35 彼が好きな人
夕方18時半。初風学園高等部バレー部は第一体育館で部活の後片付けをしていた。桂はボールの入った籠を体育館の用具入れに仕舞い、同時にモップを4本持って戻ってくる。
チームメイトの一年生たちが、「ありがと」「さんきゅ」と口々に言いながら、桂からモップを受け取って体育館を拭き始めた。桂もそれに続く。
「なーなー、隆弘」
隣でモップ掛けをしていた茶色いショートカットのチームメイト、新名智樹が、人懐っこい笑顔を浮かべながら桂に声を掛けた。
「なんか今日、絶好調だったな」
「え? そうか?」
桂は首を傾げる。桂としては、普段と特に何も変わらないプレーだった。だが、智樹には違って見えていたようだ。
「そーだよ。スパイク馬鹿みたいに決まってたじゃん。今日の決定率90%よ?」
「10%はミスってたのかよ。まだ甘いな、俺……」
桂は悔しそうに顔を顰める。それを見て智樹は「まてまて!」と苦笑いした。
「いや喜ぶとこでしょ! 過去最高記録だぞ? てか全国レベルの先輩方から10本中9本点取ったのすごくね?」
たしかに、言われてみれば先輩方の試合に混ぜてもらって9点も取ったのは初めてだった。普段は良くて5点。平均すれば2、3点ほどだから、今日のスパイクはよく決まっていたのだろう。
それに、よくよく考えると、今日はいつもより怖がらずに動けていた気がする……。
「……まあ、そう考えると成長はしたのか」
「そうよ。すごいって」
「でも、来年には俺たちも今の先輩方の立場になるし、全国優勝もかかってくるし、まだまだ練習しないと」
「真面目ー! 隆弘お前ストイックすぎるって」
「いや、智樹が甘いんだろ。そんなんだと後輩に足元掬われるぞ」
桂が真顔で窘めるのを見て、智樹は「まだ高等部に入学したばっかりなのにー」と唇を尖らせる。それにやれやれと笑って、桂は「ほら、モップ掛け終わらせるぞ」とさっさと進んでいってしまった。智樹も慌ててそれに続く。
やがて体育館全体のモップ掛けが完了し、桂たちは顧問の前に集合した。
「来月の6月9日は、いよいよインターハイ神奈川予選だ。気を引き締めて、今後の練習に取り組むように。以上」
3学年合わせて30人いる部員全員が、顧問に「ありがとうございました!」と頭を下げる。その後、各々が体育館脇に置いたスポーツバッグを取りに行き、桂もいつものように帰ろうかという頃だった。
「なあ、隆弘。俺と智樹でコンビニ寄ろうって話してるけど、お前も行く?」
同じく部員で、前髪をゴムでちょんまげに結っている背の低い男子、飯田恭平が桂の肩を叩いたのだ。
「コンビニ?」
「おう。なんか、新作のコンビニスイーツが出るらしい。たしか瀬戸内レモン系。隆弘、好きじゃなかったっけ?」
「めっちゃ好きだわ。行く」
スポーツバッグを肩に掛け直し、桂は顔を綻ばせる。瀬戸内レモンスイーツの新作は久しぶりだ。去年の今ぐらいの時期にも瀬戸内レモンのチーズタルトが発売されて、祖父母と3人で美味しく食べたのだった。
(そうだ。じいちゃんとばあちゃんと、オルラも食べるかな)
桂は手早くスポーツバッグからスマホを取り出し、祖母に「瀬戸内レモンのお菓子買って帰る。ばあちゃんも食べる? じいちゃんとオルラにも聞いておいて」と連絡した。閉店までずっとラーメンを作っている祖父と違って、祖母は今頃オルラと夕飯を食べている頃だろう。オルラの体調を考えて、あまり彼女の夕飯の時間が遅れないようにしたい、と祖母に相談しておいたのだ。オルラも部活に入っていなかったし、きっともう家に帰っているはずだ。
コンビニに着く頃には返信が来るだろうと思いつつ、桂はスマホをポケットに仕舞った。
「隆弘ー、恭平ー。お待たせ」
向こうから帰り支度を終わらせた智樹がやって来る。
「俺、今日チャリだから取りに行かせて」
智樹の頼みに桂も頷く。
「分かった。俺もだから一緒に行こう」
3人は連れ立って、体育館から駐輪場に向かった。
* * *
桂は智樹と恭平と並んで、コンビニまでの道のりを歩いていた。徒歩通学の恭平に気を遣い、桂と智樹は自転車を押しながら歩く。
「そういや、隆弘って自転車通学の割に今朝遅くなかったか? 家は近い方なのに、徒歩の恭平と同じくらいの時間に来たじゃん」
「ああ、今朝は自転車押して歩いてたんだ」
「なにゆえ」
「えっと、あいつと一緒に——」
