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ナナシと呼ばれた魔法使いが、神に拾われ魔王と恐れられるまで  作者: こいち


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第88話 少女は、甘さに身を預けることを覚えはじめていた

ひとしきり、泣いた。

声を殺すことも、強がることもせず、ただ流れるままに。


初めてだった。


こんなにも無防備に、素の自分をさらけ出したのは。

目元は赤く腫れ、瞬きをするたびにしょぼしょぼする。

身体にはまだ違和感が残っているのに、

心だけが、ふっと軽くなっていた。


――この優しい手が、そうさせているのかもしれない。


「……落ち着いた?」


少女は小さく、けれど確かにうなずいた。

まだ、甘えたい。

もう少し、この温度の中にいたい。

自然と、少女はベガの胸元へと頭を傾ける。

拒む理由もなく、彼の腕が背中に回された。

包まれる、という感覚。

守られている、というよりも――一緒に在る、という距離。


「このまま……泊まっていく?」


「だめ」


即答だった。


「えー。この状況で?」


身を起こしたベガは、本気で驚いた顔をしている。

その表情があまりにも素直で、少女はくすりと笑ってしまった。


「また今度」


人差し指で、彼の鼻先を軽く押す。

意地悪なお預け。


「今は……準備があるから。ちょっと待って」


「ああ……そうか」


デネラの家に泊まっている少女が帰らなければ、きっと騒ぎになる。

本当は、離れたくない。

それでも今は、戻らなければならない場所がある。

少女は、あえて――

普段なら絶対に口にしない言葉を選んだ。


「その……一緒にいたい、とは……思ってる、から」


言った瞬間、後悔が押し寄せる。

あまりにも、自分らしくなくて。

恥ずかしさに耐えきれず、少女は視線を伏せた。


「……うれしいよ」


顎をすくわれ、逃げ場はなくなる。


「かわいい」


「……やめて」


耳まで熱が伝わるのが分かる。

今の自分が、どんな顔をしているのか――想像したくなかった。


「……返したくなくなってきた」


抱きしめる腕に、力がこもる。

耳元で落とされる低い声が、胸の奥を甘く震わせた。


「……泣きたく、なるから」


この甘さに、まだ慣れない。

一度溺れれば、戻れなくなる気がして。

幸せを信じるには、早すぎる。

明るい未来が、自分に用意されているとも思えない。


だから――

今だけは。

今だけは、この余韻に、身を委ねさせて。





夕方。

少女は名残惜しそうなベガの隣を歩き、デネラの家を目指す。

家が近づくにつれて、土の匂いが濃くなっていった。


「明日まで……ちゃんと生きてね」


「ずいぶん不吉なことを言うね」


繋いだ手から伝わる体温が、

彼が“生きている”ことを、確かに教えてくれる。

自分で言ったはずなのに、

明日、この手が冷たくなっているのではないか――

そんな想像が頭をよぎり、少女は首を振った。


「おかえりー。ずいぶん長かったね?」


気づけば、もうデネラの畑の前だった。

小麦色の肌。

大地のようにたくましく、逞しく、そしてあたたかい人。

汚れも気にしない明るい声と笑顔が、少女の帰りを迎えた。


「……あれ?ベガさんも一緒?」


「ちょっと……話したいことがあったから」


「ふぅん……それって、その手と関係ある?」


「え?」


視線の先にあったのは、

無意識のまま繋いでいた手。


「あ……」


慌てて振りほどく。


「へぇ……なるほど、なるほど」


デネラは意味ありげに笑った。

土にまみれた手で額の汗を拭う、その仕草がやけに自然だった。


「いいじゃん」


その一言が、妙に胸に染みる。


「あの……デネラ。一つ、言いたいことがある。突然のことで、驚くかもしれない…けど」


「なに?」


「わたし……出ていくね」


「………え?」


デネラは言葉の意味を理解できないようだった。


「と、突然だね! 恋人なら、いつでも会えるでしょ?ナナシちゃんって、そんなロマンチックだったっけ?」


恋人。

その言葉に、胸がきゅっと鳴る。

否定したい気持ちは、確かにあった。

けれど、ベガの嬉しそうな表情を見て、何も言えなくなった。


「違うんだ。オレがそうしたいだけで……無理やり納得させたんだ」


「強引じゃない?」


事情を飲み込み、ベガは少女を庇うように前に出る。


「オレだから、許される」


「うわぁ……ナナシちゃん、本気?この人、絶対遊び慣れてるよ。泣かされるよ?」


「……それなら、それで」


「淡泊だなぁ。すぐ飽きられそう」


「飽きられないように、繋ぎ留めるさ」


長続きしないと思われても、不思議ではない二人。

けれど――

その奥には、言葉にできない絆があった。

秘密を共有した重み。

それだけで、十分だった。


「じゃあ、明日迎えに来る。準備しておいて」


夕日に溶けていくベガ。

最後まで手を振る姿を見送りながら、少女は家の中へ入る。

強い風が背中を押した。

――小さな春が、確かに訪れていた。

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