第80話 少女は、壊れないために守られている
なにが本当で、
なにが嘘なのか。
少女自身にも、もう分からない。
正解は、最初から用意されていなかった。
すがったはずの『正しい道』でさえ、
足元はひどく不安定で、
いつ崩れてもおかしくない。
最初から、なにも知らなければよかった。
誰とも関わらなければ、
こんな感情を知ることもなかった。
たとえ毒に侵されても、
身体が慣れてしまえば、それは“日常”になる。
怖いのは――
世界が壊れることではない。
信じていたものが、音もなく崩れていくこと。
諸刃の剣でもいい。
ハリボテの鎧でもいい。
虚像でも構わない。
守られている、という実感さえあるなら。
少女は、それで生きていけた。
***
某酒場。
夜も更け、時計の針は十時を回っていた。
西から戻った翌日、ヴルはユウゴに呼び出され、会員制の、秘匿性の高い個室へと足を運ばされていた。
いつも取引に使う場所を指定した。
二人だけの飲みかと思っていたが…実際に待っていたのは、顔も見たくない男付きだった。
「という内容だという結論に達した」
「ボス……もっと端的に、分かりやすく説明してくれへん?」
「だから、あの子は多くを語らないのだろう」
「聞いとる?」
苛立ちを隠さないヴルに、ベガはわざとらしく鼻で笑う。
「そんなことも分からないとは、驚きだ。そんなのでよく『情報屋』を名乗れるな。オレだったら恥ずかしくて速攻店を畳めるね」
「出禁にするで」
「残念。この店は、オレも会員メンバーだ」
「………ちっ!!!」
西の街で冒険者ハンターをしていた、腕の立つ男。
ベガ。
「お前なんて、ずっと西におったら良かったんや」
「オレのエゴミッションはコンプリートしたからね。今後はボスのために動かせてもらう」
「ありがたいな」
ユウゴは、目の前の葡萄酒を喉に通す。
堅実な男が酒を口にするのは、珍しい。
「堅実家のボスが、酒なんて飲むなんてめずらしいね。よほど満足した結果を得られたと見た」
「そうでもないさ。お前たちが一人になれる時間を稼いでくれたおかげだ」
ヴルもグラスを手に取り、一気に煽った。
発泡酒の苦味が、喉を滑り落ちる。
「おまけに酒豪かい。何杯目やねん…。こんな姿、リブくんに見せたら幻滅するやろな」
「幻滅どころか家を追い出されるかもな。酒なんて高価なものを了承なしに飲んでるんだから」
「おー、こわっ」
卓上には、すでにいくつもの空のグラスが並んでいた。
酒の香りと、個室特有の閉塞感が、じわじわと場を満たしていく。
ベガがグラスを傾けたまま、何気ない調子で言う。
「ボス。金の心配はしないでくれ。オレもちだ」
「お前におごられるとか嫌やわ~。自分の分は自分で出すわ」
「誰もお前の分を奢るとは言ってない」
「………ちっ!!!」
この日二度目の盛大な舌打ちを、ヴルはした。
心底、ベガが憎かった。
だが、その苛立ちは、すぐに別の感情へと塗り替えられていく。
「で~、さっきの話の続きやけど…わいがずーっと前に渡した“アストレイヤの天秤”…から、なにを紐解いたん?」
カラン、と氷の音。
新しい酒が置かれる。
その乾いた音を合図に、場の空気が、ふっと切り替わった。
「お前たち二人の話を聞いた後、ピンと来た。あれは…あの文献は、『カミサマ』のことだろう」
「あー…ナナシちゃんを助けてる謎の人物のことか…。あの蛇は、そいつからもらったんやろな………」
「マンドラゴラも、だろ?ヴルが出会った時は小さかったんだったっけ?」
「そうやで。手のひらサイズやった。けんど、南に行ったタイミングで大きくなってた。
つまり、わいと東に行った後と、サレインに行く前で…『なにか』があった。ついでに、わいとの記憶もぽんっと消えたっちゅーわけや」
点と点が、静かにつながっていく。
ヴルは、無意識のうちに手をぎゅっと握り、
そして宙で、ぱっと開いた。
まるで――
消えた記憶を、掴もうとするかのように。
「それが、『カミサマ』の力だ」
ユウゴの言葉には、推測ではなく、確信に近い重さがあった。
その一言に、二人の眉が、同時にわずか動く。
「俺の考えだが…『カミサマ』は魔物を自由自在に操ることができ、新たに生み出すことも可能。あの蛇の魔物も、マンドラゴラも…少女が魔物に襲われないのも、その仕組みの一つなのだろう」
「しかも、相当気に入ってる……」
ベガが低く付け足す。
「執着が、重すぎる」
無意識に、喉元を撫でる仕草。