オルラと一緒に登校してきたから、自転車を押していた。そう言おうとして、慌てて口を噤んだ。オルラと一緒に暮らしているのがバレたら、揶揄われるどころじゃ済まないだろう。不貞行為を噂されて、自分だけではなく、オルラも学校に居場所がなくなってしまうかもしれない。
「……なんでもない」
咄嗟に、そう短く取り繕う。しかし、桂の下手な誤魔化しを目の当たりにした2人は顔を見合わせてニヤリと笑った。
「隆弘ー、お前もしかして好きな子とでも登校してんじゃねーの?」
「ほーん。俺らの隆弘に恋人ができちまったのか。寂しいねえ」
「は? ば、馬鹿! そんなんじゃ……付き合ってはねーし!」
桂は真っ赤な顔で否定したが、正直者なのが仇となりどんどん墓穴を掘っていく。
「付き合ってはないのねー」
「じゃあ好きな子はいると。なるほどなるほどー」
「う……」
それに否定することも出来ず、桂は悔しそうに眉間に皺を寄せた。
実際に、オルラのことは大事だし、特別だし……嫌いだなんて言えない。寧ろ好きだった。そして「好きじゃない」とも言いたくなかったのだ。本当に、真面目なせいで首が締まりまくっている。
「隆弘君、どなたが好きなのー?」
「いや待て智樹。ここは俺らで当てるべきだ。そっちのが面白い」
「おお、そうだな。えっと、隆弘が良く喋ってる女子だろ? 林間学校で一緒だった人だと……佐藤か安住かオルラさんだな」
「オルラ」と名前が出た瞬間に、桂は動揺のあまり自転車のペダルに足をぶつけて「うっ」と呻いてしまった。それを見た2人が「お前、分かりやすすぎるだろ」と声を揃える。
「オルラさんのどこが好きなん? 聞かせろ隆弘ー」
「智樹、お前には言いたくない」
「なんでよー? 中学から一緒に切磋琢磨してきた仲じゃないの」
唇を尖らせる智樹をひと睨みして、桂は溜息をつく。それを見ていた恭平が、自分に人差し指を向けながら「隆弘隆弘」と期待に満ちた表情をした。
「じゃあさ、俺には教えてくれるの?」
「恭平もダメだ。お前ら、卒業するまで揶揄ってくるだろ」
「揶揄わねーし!」と2人は再度声を揃えた。
「中学の時からバレー一筋だった隆弘が恋して安心してんのよ、俺ら」
「そうそう。応援したいわけ。だって、俺ら隆弘のこと大好きだし」
恭平の言葉に、桂が「うわっ」と引き気味な顔をするから、2人は更に「俺らの愛が受け取れないってのか!」と声を上げた。ここまで来ると、もう白状するまで引き下がらないだろう。
「……分かった。言うよ」
桂は小さく息を吐いた後、頬を染めながら、ハッキリした声で続けた。
「普段は気丈に振る舞ってるけど、本当は寂しがり屋なところ。あと、俺のことを信頼してくれてるところだな。オルラの信頼に応えたいって思ってたら、いつの間にか、あいつのことが放っておけなくなってて……うん。俺が幸せにしてやりたいって思ってるんだ」
思っていたより真剣な桂の答えを聞いた2人は、思わず「おお」と照れ笑いしてしまう。
「これは結婚案件かなあ……」
「智樹、隆弘に赤飯炊いてやろうぜ」
「そうだな。赤飯パーティーだ。他の1年と中等部の後輩も誘おう」
「おい、どういう反応だよ。やめろパーティーとか」
照れ臭そうに顔を顰める桂を見て、2人は「まあまあ」と言いながら微笑む。
「幸せになれよ」
「何かあったら恋愛マスターの俺達が相談に乗ってやるよ」
「お前ら彼女いたことないだろ」
桂が冷静に突っ込むと、「隆弘ほんと辛辣!」「いーじゃん恋バナぐらいさせろよ! 恋に飢えてんだよ!」と反論が返ってきた。しかし、そんなやり取りも楽しくて、3人は顔を見合わせて笑い合った。
そうしているうちに、コンビニの前に到着したのだった。桂と智樹は駐車場の隅に自転車を停め、恭平と共に中に入る。
「いらっしゃいませ」
店員の挨拶に3人揃って頭を下げて、スイーツのコーナーに向かった。すると棚の中には恭平が言っていた通り瀬戸内レモンスイーツが並んでおり、その中に「新商品!」と赤いシールが貼られているドーナツの写真が載った袋があった。
「あ、これか。瀬戸内レモンドーナツ」
桂は袋を手に取り、確認する。どうやら、瀬戸内レモンが練り込まれた丸い生地の中に生クリームが入っているようで、甘いもの好きな祖母が喜びそうだった。これをみんなに買って行こうか。そう思いながら、桂は念のため祖母から返信が来ていないかスマホを確認する。
そして、そこに書かれている文面を見て、目を丸くした。
——全員分買ってきて。ところで、オルラちゃんはまだ帰ってこないの?
