第84話 少女は、何事もなかった朝の中にいる
デネラは、母の包丁の音で目を覚ます。
規則正しく刻まれる、乾いたリズム。
鼻歌混じりの息遣い。
台所から漂ってくる、朝ごはんの匂い。
目覚まし時計なんて必要ない。
この家では、朝はいつもそうやって始まる。
今日も空はよく晴れていた。
……はずなのに。
鳥のさえずりが、聞こえなかった。
耳を澄ます。
代わりに、外で誰かの会話を聞いた気がした。
確信はない。ただ、引っかかる。
デネラはゆっくりと廊下を歩き、少女の部屋の前に立つ。
軽く、ノック。
返事はない。
「ナナシちゃーん。開けるよ?」
そう声をかけてから、そっと扉を押した。
――空っぽだった。
布団は乱れておらず、
まるで最初から誰もいなかったかのような部屋。
心臓が一拍、遅れる。
「……っ」
デネラは階段を、転げ落ちるように駆け下りた。
「なんだい、デネラ。朝から騒々しいね」
「い、いないの! あの子! あの子は――!」
「ああ……あの子ってのは、『その子』のことかい?」
母の指差す先。
そこには、テーブルに皿を並べている少女がいた。
あまりにも自然に。
背景の一部みたいに。
だから、気づくのが遅れた。
「……なに」
「ごめん、ごめん。おはよ〜……ちょっと寝ぼけてたみたい」
慌てて取り繕いながら、デネラは横歩きで洗面所へ向かう。
背中越しに、
「変な子だねえ」という母の呆れ声が聞こえた。
――早とちりもいいところだ。
部屋にいない=出ていった、なんて。
一度、顔を洗って冷静になろう。
「……ふーっ」
水で顔を冷やしながら、ふと思い出す。
早朝に聞こえた、あの声。
……リブの声だった気がする。
「やっぱり……気のせいだよね」
食卓には、色とりどりの野菜。
湯気の立つスープ。
けれど、リブの姿はなかった。
「なにが気のせいなんだ?」
独り言は、この家では成立しない。
父が、パンを咥えたまま口を動かす。
「いやー。夢かな? リブの声が聞こえた気がして」
レタスをひと口、放り込む。
「……気のせいじゃ、ないよ」
静かに言ったのは、少女だった。
この家に来てから、まだほとんど声を出していない。
その第一声に、全員の視線が集まる。
デネラは思わず、喉を詰まらせそうになる。
「朝、ちょっと畑を見てた……ら、リブに会った。あとで、ご飯……持っていきたいんだけど……だめ、かな?」
「ももももももももちろん!!」
「ええ、ええ。いいわよ!」
「どうせ食い切れねぇんだ! なんでも持っていけ!」
三人は一斉に立ち上がった。
「……ありがとう……」
少女はそう言って、牛乳をひと口飲み込む。
それだけなのに、
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
朝食後、母はバスケットにサンドイッチを詰めてくれた。
「一人で行くの? あたしも一緒に――」
畑着に着替えながら、デネラは言いかける。
「大丈夫。一人で行く」
即答だった。
「喧嘩にならない? リブのこと、嫌いなんじゃなかったっけ?」
「……きらい、だけど……返してもらわないと、いけない、から」
「……え?」
説明は、そこで終わり。
疑問だけを残して、少女は出ていってしまった。
華奢な背中を見送りながら、
デネラは小さく息を吐く。
もやり。
胃の奥に残る、ほんの小さな重さ。
名前のつかない、窮屈な感覚。
「……食べ過ぎかなあ」
首のタオルを巻き直す。
畑仕事を始めると、
そのもやもやは、土と一緒に掘り返されていった。
身体を動かすと、考え事は薄れる。
春は、もうすぐそこだ。
「やあ。仕事熱心だね、デネラ」
「ベガさん!?どうしたの。こんなところに」
いつの間にか現れたベガに、駆け寄る。
「あー……いや、用ってほどでもないんだけど」
視線が、自然と周囲を探す。
デネラはため息をついた。
「ナナシちゃんなら、リブの家に行ったよ」
「……っ」
「顔に出すぎ」
「そ、そうかぁ……」
苦笑いを浮かべるベガ。
「みんな、ナナシちゃんばっかりだね……あたしも、あの子みたいに魅力的になりたいな」
「デネラは十分魅力的な女性だよ?」
「違うよ。ちがう。だって、あいつはあたしのことを見てないもん」
脳裏に浮かぶのは、リブ。
ずっと隣にいた幼馴染。
――もやり。
忘れていた胃もたれが、胸に戻る。
「もしかして、嫉妬してる?」
「誰が? 誰に? 嫉妬??」
「若いね。青春だ」
頭をぐしゃっと撫でられる。
「大丈夫。レディとリブは、君が心配するような関係にはならない。俺が保証する」
「別に、心配なんて――」
「そうか、そうか」
髪を整えながら、デネラは少しだけむっとする。
「お詫びついでに数多の女性を口説き落としたベガさんが、アドバイスを送ろう。今度、リブをよく見てみるといい。あの子が君を見る目を」
「なにそれ」
「さあね?」
ウィンク。
それは……効く人には効くのだろう。
デネラには通用しなかった。
「じゃあ、また」
白馬が似合いそうな背中を見送りながら、
デネラは気づく。
「あれ……胃もたれ、治ってる」
もう、何も引っかからない。
少女のことを考えても、
リブのことを考えても。
あの気持ちが、何だったのかは分からない。
一人の男の子しか知らないデネラには、
少しだけ、難しすぎる感情だった。