関わること自体が、命知らずだという自覚が、そこに滲んでいた。
「今なら、まだ引き返せるぞ」
ユウゴは淡々と告げる。
感情を挟まない声だからこそ、その言葉は重い。
「お前らの手癖の悪さは、今に始まったことじゃない。だから、もし……関わり続けるなら――次は、お前たち自身の命が、天秤に乗る」
言葉が落ちたあと、重すぎる沈黙が、場を支配した。
軽い気持ちで、少女と関係を持った二人には、
あまりにも重い選択だった。
「………分かってるねん」
ヴルが、低く呟く。
「わいはなー、ナナシちゃんと数日間過ごしてみて、あの子がヤバいっちゅーことは、よう分かってんねん。あれは……踏み込んだらあかん領域や」
普段のヴルなら、とっくに尻尾を巻いて逃げていただろう。
それでも――なぜか、逃げられなかった。
いや、逃げたくなかった。
「それにな……あの子はな……」
言葉を選ぶように、
一瞬、間が空く。
「カミサマのことを……『怖い』言うたんや」
少女は、ヴルと過ごした日々を、もう覚えていない。
その言葉だけが、
ヴルの記憶に残された、唯一の痕跡だった。
それは――
カミサマへの、小さな抗い。
そして、ヴルにほんのわずか、心を許した証。
「レディは―――」
今度は、ベガが口を開く。
グラスをわずかに傾けながら、
どこかヴルに対抗するように、言葉を重ねる。
「今にも消えてしまいそうで、どこかに繋ぎ止めておかないといけないくらい、ふわふわしている。現実に留めるには首輪が必要なんだろうね。
だからこそ…カミサマは、レディにとって……“呪い”だよ」
少女は、
必要以上の力を与えられ、
孤立させられ、
その果てに――魔王と呼ばれた。
「レディが人と関わるのを極端に嫌うのは、自分自身を守るためだ。自分が壊れないために、距離を取っている」
少女の歯車を、静かに歪ませ続けているもの。
それが――カミサマ。
少女の世界は、
今にも崩れ落ちそうな塔の上にある。
現実と夢の境界は曖昧で、
頼ったものは、壊れれば作り直される。
少女が必死に掴む命綱は、
果たして救いなのか。
それとも――毒蛇なのか。
ヴルはグラスを持ち上げ、ユウゴのものに、軽くぶつけた。
「ここまで来て、今さらは、なしやで」
ベガもまた、ユウゴのグラスに小さく音を立てる。
「オレは、必要以上にレディに関わっていくよ。ボス」
ユウゴは、呆れたように息を吐き、グラスを空にした。
「……本当に、変わらないな。お前たちは」
天秤に乗るのは――
一体、誰なのだろうか。
***
少女は、夢を見ていた。
それが夢なのか、
それとも誰かに見られている感覚なのか、
自分でも判別がつかないまま。
白く、何もない空間。
床も、壁も、境界が曖昧で、
ただ淡い光だけが満ちている。
少女はそこに立っていた。
感情は揺れない。
恐怖も、期待もない。
ただ――
「まだ、ここじゃない」
そう、分かっているだけだった。
「おかえり、と言いたいところだけれど」
背後から、穏やかな声がする。
怒気も、焦りもない。
撫でるように、距離を測る声。
少女は振り返らない。
「まだ、会えないんだね」
声の主は、残念そうに笑った。
その笑みは柔らかく、
けれど執着の温度を隠してはいない。
「西は、少し騒がしかったみたいだ。君の周りに、余計な手が増えた」
責める調子ではない。
ただ事実を並べるだけの口調。
少女は、短く息を吐いた。
それが返事だった。
「……君は変わらないね」
その言葉には、安堵と、苛立ちが混じっている。
かつて、この距離はもっと近かった。
触れれば確かに存在して、
互いの熱を確かめ合うほどに。
けれど今は――
触れられない。
「今はまだ、外の世界を見ているといい」
諭すように言いながら、
本心では、それを許していない。
「けど、戻ってきたら覚悟しておいて。君が壊れないように、世界が君を汚さないように……全部、用意していたのが誰か…わかっているだろ?」
少女は、何も答えない。
壊れそうなのは、
世界なのか、
それとも――自分なのか。
その区別すら、少女にはどうでもよかった。
「また、呼ぶよ」
名残惜しそうな声。
「その時は、ちゃんと戻っておいで」
光が、静かに薄れていく。
少女の意識も、ゆっくりと、現実へ沈んでいく。
残されたのは、
誰にも見えない場所で、
一人、微笑む存在だけだった。
「次は……離さない」
それは、祈りのようで。
呪いのようで。
どこまでも、優しい声だった。