オルラが、帰っていない? 桂の額に汗が伝う。
(あいつ、たしか部活にも入ってなかったよな? てか部活入っててももう帰ってる頃だろ? なんで帰ってない? どこにいる?)
桂がスマホを見たまま固まってしまっているのを見て、恭平と智樹は不思議そうに顔を見合わせてた尋ねた。
「隆弘、どうした? 顔色悪いぞ」
「何かあったのか?」
2人に声を掛けられ、桂は我に返った。今は悩んでいる暇なんてない。これを買って、すぐに彼女を探さなければ。
「ごめん。俺、ちょっと先帰るわ」
「おお……俺らは大丈夫だけど、マジでなんかあった?」
「今度説明する」
桂は2人にそう言うと、手早く4人分の瀬戸内レモンドーナツを手にレジへ駆け込んだ。
焦る気持ちを必死に落ち着けながら、660円をセルフレジに入れ、レシートを不要レシートの箱に突っ込みコンビニを走り出た。自転車の鍵を外し、スマホを開いてオルラに電話を掛ける。
コール音が耳に響く。
1コール、2コール、3コール……。
(頼む。出てくれ……)
4コール目が鳴り響いた後、ガチャリと音がして、オルラの声が聞こえた。
『……桂君』
「オルラ! お前今どこだ?」
桂の焦る声に驚いたのか、電話越しに息を飲む音がした。
『ごめんなさい。私、帰らないわ。もう、あなたを困らせたくないの』
彼女の声が潤んでいることに気が付き、桂は一瞬言葉を失う。
「……困らせるって、俺がいつお前のせいで困ったんだよ! そんなこと一度も無かっただろ!?」
『ごめんなさい。私……あなたの傍にいない方がいいと思うの。絶対に』
「なんでそうなる? 俺はそんな風に思ってない」
『いいから、私のことはもう放っておいて』
涙交じりの声だった。
本当は、寂しい。
傍にいたい。
離さないで欲しい。
そんな寂しがり屋な本音が、透けて見えるような気がした。
「放っておいてやらない」
桂は真剣な顔で、迷いなく言い切る。
「俺が傍にいるうちは、絶対に、お前に寂しい思いをさせない。だから……そんな風に泣いてるお前のことを、離してやるつもりはない」
電話越しに、沈黙が流れた。彼女が言い返してこないのを確認し、桂は雰囲気を和らげながら再度尋ねる。
「オルラ。今、どこにいるんだ」
『……』
「迎えに行くから、教えてくれ」
桂が尋ねて少し間が空いてから、鼻をすする音と共に、小さな声で答えが返ってきた。
『初風白浜駅前の、浜辺』
初風白浜駅は、ここから3駅先の終点駅だ。初風湊線というローカル線の東端の駅で、周辺には海以外何もなく、静かな無人駅である。夏は海水浴の穴場として観光客が多くいることもあるが、今の時期は閑散としている。
「分かった。初白駅前だな。チャリで行くから、15分ぐらい待ってろ」
『……うん』
「じゃあ、すぐ行くから」
桂はそう言って、電話を切った。自転車に乗り、家とは反対方向の海沿いの道を駆け抜ける。
5月。日も暮れた夜7時の海辺の空気は、しんとしていてほんの少し冷たかった。
* * *
初風白浜駅に着いたのは、駅の時計が夜7時13分を示す頃だった。
自転車を駅の駐輪場に乱暴に停め、砂浜へ下りていく坂道を急ぎ足で走り抜ける。部活終わりで足に疲労がたまっており、何度も転びそうになりながらも走った。
やがて砂浜に辿り着き、波打ち際から少し離れたところで座り込んでいる彼女を見つけると、傍に歩いて行ってその隣に腰を下ろした。
「遅くなってごめん」
桂の静かな声色に、オルラは小さく首を横に振る。
「待っていてはいけないのに、逃げずに待ってしまったわ。私……本当にダメね」
「ダメじゃないよ。正直、ここにいてくれて安心した」
桂はそう言うと、波を見ながら小さく微笑んだ。オルラは彼の笑顔をチラリと見て、切なげな顔で俯く。
「やっぱり、遠くに逃げるべきだった。あなたの優しさに、これ以上甘えてはいけない。これ以上、あなたを好きになっちゃいけない」
大きな新緑の瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちていった。
「あなたに捨てられる前に、いなくなりたかった……」
「俺はオルラを捨てたりしないよ。てか、そう やって自分を物みたいに言うのやめろ。もっと自分を大事にしろよ」
