第85話 少女は、淡く薄く溶け込む
家は、相変わらずだった。
手入れの行き届いた庭でもなければ、荒れ果ててもいない。
暮らす人間の性格が、そのまま形になったような――
無骨で、実直で、少しだけ不器用な家。
ベガは門の前で足を止め、無意識に息を整えた。
(……さて)
扉を叩く前から、もう気配はある。
家の奥、窓の向こう。
確かに、いる。
それも――
思っていたより、ずっと近い距離で。
ベガはわずかに目を細めた。
ドア越しに、会話が聞こえてくる。
『ちょっと……やめて』
『大丈夫だって。入るよ』
『むり……大きすぎ……これ以上は、こわれちゃう』
小声で、熱を帯びたやり取り。
一瞬、思考が止まった。
(……は?)
ついさっき、
自分はデネラに「二人の関係を心配する必要はない」と言ったばかりだ。
それなのに――まさか。
ベガはドアの前で足をそろえ、改めて息を整えた。
「やあ、おはよう」
軽い口調。
いつも通りのベガ。
“何も知らない大人”の顔。
「ベガさん。おざーっす!」
室内の光景を見て、拍子抜けする。
今にも壊れそうなテーブルの上でサンドイッチを頬張るリブ。
そして勝手口のあたりで、巨大な蛇を制している少女。
振り返った少女の顔は、ひどく静かだった。
驚きも、警戒も、ほとんどない。
「……なんだ、そういうことか」
ベガは小さく胸をなで下ろす。
「どういうことだよ?」
会話だけ聞けば誤解する。
だが、状況を見ればすぐにわかった。
裏の勝手口から、
少女の守護者である大蛇が無理やり入ってこようとしていたのだ。
「セル、下がって」
「ちょっとぐらい壊れたって問題ねぇだろ。あとで直す。そいつも中に入りてぇんじゃねぇの?」
勝手口が、ミシミシと音を立てる。
木製の扉は、今にも限界だった。
巨大な影が、ゆっくりと身をくねらせる。
「あとでオレの豪邸に招待してやる。今日は下がった方がいい」
「……だって。セル、またあとで」
大蛇は従順に身を引き、
その影は朝の光の中に溶けて消えた。
「家に来てくれるんだ。嬉しいね」
「豪邸なんて、ないでしょ」
「あるかもしれないよ。新居、まだ教えてないだろ?」
「その日暮らしの冒険者に、家なんて……」
淡々とした声。
感情の起伏は、読み取れない。
「似合わないこと、しないで」
「その目で確かめに来るといい」
軽口。
大人の余裕。
そして――ほんの少しだけ、踏み込む。
「それで、レディはこんなところで何をしているのかな?」
ベガは、少女を一度だけ真っ直ぐに見た。
少女は、答えない。
だが、その沈黙は拒絶ではなく、
ただの“選択”だった。
「……親父が」
沈黙を破ったのは、リブだった。
「昨晩、飲みに出かけてさ。帰り道、道端で倒れてたらしいんだ。ナナシが見つけて、蛇と一緒に運んできてくれた」
一瞬だけ、少女の視線がリブへ向く。
ベガは見逃さなかった。
(…なにかを…隠してるな)
「へえ。レディが人のために動くなんて、珍しい」
「別に……風邪ひかれたら、面倒だし」
ベガは笑う。
その裏側を悟られないように。
「だからこの家は静かだったんだね。親父さんは、まだ寝てるのかな?」
「あー……そうかもな。起こしてくるか?」
「……いや」
少女が止めかけた、その時。
奥から、紙がばさばさと落ちる音。
「とてつもなく悪い夢と、良い夢を見た気がする」
ユウゴが、奥の部屋からのっそりと姿を現した。
そして、ベガと目が合う。
――何をしに来た。
そんな視線。
「おはよう」
「ああ。おはよう。……それに、君もいたか」
視線が、少女とリブを経由して、再びベガへ。
「で、こちらさんは?」
ベガはにっこりと笑う。
「ハジメマシテ」
昨晩、杯を交わした男の前で。
何事もなかったかのように。
「はじめまして」
ユウゴの視線が告げる。
――余計なことは言うな。
ベガは、わずかに頷いた。
「親父。西の街ノクスウェルで会った冒険者だよ!」
「ああ。……“ベガさん”、だったかな?」
