第66話 少女は、カミサマを知らない
行くあてのない少女は、ひとり街を彷徨っていた。
まだ土地勘もなく、ベガの家へ戻る道を正確に辿ることはできない。
西日が沈み、空の色がゆっくりと夜へ溶けていく。
やがて月が顔を出し、明かりの乏しいノクスウェルでは、星々が不自然なほど鮮やかに瞬いていた。
――この景色は。
胸の奥が、ひどく静かにざわめく。
それは、少女がよく見ていた“あの場所”と、よく似ていた。
「……怒ってるのかな……」
誰に向けた言葉でもない呟きが、夜に溶ける。
星を見上げていると、光がわずかに揺らいだ気がして、少女は視線を地面へ落とした。
「あら、あなた……」
頭上から、声。
柔らかさの欠片もない、刃物のような音色だった。
嫌な予感に、少女は顔を上げない。
聞こえなかったふりをする。
「聞いてる?」
影が三つ、重なっている。
――ベガの、取り巻き。
「あんたのことよ!!」
乱暴に顎を掴まれ、無理やり視線を引き上げられた。
「無視するなんて、いい度胸じゃない」
濃い化粧と香水。
真っ赤な唇。
値踏みする視線が、少女の上をなぞる。
「あんた、ベガ様の周りでうろついてる女でしょ?」
指の力が強まる。
けれど少女は、抵抗しない。
こういう目に遭うのは、初めてではなかった。
黙っていればいい。
嵐が過ぎるのを、待てばいい。
「どうしてこんなちんちくりんを気に入ったのかしら」
「安っぽい女。服装からして品がないわ」
言葉は、少女の中に落ちてこない。
遠くで、誰かに向けられているようだった。
「なにも喋らないなんて、つまらない女ね」
興味を失ったように、手が離れる。
ようやく、解放された。
「目障りなの。ベガ様はわたしの恋人よ。だから、消えてくれない?」
消えられるなら、今すぐにでも。
そう思っても、口にはしない。
「今日は気分がいいから、このくらいにしてあげる」
「忠告はしたわよ」
女たちは、それだけ言い残して去っていった。
少女は壁にもたれ、深く、息を吐く。
「……だから、人間関係は嫌いなんだ……」
脳裏に浮かんだのは、デネラの顔。
無駄なものは何ひとつない、と言い切った少女。
無駄。
無駄ばかりだ。
それでも――
あの子が語った“リンゴみたいなストレートな美味しさ”を、もう一度感じてみたいと思ってしまう。
「ああ、こんなところにいた!」
足音とともに、息を切らした声が近づく。
肩を上下させるベガの姿。
「見つけられて良かった……なにかあったらと思うと、ぞっとしたよ」
「そう思うなら、置いていかないで」
素直な言葉だった。
「……ごめん」
本当に反省しているのだろう。
しょげた様子に、妙な既視感を覚える。
「なにがあったの?」
「……被害が出た」
冒険者ハンター。
今回は、街の中だった。
「小さな商店をやってた女性だ。今朝、話したばかりだった」
思い出す。
長話に、少し苛立ったこと。
『初心者狩り』
知識と力が中途半端な者ほど、狙われる。
「……影も形もなかった」
その言葉を聞いた瞬間、
少女の胸の奥で、なにかが――小さく、音を立てて崩れた。
理由は分からない。
顔も、声も、名前さえ思い出せないのに。
ただ、“手を伸ばしていた”記憶だけが残っている。
必死に、誰かを呼び止めようとして。
届くはずだった距離で、
唐突に――すべてが途切れた。
「……っ」
息が、浅くなる。
喉の奥が、ひりつく。
守れなかった、という感覚だけが先に来て、
何を守ろうとしていたのかは、思い出せない。
視界が白く滲む。
星空ではない。
夜でもない。
あの場所とも、違う。
けれど、
“見下ろされていた”感覚だけが、はっきりと残っている。
優しく、慈しむように。
逃げ場を与えないほど、深い眼差しで。
「……おっと、大丈夫?」
ベガの声で、現実に引き戻される。
支えられた腕の感触が、今の世界を教えてくれる。
「………」
少女は答えない。
答えられなかった。
なぜ、あんなにも胸が痛むのか。
なぜ、“神様”という言葉が、無性に遠く感じるのか。
それを、まだ知らない。




