第86話 少女は、不自然な鼓動を確認する
少女の三歩後ろを、ベガが歩く。
靴音は揃わない。
小さく刻まれる少女の歩幅に、ベガの長い足はすぐ追いついてしまうからだ。
近すぎず、遠すぎず。
意識しなければ保てない距離。
「……うっとおしいと思ってるだろ?」
背中越しに投げられた声に、少女は振り返らない。
「わかってるなら、ついてこないでよ」
「同じ道だからね。しょうがない」
涼しい顔のまま、ベガは一歩を大きく踏み出す。
歩幅を揃え、自然に少女の隣へ出る。
「なにも言わずに帰ってよかったのかい?ユウゴさんに挨拶もしないなんて」
「……白々しい」
ベガは表情を崩さない。
「どうしてそう思う?」
「不自然だから」
それ以上、少女は語らない。
理由を聞きたい衝動を抑え、ベガは横目で彼女を覗き見る。
「……レディの声、もっと聞きたいな。あの夜みたいに」
少女の足が、わずかに止まる。
「……あんたが探りたいみたいに、わたしにも踏み込まれたくない領域がある」
忠告だった。
ユウゴとの関係を言いふらされたくないなら、近寄るな、と静かに線を引く声。
「レディは優しい。そんなこと、しないよ」
隠す必要はない。
ベガはそう判断した。
一拍置き、呼吸を整える。
「オレの本音を、聞いてくれないか」
次の瞬間、細い腕を掴み、茂みの中へ引き込む。
どさり、と鈍い音。
体勢を崩した少女は、ベガに押し倒される形で倒れ込んだ。
「オレはね、レディが抱えてるものを吐き出してほしいんだ」
紫色の瞳を、真正面から捉える。
「軽くしたい。共有したい。一人で持つには、重すぎるだろ」
視線が逸れるのを、ベガは知っていた。
「……大きなお世話。なんの義理が――」
言葉の続きを、唇が塞ぐ。
「……っ……!」
逃げようとする頭を片手で押さえ、
もう片方の手で抵抗する腕を抑える。
深く、息を奪うように。
何度も、確かめるように。
「ん……ぅ……」
力が抜けていくのが、はっきりと分かる。
拒絶が、受容へと溶けていく。
——こうやって、溶かしたい。
静かな熱に、沈んでほしい。
唇が離れ、浅い呼吸が零れる。
「……はぁ……なん、で……」
「レディは甘えるのが下手だ。だからオレが、どろどろに甘やかす」
「意味……わかんない……」
乱れた髪を整え、額に軽く口づける。
「オレは簡単には死なない。強いからね。レディが恐れてることには、ならない……ユウゴみたいには」
濡れた瞳。
柔らかな頬を、指先でなぞる。
「一度踏み入れたら、戻れないよ」
「それでいい」
——甘えてくれ。
深く、深く。
「……でも」
「誰でもよかったわけじゃない」
言葉が、少しだけ揺れる。
「黙って耐える子だって分かったから、オレは口を開いた」
必死だった。
それだけは、嘘じゃない。
「これからも一緒に生きたい。だから今の重さを、分けてほしい」
言葉だけが、意図的に残される。
少女の顔は、感情を押し殺したまま。
唇が、かすかに震える。
「……背負う覚悟、あるの?わたしは……守り切れないよ?」
「負担になりたいんじゃない。一人で背負わせたくないだけだ」
指先に、見えない重さが集まる。
言葉にならないものが、行き場を失って滞留している。
「それとも……オレじゃ、不満?」
少女は息を吸う。
深くも浅くもない、ごく自然な呼吸を一つ。
「……そんなこと、ない……」
感情はまだ語られない。
けれど、逃げ場を探してもいなかった。
「その顔、嫌いじゃない」
「……重いよ……」
それは告白でも、拒絶でもない。
ただ——扉を、ほんの少しだけ開くための言葉だった。




