第83話 少女は、奇跡の朝に日常を迎える
リブの朝は早い。
まだ日も上がりきっていない時間に、顔を洗うため洗面所へ向かう。
長い冬は終わった。
春が、もうそこまで来ている。
あの頃のように、気合を入れて冷水を浴びる必要もない。
「はーーーっ」
顔を洗うと、頭の奥が少しずつ冴えていく。
タオルで水気を拭いながら、久しぶりに変わらぬ我が家を見回した。
――静かすぎる。
そのことに、遅れて違和感が追いつく。
「……親父?」
暖炉の火は落ちたまま。
昨日は、友人に奢られると嬉しそうに出かけていったはずだった。
滅多に見ない父の上機嫌な背中を、妙に覚えている。
けれど、帰ってきた気配がない。
「……帰ってきてるのか?」
ユウゴの部屋をノックしても返事はなく、
無断で開けると、散らかった机だけが残されていた。
「まさか……酔いつぶれてねーだろうな」
いい歳した大人が、路上で寝転がっているとは思えない。
冬なら最悪だったが、春先なら風邪で済む――そう考えようとした。
「……迎えに行ってやるか」
伸びをしながら、鼻歌まじりで街へ続く道を歩き出す。
朝日が顔を照らした。
思わず目を細める。
……違う。
眩しすぎる。
これは、ただの朝日じゃない。
「なんだ……?」
光の方へ、歩を進める。
慎重に。
けれど、自然と足は速くなる。
先に鼻を突いたのは、血の匂いだった。
鉄が混じる、はっきりとした臭気。
「……おいおい……」
道の中央に流れる血。
乾いた大地に似つかわしくない、赤黒い色。
その先に、二つの影がある。
光源は――そこだった。
「っ……!!」
少女と、ユウゴ。
そう理解するまで、数秒かかった。
なぜなら、ユウゴの全身は黒に近い血で覆われていたからだ。
胸元には、抉られたような深い傷。
少女の震える手が、その傷を覆っている。
そこから溢れる、眩しすぎる光。
――嫌な感じは、しなかった。
包み込むようで、
押しつけがましくなく、
ただ、そこに在るだけの光。
「な、なにしてんだよ!!」
声が上ずる。
「黙って」
少女は振り返らずに言った。
「ちゃんと……治すから」
光の隙間から、血が流れ出す――
いや、違う。
時間が、巻き戻っている。
地面に染みた血が、生き物のように這い、
元の場所へ戻っていく。
道が、何事もなかったかのように、元の姿へ戻る。
リブが目を凝らすと、
光の内側で、ユウゴの傷が塞がっていくのが見えた。
同時に、光は力を失い、
ゆっくりと弱まり、少女の小さな掌に収まった。
「………」
少女は、ユウゴの胸元に耳を当てる。
――鼓動。
それを確かめて、
ようやく安堵したように、表情がほどけた。
冷たかった手に、温もりが戻る。
顔色も、生気を取り戻していく。
「……よかった」
ぽつり、と零れた言葉は、
祈りよりも、懺悔に近かった。
「……なにが、起きたんだよ……」
腰を抜かしたまま、リブは呟く。
奇跡を前に、理解が追いつかない。
「殺されかけた。それ以外は……分からない」
「……お前が、助けてくれたのか?」
少女は、答えなかった。
リブは、その場で深く頭を下げる。
「……ありがとう」
もう一度、低く。
「ありがとう」
「……やめてよ」
少女は、目を伏せたまま言う。
「弱いのがいけないんだから。感謝じゃなくて、謝罪が欲しい」
「自分の身は自分で守れってことか?」
「……そう。人に迷惑かけないで」
立ち上がる少女の姿は、
朝日に溶けてしまいそうなほど淡く、
リブは思わず息を飲んだ。
「違うだろ。少なくとも……お前が放ったあの光は、優しかったぜ」
デネラの家の煙突から、煙が上がる。
朝が、始まっている。
「ほら、親父を家に運ぼう。じゃないと騒ぎになる」
「……無理。重い」
「蛇かマンドラゴラ貸せよ。一瞬だろ。終わったら戻って、朝飯でも食ってこい。あ、俺たちの分も頼んどけ」
「………」
返事はない。
代わりに、背後から大きな蛇の守護者が現れた。
舌を小刻みに出し入れし、主の意思を汲み取る。
何も言わず、ユウゴの身体を持ち上げた。
「借りるぜ」
リブが軽く触れると、蛇は短く威嚇する。
「なんだよ、けちくせーな!」
悪態をつきながら、リブは背を向ける。
少女を、背後に残して。
何事もなかったかのように。
朝日は、いつも通りの暖かな朝を連れてきていた。




