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ナナシと呼ばれた魔法使いが、神に拾われ魔王と恐れられるまで  作者: こいち


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第81話 少女は、夜に置き去りにされていた

少女は、浅い呼吸のまま目を開けた。


闇の色が違う。


それが、最初の違和感だった。

天井は見慣れたものだ。


デネラの家の、簡素な梁。

借りている寝台も、布の匂いも、確かに現実のはずなのに――

どこか、輪郭が薄い。

胸の奥が、ひどく静かだった。

心臓は動いている。

体も、ちゃんとここにある。

それでも、何か一つだけが、置き去りにされたような感覚が残っている。


少女は、思い出す。

それは北の街、アルヴェルへ帰る途中。

ヴルの荷馬車に揺られていたときのことだ。


「ねえ、ナナシちゃん。戻ったら、どこに行くの?」


うつろなまぶたをこすりながら、少女は隣に座るデネラに小さく息を呑んだ。


「え……」


「レディ。オレの隣、空いてるよ」


間髪入れずに、ベガが割って入る。

その瞬間、荷馬車がガタン、と大きく揺れた。


「わるいわー。なんや、大きな石が落ちとったみたいやな」


ベガは盛大に横へ倒れ、リブは荷物の山に埋もれた。

少女は、デネラの豊満な身体に受け止められる形になる。


「ベガさんが変なこと言うからだよ。ナナシちゃんに、変なお誘いしないでくれる?」


「いやぁ、悪いね」


そう言いながらも、ベガの瞳は本気だった。


「あたしの家に来なよ。うちの両親には、よーーーーく言っておくからさ」


「言っちゃ悪いけど、お前の両親、ナナシと相性悪すぎるだろ。だったら、俺の家に来るか?」


出会いは最悪だったが、少女は一瞬だけ、リブの家に転がり込んだことがある。

築六十年以上の古い家。

北風は窓から容赦なく入り込み、扉は一晩中がたがたと鳴る。

考えただけで、住み心地は最悪だった。


「いや」


「即答かよ」


「藁のベッドは、いや」


「…………」


リブは何も言い返せなかった。


「ほら。やっぱり、あたしの家がいいでしょ。それとも……他に、帰りたい場所がある?」


「…………」


帰りたい場所――

帰ったら、どうなるのだろう。

また、彼らに会うことはできるのだろうか。

少女は、アストレイルのあの瞳を思い出し、ぞくりと背筋を冷やした。

その様子を横目で見て、デネラは少女の手をぎゅっと握る。


「ね?」


柔らかな声色。

思わず、その声に身を預けたくなる。


今だけ……今だけは。

現実から、目を逸らしてもいい。

少女は、瞬きを一度だけした。


……まだ、ここにいる。


少女を現実に引き戻したのは、布団にこもる熱だった。

春になりかけの夜気が、窓の隙間から忍び込んでいる。

外はまだ冷たいはずなのに、

肌にまとわりつく空気は、もう冬のものではない。


少女は、静かに身を起こす。

骨を挫いた後遺症が、鈍く体に痛みを走らせる。

声を押し殺し、

軋みを立てないよう、慎重に。

隣の部屋から、規則正しい寝息が聞こえた。

デネラは、眠っている。


それを確かめてから、少女は戸口へ向かう。

裸足のまま土間を抜け、扉を開けた瞬間、夜の匂いが流れ込んだ。

湿った土。

芽吹きかけの草。

まだ名もない、小さな春。

息を吸うと、胸の奥がひりついた。

理由は分からない。

分からないままの方が、きっと楽だった。


畑は、家のすぐ裏にある。

耕された土は黒く、ところどころに弱々しい若芽が顔を出している。

少女は、その端に立ち、空を見上げた。

星は少ない。

雲が、ゆっくりと流れている。

夜は深いはずなのに、

どこか、朝に向かっている匂いがした。




―――そのとき。


遠くから、足音。

千鳥足のような、不規則な歩調。


「やあ。久しいな」


ほんのりと赤く染まったユウゴの頬。

近づくにつれ、強烈な酒の匂いが鼻を突く。

少女の表情が、わずかに歪んだ。


「それ、リブに嫌われるよ……」


「うーん……まあ、そうだな。秘密にしてくれ」


不真面目な一面を見せるつもりはなかった。

だからこそ、誰も起きていない時間を選んだ――はずだった。

ユウゴは、少し気恥ずかしそうに頬をかく。

その手を、少女はそっと掴んだ。

口元に、怪しげな笑みが浮かぶ。


「……ねえ。わたしのこと、どこまで知ってるの?」


ユウゴは眉をひそめる。


「なんのことかな?」


「……“謙遜には知恵”、だっけ?」


一瞬だけ、ユウゴの顔が曇った。


「ふふ……今、顔が変わったね」


「なぜ、その一説を知っている……?いや、違うな……“お前”は、誰だ?」


「“正義”だよ。……お前は、あの子の道を惑わす、“悪”だ」


途端、少女の顔が、黒く染まる。

瞳は赤く、笑みだけがくっきりと浮かぶ。


「悪趣味だな」


その言葉を最後に、地面は、赤く染まった。



―――



少女は、畑の冷えた空気を、もう一度深く吸い込む。

吐く息が白くならないことに気づき、

春が来ているのだと、ようやく理解した。

戻りたくない、という感覚は、言葉にならない。

ただ、今はここにいる。

それだけで、十分だった。

少女は、畑の端にしばらく立ち尽くし、

夜が完全に明けないことを、

どこかで願っていた。

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