31 父
木村家の転勤は、常に父・琉貴の仕事によるものだった。琉貴が北海道に行くと言ったら北海道へ、沖縄に行くと言ったら沖縄へ。東西南北どこへでも際限なく移動した。
テツが5歳の頃、木村家が住んでいたのは京都府だ。この頃、琉貴はテツを連れてよく外を散歩していた。秋。真っ赤に色づいた紅葉を見ながら、琉貴はテツと手を繋いで渡月橋を歩いていた。
「ねえ、テツ。知ってるか? 海外には黄色いカエデがあるんだ」
「黄色いカエデ? 紅葉じゃないの?」
「うん。父さんの故郷では、公園や町に黄色いカエデが沢山あった。目が覚めるような色で、綺麗だったよ」
「そうなんだ。僕も見てみたいな。ねえ、父さんの故郷に連れて行ってよ!」
テツが目を輝かせながらせがむと、琉貴は困ったように笑う。日本人にしては彫りの深い顔が、柔らかく歪んだ。
「うん。いつかね」
琉貴には、故郷に帰るのを尻込みする理由がいくつかあったのだ。1つ目は、そこは海外であるということ。そして2つ目は、そこで生まれ育った琉貴の父は、ある事件によってその国にはいないこと。3つ目は、父との思い出はどれも仄暗く、思い出したくもないこと。従って、父との思い出を連想しかねない故郷には帰りたくなかった、ということ。特に最後の理由は琉貴にとって重たく、彼の人生を大きく歪めてしまったものだった。
父の顔も、正直なところ思い出したくない。だって、彼はいつも憎しみに顔を歪めていて、見ていて息が詰まりそうだったから。
しかし幼いテツには父が困っていることに気が付かず、満面の笑みで頷くのだった。
「絶対だよ。約束!」
そんな約束を無邪気に信じながら、テツが京都に暮らすこと1年。6歳の秋の日に、テツは母から引っ越しを告げられた。
「テツ、3月になったら引っ越しするからそのつもりでいてね。小学校も、京都じゃなくて青森の学校になるから」
母の言葉にテツは困惑する。そうなったら、今いる友達はどうなるのだろう。友達とは一緒の小学校に行けないの? もう会えないの? ずっと続けてたお絵かき教室はどうするの? ……様々な思いが巡った。
しかし、それらを正確に伝えるだけの力は、幼いテツにはまだ無かった。
「やだ!」
テツはそう怒鳴ると、家の玄関を飛び出してしまった。
家の中から母の大きな声が聞こえる。「どこ行くの!?」「戻ってきなさい!」「テツ!!」しかし、テツは全ての声を無視して町の中を走った。
今は日曜日の昼間だ。観光客も多い。テツは走っているうちに、周囲の大人達に視界を遮られ、自分が今どこにいるのか分からなくなってしまった。振り返っても見知らぬ大人。前を見ても見知らぬ大人。ここはどこ? 家はどっち? 急に心細くなり、テツの目に涙が浮かんだ。
「っ……父さん! 母さん!」
テツは必死に叫ぶが、当然2人はここにいない。テツは思わず声をあげて泣いた。
「うわーん!」
道行く人が何事かとテツを見る。しかし、地元住民でない自分達にできる事はないと思ったのか、それとも観光中に厄介ごとに巻き込まれたくないと思ったのか、誰も助けようとしなかった。
しかしその時、雑踏の中にいた、着物に身を包んだカスタード色のふわふわした髪の少女が、泣きじゃくるテツに歩み寄ってきたのだ。
「大丈夫?」
少女は桃色の大きな瞳で心配そうにテツを見つめる。
「どうしたの? 家族とはぐれちゃった?」
テツは少女に問われ、一生懸命頷きながら涙を拭う。
テツの反応を見た少女は、「そっか」と優しく呟き、テツの手を握った。
「大丈夫だよ。私が一緒に探してあげる」
「え……? そんなことできるの?」
「うん。任せて」
少女は優しく微笑むと、指を一振りした。すると、2人の前に桃色の光と共に黒猫が現れ、「にゃおん」と鳴く。
「猫……?」
「うん。私の魔法」
「魔法……?」
少女は戸惑うテツにニコリと微笑み、黒猫の前にしゃがんで尋ねた。
「この子の家族のところに案内して」
猫はそれに「にゃあ」と返事をし、歩き出した。テツがそれを見て目を丸くしていると、少女はテツの手を元気に引いたのだ。
「ほら、こっち!」
少女に手を引かれるまま、テツは黒猫を追いかけた。
自分よりずっと背の高い人の森を駆け抜ける。その間、少女はずっと手を握っていてくれていた。自分と同じくらいの大きさで、白くて、柔らかい手。彼女の手の温度を感じるだけで、不思議と安心できた。