「そうそう」
「息子が世話になった。礼を言おう。ありがとう」
「大したことはしてないさ」
大人の余裕。
その仮面の内側で、状況を測る。
「……仲が、良くなったのか?」
「は?俺とナナシが?冗談もほどほどにしろよ。今も昔も犬猿の仲だぜ。な?」
少女の視線が、鋭く刺さる。
「……いや、嘘。仲良くなった。一緒に飯も食った。な?」
少女は、小さく頷いた。
怪訝な顔をするユウゴとベガ。
(……やっぱり、何かある)
「そんなことより親父。昨晩のこと、どこまで覚えてる?」
話題を切り替えるリブ。
ユウゴはあえて答えを言わず、問い返した。
「醜態を晒したか?」
「……どうなんだ?」
リブは少女に視線を投げる。
「昨晩……というか、明け方……」
少女は言葉を探し、間を置いた。
「倒れてた。デネラの畑の近くに」
「俺が?」
「そう」
歯切れの悪さ。
「……何も、覚えてない?」
背中越しの問い。
「正直、うろ覚えだ。酔って帰った気もするが……はっきりしない。最後に……君に会った気もする」
昨晩、別れたときのユウゴの足取りは確かだった。
酔いはあったが、判断を誤るほどではない。
それに、別れたあとで飲み直すような男ではない。
金を持ち歩く性格でもない。
何より――
あの酒豪が、ここまで覚えていないほど酔うだろうか。
その違和感だけが、ベガの胸の奥に、静かに沈んでいった。
「……そう」
少女の緊張が、わずかに解けた。
「……水、飲みたい」
「あ、ああ。案内する」
少女が立ち上がると、リブも即座に続いた。
二人が勝手口へ向かうのを合図に、ユウゴが顎で「ついてこい」と示す。
ベガは無言で従った。
案の定、二人は水など汲みに行っていなかった。
家の裏手。
土の匂いと、まだ冷たい朝の空気。
井戸のそばで、声が交わされる。
「良かったな。親父、何も覚えてないみたいで」
「……でも、怪しまれた」
「そりゃそうだろ。俺だって説明もらってねえんだし。ーーーなんで血まみれで倒れてたのか」
ベガは、息を飲んだ。
(……血まみれ?)
だが、ユウゴ本人は無傷だった。
「声が大きい」
少女は、さらに声を落とした。
囁きというより、空気に溶かすような音量だった。
「だけどよ……」
リブの不服そうな声が続く。
納得できない、飲み込めない――そんな色がにじんでいる。
だが、少女はこれ以上、踏み込ませない。
それだけは、ベガにも分かった。
先ほどのやり取りで、少女の目的はすでに果たされている。
確認したかったのは、ただ一つ。
――ユウゴが、何も覚えていないこと。
それに、意味がある。
その事実さえ分かれば、彼女にこれ以上語る理由はない。
ベガは物陰から、少女の背中を見つめた。
細く、華奢で、少し前のめりなその姿。
あんな小さな身体に、どれほどの“言えないもの”を抱えているのだろう。
吐いてしまえば、きっと楽になる。
だが、少女が外に出す言葉は、いつも毒だ。
誰かを遠ざけるための、鋭い毒。
「この話は終わり。……もう帰る……」
きっぱりと、感情を切り離すように言う。
「おい!待てよ!!水は?」
「いるわけ……ないじゃん。こんな貧乏人の家に、長居するつもりはない」
「悪かったな!」
投げ合う言葉は荒れているのに、
そこに怒りはなく、ただ距離を保つための棘だけがある。
この先も少女は、闇に怯えながら生きていくのだろうか。
すべてを内側に抱え、
関わること自体を、やめてしまうのだろうか。
「レディ」
思わず、声が出た。
呼ぶつもりなど、なかったはずなのに。
「あ……」
少女だけが、一瞬だけ視線を伏せる。
「ベガさん、どうしたんですか?」
「レディの顔を見に来ただけさ。帰るって聞こえたから……だったら、オレも帰ろうと思っただけ」
「やだよ。一人で帰る」
「冷たいことを言わないでおくれよ」
それ以上、踏み込まない。
踏み込んでは、いけない。
その判断を、
春の冷たい空気に溶かすようにして、
ベガは胸の奥へ、そっと押し込んだ。




