第87話 少女は、一筋の光にたどりつく
ベガに連れられて辿り着いたのは、街へ踏み込む一歩手前。
喧騒からわずかに距離を置いた場所にある、下宿先だった。
「ほら。やっぱり豪邸じゃないだろ?」
その言葉通り、ここに腰を据えるつもりがないのは明白だった。
「仮の住まいさ。まだ来て日も浅いしね。いい物件が見つかったら移るよ」
それが真実か、嘘か。
その表情からは読み取れない。
「段差あるから、気をつけて」
差し出された手は、あまりに自然で――
嫌になるほど、女性慣れしていた。
少女はあえて触れず、小さな段差を軽く跳び越える。
そこが、門だった。
門の先には、草蔓に壁を覆われた二階建ての宿屋が建っている。
年季は入っているが、静かな場所だった。
中では宿屋の主人らしき人物がカウンターに立っており、
ベガは軽く会釈をする。
「泊まるのか?」
主人の眉がわずかに動き、少女は足を止めた。
「いや。少し部屋で話すだけだ。泊まらないよ」
それだけ告げると、ベガは少女の手首を引く。
主人は深追いせず、大きなあくびを一つした。
2階にあるベガの仮住まいは、西にいた頃と大差なかった。
質素なベッドが一つ。それがそのままリビングの一部になっている。
簡易的なソファと、奥には小さなキッチンとダイニング。
必要最低限。
だが、長期滞在を想定したつくりだった。
ベガは手を離さないまま、少女をソファに座らせる。
「なにか温かいものを入れてくるよ。ホットココアでいい?」
「……ずいぶん甘いね」
「溶かしたいから。レディのことを」
「そういう意味じゃないし……」
軽口。
余裕という名の距離を、見せつけられる。
ほどなくして、チョコレートの香りをまとった湯気が立ち上る。
白いマグカップの中には、どろりとした茶色。
揶揄されているようで、少女は顔を歪めた。
「甘いの、嫌い?」
飲み物に罪はない。
一口含めば、喉の奥でじんわりと広がる甘さが、心を緩めていく。
「……ふつう」
「それなら良かった。熱いから気を付けて飲んでね」
ベガも同じココアに口をつけた。
少し落ち着いた頃ーーー
「本題に入ろうか。オレは、レディを返したくない。カミサマの元へ」
少女はマグカップを膝に置く。
太ももに伝わる熱が、現実感を伴ってそこにあった。
「もう一度言うよ。引き返すなら……今…」
「ユウゴにも言われた。もちろん……拒否したさ」
ベガはマグカップをローテーブルに置く。
「オレの覚悟は、もう決まってる」
肩に腕が回され、距離が一気に縮まる。
胸元から伝わる体温。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
「時間がかかってもいい。全部、話してみて」
少女の身体に、じわりと熱が満ちる。
温かい飲み物のせいだけではない。
視線から、逃げられない理由が――そこにあった。
「わたしは……」
瞳に涙が浮かぶ。
話そうとすると考えがまとまらない。
でも、伝えたいことはただ一つ。
「本当は……辛かった」
声が震える。
溜め込んできた不安が、堰を切る。
涙が頬を伝った。
「この世界とは……別のところから来た。目覚めた時、空の色が違って……びっくりした」
魔法の原理も、攻撃も防御も分からない世界。
無能だと悟るには、十分すぎた。
虚勢を張るので精一杯だった。
追いつくのに、必死だった。
「……そんな時、あの人に出会った」
声が、少しだけ和らぐ。
「優しくて……全部、受け入れてくれた。住む場所も、守ってくれる魔物も……用意してくれた」
セル。
マンドラゴラ。
少女は、アストレイルという名をあえて口にしない。
呼べば、届いてしまいそうで。
「星降る場所……あそこが、秘密の空間だった。静かで、何もなくて……落ち着く場所だった」
いつからだろう。
それが、恐怖に変わったのは。
「いつの間にか……あの人の目が変わった。執着が、見えるようになって……気づいたら、身も心も……」
「記憶は?」
首を横に振る。
「覚えてない。……吸い込まれるみたいな瞬間があって、目覚めると……身に覚えのない痕が残ってる」
首筋。
胸元。
腕。
脚。
意志と無関係に刻まれた、罪の痕。
「あの空間では……考えてること、全部伝わる。少しでも考えると……あの人、笑うんだ」
「……悪趣味だな」
「おかしいって分かってる。でも、逃げられない。……必ず、戻るように布石を打たれてるから」
「それが、ユウゴの件と関係してる?」
少女はココアを一口飲む。
「ユウゴは……半殺しにされた。放っておけば死ぬって分かってた。でも……わたしが見つけるって、分かってた」
脅迫。
見せしめ。
「治したのは……わたし。ユウゴは傷ついたっていう記憶も、幸いない。だから……言わない。これからも、ずっと」
「オレも言わない。約束する」
目を伏せる。
胸に刺さる罪悪感。
「オレは、簡単には死なないよ。凄腕冒険者だからね」
「……絶対?」
「……絶対に」
「……わたしも、守る、ね…」
共有した瞬間、狙われることは分かっていた。
「オレはレディの足枷にならないよ」
毛糸が、少しずつほどけていく。
少女の顔に、かすかな光が差した。
――この人となら、共に歩いてもいいのかもしれない。
そう思えた。
「前の世界のこと、聞いてもいい?」
「……幻滅、しない?」
「今さらだ」
「……そう」
記憶は曖昧だった。
最悪な暮らしと、街並みだけが残っている。
身体を売った日。
落ちたパンを拾った日。
凍える指を息で温めた日。
「戻れないのは、分かってる。あの世界には、なにも……残ってないから」
「今、レディがここにいるのは…カミサマが、連れてきたのかな?」
「たぶん。……“また会えた”って言われた。どこかで、繋がってる」
運命に導かれるように。
「わたしはあの人に、逆らえない。自由なのに……鳥かごの中みたいで……全部、手のひらの上」
「何言ってるんだ。レディは、自分の意思でここにいるだろう?」
「本当に……? 記憶だって……本当に、自分のものか分からないのに……」
頬に、温かい唇が触れる。
チョコの香り。
「記憶も…自分の意志でさえ、操作されてると思う」
言葉は止まらない。
「気づけば…全部、忘れてしまう……」
マグカップは、いつの間にかテーブルの上。
「わたしは……本当に、わたし…なの…?」
両頬を包む、大きな手。
涙に歪む自分が、彼の瞳に映る。
「レディは、レディだよ」
唇が重なる。
熱い吐息が、何度も交わる。
それでも少女は、不安を吐き出す。
「……っ……わたしが……なにをしたって……いうの?」
頭がぼうっとする。 思考がうまくまとまらない。
「なんで……っ………わたし…なの?」
「レディ。……今まで、大変だったね」
強く、抱きしめられる。
利き腕の痛みさえ、遠のくほどに。
「……壊れないで」
確証が、欲しかった。
「生き抜いて」
「レディのために………生きることを誓うよ」
優しい、短いキス。
零れ落ちる涙を、男はすべて掬い取った。
――けれどその甘さの底で、
少女はまだ、自分の名前を完全には掴めずにいた。




