第65話 少女は、奪われかけたものに名前をつけられない
日が沈みかけた頃だっただろうか。
横たわったまま動かない少女を、そろそろ起こす時間だった。
「レディ。そろそろ起きるかい?」
名前を呼ぶ声は、いつもより少し低い。
急かすでもなく、確かめるような調子だった。
ベガの声に導かれるように、少女はゆっくりと体を起こし、目をこする。
まぶたの奥に残る熱が、まだ完全には引いていない。
「魔力切れを起こしていたみたいだね。今は……顔色もよさそうだ」
言いながら、無意識に距離を測る。
「………」
「真剣に練習していた証拠だ。偉いよ。褒めてあげる」
いつもの調子で、軽く。
深い意味はない。
そう言い聞かせるように、ベガは少女のふわふわとした紫の髪に、ぽん、と手を置いた。
――しまった。
触れた瞬間、気づく。
これは、あとで確実に怒られるやつだ、と。
だが。
「……そう……」
返ってきた声は、予想外に素直だった。
拍子抜けするほど、抵抗がない。
怒気も、警戒もない。
あと少しで、なにかを掴めそうだった感覚が、まだ指先に残っているのだろう。
少女は、再び真剣な眼差しで、自分の視界に漂う“色”を追いはじめる。
さっきまで恐れていたはずのものを、今は逃さないように。
「楽しいかい?」
ふと、ベガが声をかける。
確かめるようで、けれど理由は自分でも分からない問いだった。
「………うん」
少女はゆっくりと顔を上げる。
「楽しい」
その瞬間、少女の目が細くなる。
警戒でも拒絶でもない、ただ、ふっと力の抜けたやわらかさ。
――ああ、と男は思った。
ずっと、どこかで探していた顔だ。
胸の奥を、見えない手で掴まれたような感覚。
呼吸の仕方を、一瞬、忘れる。
軽いはずの鼓動が、やけに重く響いていた。
これが、初めてだった。
数えきれないほどの女を知り、笑顔も、涙も、欲望も見てきたはずなのに――
人に、心を奪われるという感覚だけは、知らなかった。
甘い仮面の奥で、彼は初めて、自分が逃げ場を失ったことに気づく。
「レ、レディ……」
無意識のまま、ベガの手が少女の頬へと伸びる。
「………セル」
その名に応じ、影の中から蛇が姿を現し、即座にベガを締め上げた。
「ぐっ……ご主人様に忠実……だね」
「わたしは、安くないから」
少女が手を上げると、蛇はするりと拘束を解いた。
「それにしても……この子は一体どこで手に入れたんだい?こんなふうに主人を想う魔物は、初めて見たよ」
「……知らない。もらったから……」
「もらった?誰から……?」
「この世界の『神様』」
「………?」
意味が分からなかった。
けれど蛇は、少女とベガの間に割って入り、これ以上近づくなと睨みつける。
「魔物に感情があるみたいだね……嫉妬かな?ははっ」
笑い声は、軽い。
だが、その裏で、ベガの思考は止まっていた。
魔物研究の世界に、そんな話は存在しない。
論文も、記録も、逸話すらない。
――それなのに。
目の前の蛇は、明確な意思をもって彼を拒んだ。
少女を中心に、明確な境界を引くように。
「マンドラゴラとも……仲良くしてほしい。あの子は独りぼっちで、可哀想な子なんだ……」
少女の声は、淡々としている。
そこに理屈も、誇示もない。
ただ、事実を述べているだけだった。
「もう一匹の魔物ちゃんにも、随分好かれていたね。聞いたことはないけど……君は、魔物に好かれやすい体質なのかな?」
冗談めかした口調のまま、ベガは探る。
――否定されるはずだ。
そう、無意識に期待して。
「……うん……そうかも。わたしに攻撃できるのは、人間くらい……だし」
一瞬、空気が止まった。
「それじゃ、まるで魔物からは攻撃されないみたいな言い方じゃないか」
言葉にした途端、胸の奥がひやりとする。
その感覚は、次の瞬間、現実になった。
――裂けるような音。
風ではない。
魔力でもない。
上空から、明確な“殺意”が落ちてくる。
「……!」
ベガが顔を上げるより早く、少女は気づいていた。
黒鳶。
夕餉を求め、獲物を狙う魔物。
「……レディ!!」
叫びは、反射だった。
だが、少女は逃げない。
蛇も、動かない。
「わたしは……南からここまで来た」
落下してくる影を前に、少女は語り続ける。
それは告白でも、弁明でもない。
「疑問に思わない?ここまで来るのに……なんで昼も夜も、魔物の目を掻い潜れたのか」
黒鳶の爪が、少女の頭に届く――その寸前。
止まった。
見えない壁に阻まれたように、魔物は空中で硬直する。
理解できない力が、そこにあった。
次の瞬間、蛇が跳ねる。
黒鳶の頭部に食らいつき、骨ごと噛み砕く音が響いた。
「守られている……ってことか?」
ベガの声から、冗談は消えていた。
「そんな話、一度も聞いたことがない」
「よく分からないけど……そういう仕組みみたい。わたしに攻撃できる魔物は……いない……」
それは、祝福のようでいて、呪いだった。
かつて、人々はそれを『魔王』と呼んだ。
だが、その言葉を、少女が口にすることはない。
「ありがとう、セル。もう戻って」
命令ではなく、頼むような声。
蛇は一瞬だけ少女を見つめ、蜃気楼のように溶けて消えた。
「……不思議なものだ」
ベガは息を吐く。
笑顔を作るのに、ほんの一拍、遅れがあった。
「まあ、いいか。そろそろ冷えてきた。帰ろう。疲れただろう?」
割れ物に触れるような手つきで、少女を抱き上げる。
「おろして」
拒絶は、即座だった。
「お姫様扱いは嫌い?」
「気持ち悪い」
「レディには安らぎが必要なようだね。オレがレディの王子様になってあげよう」
軽口は戻った。
だが、その奥に、さきほどまでなかった緊張が残っている。
「聞いてる?おろしてって言ってる」
門は、まだ遠い。
ここで街に入れば、少女がどんな視線を浴びるかは分かっている。
そのときだった。
「きゃーーーー!!」
街の奥から、悲鳴が突き刺さる。
「……!!」
思考より早く、体が動いた。
「ごめん、レディ。先に行く」
その声に、甘さはない。
目元は鋭く引き締まり、垂れ目の印象は消えていた。
少女を地面に下ろすと同時に、ベガは走り出す。
夕暮れの中、
甘さの残滓だけが、置き去りにされたまま。
――冒険者ハンター…その言葉が現実味を帯びていく。




