で。ここまで人を呼びつけて、要件は何だ?」
「……わい、性格悪いねん」
「知ってる」
小瓶をくるくると回しながら、ヴルは言った。
「頭ン中お花畑で浮かれとる今のお前の顔と……数日後のお前の顔、比べたいだけや」
それは――
“これから起こること”を、すでに知っている者の目だった。
「……帰る」
ベガは立ち上がり、代金だけをテーブルに置く。
「おきばりやすー」
下品な笑い声を背に、店を出た。
*
春の夜風が、星の配置をわずかに揺らす。
店が連なる通りの光と影、その境目に――異物の気配が滲んだ。
(……また、来たか)
歓迎というにはあまりに露骨な執念。
ベガはそれを拒まず、むしろ真正面から受け取る。
杖を引き抜くと、闇がざわめいた。
蠢くそれは、形を持つ前から「欲望」だけを孕んでいる。
少女を奪うためだけに送り込まれた、カミサマの意思。
「――そこまでして、オレに消えてほしいのかよ」
低く吐き捨てた声に、怒りはなかった。
あるのは、確信に近い対抗心。
「残念だけどさ」
杖先に灯った小さな炎が、呼吸に合わせて脈打つ。
鼓動と同調するように、熱が増していく。
「あの子は――オレのもんだ」
炎が、爆ぜた。
空気が歪み、熱が街路を押し広げる。
燃え落ちた木屑の向こうから、巨体が姿を現した瞬間、
ベガの魔力は一段、踏み込んだ。
守る。
奪わせない。
触れさせない。
そのすべてが、炎に変換される。
「ここまでオレに執着するってことは……よっぽどオレの存在が不都合なんだろ。焦ってるのか?」
笑みが浮かぶ。
それは挑発であり、宣言だった。
「だったら見せてやるよ。――誰が、最後まで手放さないか」
炎が渦を巻き、夜を喰らう。
ベガの対抗心は、もはや感情ではない。
意志だ。誓いだ。確信だ。
カミサマがどれほど手を伸ばそうと、
少女に届く前に、すべて焼き尽くす。
「明日まで?違うな」
杖を振り抜く。
「――一生、死なせる気はない」
爆炎が夜を裂いた。