「その優しさが、怖いの! あなたは佐藤さんが好きなのに……私に優しくしてくれる。だから好きになってしまったのに……絶対に報われないって分かってて、あなたの傍にいるのがどんなに苦しいか分かる!?」
声を荒げながら泣きじゃくるオルラを驚いた顔で見た後、桂は「分かるよ」と呟き彼女に向かって切なそうに微笑む。
「俺も前はそうだったの、お前だって知ってるだろ」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。もう今はそうじゃないし」
「え……?」
桂が何を言っているのか分からず、オルラは潤んだ目を丸くした。
桂が好きなのはふわりのはずだし、ふわりとテツは好き同士のはずだ。だから、「今はそうじゃない」という言葉は矛盾している。もしその言葉通りなら、今の桂には両想いの相手がいることになるが……。
「誰と、好き同士なの?」
悲しくなるのが分かっているのに、オルラは聞いてしまった。
もし、桂の口から知らない女子の名前が出たら、今度こそ彼から離れようと思ったのだ。
涙が止まらない。胸がキリキリと痛む。「私じゃダメ?」と彼に縋りたくなる。でも、そんなことをしたら桂を困らせてしまう。オルラは涙を拭いながら、必死に自分の息の根を止める準備をしていた。
しかし、桂の口から出たのは、他の誰の名前でもなかった。
「今、俺の目の前にいるよ」
——目の前に。
オルラはゆっくりと顔を上げ、彼の顔を見た。するとたしかに、月明かりに照らされて、暖かい微笑みがこちらに向けられていたのだ。
「オルラ。好きだよ」
優しく紡がれた言葉に我慢できずに、オルラは泣きじゃくりながら桂に抱きついた。
桂はそれを優しく抱きとめて、静かに背中を擦ってやる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
泣き声を上げながらも、オルラは謝らずにはいられなかった。
「あなたを信じられなくて、ごめんなさい。逃げようとしてごめんなさい……」
「大丈夫だよ。ちゃんと待っててくれただろ」
桂に穏やかに微笑み、彼女の体に回す腕を強くする。
「もう離さないから、安心しろ」
「桂君……」
オルラは顔を上げて、彼に涙でびしょびしょの顔を向ける。まだ涙があふれている瞳が、月の光に照らされてきらめいた。
「私、あなたが好き」
「ああ、知ってる」
「大好き……」
「俺も」
桂が微笑むのを見て、オルラも一生懸命笑顔を見せる。
「ねえ」
「何だよ」
「隆弘君って呼んでいい?」
「えっ」
突然の申し出に、桂は顔を赤くした。彼女の潤んだ瞳と綺麗な笑顔、そして可愛すぎるお願いのトリプルパンチで急に恥ずかしさが襲い掛かって来たのだ。
目を泳がせる桂を見て、オルラはクスリと笑う。
「照れてるの?」
「う……少しだけ」
「強がりね」
「うるさい」
桂はオルラを睨む……が、それすら照れ隠しなのはオルラにもお見通しだった。だから、怖くなんてない。寧ろ、そんな彼が可愛くてニコニコしてしまう。
オルラににんまりとした笑顔で見られて、桂は恥ずかしさを我慢できずに彼女から腕を離して立ち上がった。
「元気になったんなら帰るぞ」
「分かりました。隆弘君」
「おい、俺は良いって言ってない……」
「嬉しい癖に」
「なっ……はあ。まあ、いいか」
オルラも嬉しそうだし、彼女の笑顔が見られた自分も嬉しいし、更に言えば両想いにもなれた。万事解決だ。桂は内心幸せを噛みしめながら、駅の方に向かって歩き出す。
「隆弘君、待って」
オルラが傍に駆け寄ってきて、桂の右手をきゅっと握った。唐突に柔らかい手で手を繋がれて、桂は顔を赤くしながら息をのむ。
「帰るまでつないでいい?」
「じっ、自転車押してくだからダメだ」
「そう……」
残念そうに眉をひそめるオルラを見て、何とかしてやりたくなった桂は「その代わり」と続ける。
「寝る時はいいよ。……つないでても」
その言葉を聞いたオルラの表情がぱあっと明るくなった。その嬉しそうな表情にきゅんとしてしまう自分が悔しい。これが惚れた弱みというやつか。
しかし、彼女が素直に甘えられるようになったのは安心する。まあ、ほんの少し急ではあったような気がするが。
「じゃあ、早く帰りましょう」
「ああ、そうだな」
桂は小さく微笑んで、オルラと並んで駅に続く坂道を歩いて行った。