やがて、黒猫が立ち止った。辺りを見ると、そこは家の近くの寺だった。普段、テツが父と散歩する通り道だ。
「……あ」
紅葉を見る人の中に、不安げに辺りをキョロキョロと見渡す父の姿があった。
テツはそれに駆け寄ろうとして、足を止めた。
家に帰ったら母に叱られてしまうだろう。そして、引っ越しの準備をすることになり、来年の春には友達とさよならだ。父だって、引っ越しのことは分かっているはず。だとすると、「引っ越したくない」というテツの本音は我が儘として却下されて終わりだろう。
帰りたくない。そう思わざるを得なかった。
「行かないの?」
少女が首を傾げる。
「……行きたくない」
「なんで?」
「帰りたくないんだ」
「そうなの?」
「うん。帰ったら、引っ越ししなきゃいけなくなるから」
テツの目に再び涙が浮かぶ。
「ほんとは嫌なのに。友達と離れたくないのに……」
ぽろぽろと涙を零す。少女はそれを心配そうに見た後、ハンカチでテツの涙を拭ってあげた。
「辛いよね。でも、大丈夫」
大丈夫って、何が? テツが少女の顔を見ると、彼女は優しく目を細めて微笑んでいた。
「おまじないしてあげる」
少女はそう言うと、テツの手を自分の両手で包み、歌うようになめらかな声で言葉を紡ぎ始めた。
「引っ越した先でも、友達ができるよ。いつも笑顔でニコニコして、楽しそうに暮らしてるよ。それから、色んな出会いがあって、ずっと一緒にいたいって友達も見つかる。10年後、色んな場所に行って、色んな人と出会った君は、きっと素敵な男の子になってる」
少女の声は柔らかく、ほんわかとしていて耳に心地よかった。まだ秋だというのに、春の暖かい風が頬を撫でたような気がした。来年の3月が、一瞬、楽しみに感じられた。少女の言葉が、あんなに暗澹としていて寂しいものになると思っていたテツのこれからを塗り替えていく。
ああ、大丈夫だ。そんな根拠のない安心感が胸を占めた。
テツの表情が落ち着いたのを確認して、少女はニコリと笑う。
「もう大丈夫?」
「うん」
「そっか。じゃあ、ここでバイバイだね」
そう言って少女は手を離す。しかし、彼女の柔らかい手を、テツはそっと握った。
「ねえ」
「ん?」
「また、会えるかな?」
どうしてそんなことを口走ってしまったのか分からない。しかし、テツはもう一度この少女に会いたかった。自分のことを助けてくれて、自分の世界を変えてくれた少女に。
「うん。きっと会えるよ」
少女は春に咲く野の花のように可愛らしく微笑むと、テツの頬に口づけした。
頬の柔らかい感触、そして自分との距離が0になった少女から香った、甘い金木犀の香り。それを認識した途端、テツの顔が赤くなる。
「な、何したの……?」
戸惑いながら尋ねると少女は紅葉のように赤い顔ではにかんだ。
「また会えるおまじない」
それを聞いて、テツは少女が自分に魔法を掛けたのだと確信した。
テツの家族を探すために出してくれた黒猫も、憂鬱だった未来がほんの少し楽しみになったことも、少女ともう一度会いたいと願ってしまうことも、少女がお日様みたいに眩しく見えてしまうことも、全部魔法だ。
優しくて、暖かくて、テツの世界を変えてくれた魔法だ。
少女にとっては何てことのない些細な魔法だったのかもしれない。しかし幼いテツにとって、少女の魔法はあまりにも鮮烈で、ともすれば恋焦がれてしまうほど魅力的だった。
そして、少女自身も。
まだ恋なんて知らない。誰かを好きになったこともない。この気持ちの名前なんて知らない。これが初恋なのか……なんて、当時のテツには考えることすらできなかった。
ただ、彼女が眩しかった。それだけだ。
「テツ!」
こちらに気づいた父が走ってくる。
テツはちらりと少女を見た。すると彼女は「行っておいで」と言わんばかりの優しい笑顔で頷いてくれた。
それを見たテツは小さく頷き、少女の手を離して父に駆け寄った。
「父さん……」
「ああ、心配したよ。大丈夫だったか?」
「うん。さっき、あの子が助けてくれて……」
テツは少女の方を指さした……が、彼女はもうそこにいなかった。
「あれ……?」
「誰かと一緒にいたのか?」
父に問われて、テツは勢いよく頷く。
確かにさっきまで一緒だったあの魔法使いの少女が、自分の世界を変えてくれたのだ。大丈夫だと手を握ってくれた。家族のところまで連れてきてくれた。暗闇に思えた未来に春風を吹かせてくれた。
彼女のことを話さなければ。彼女の優しくて暖かい魔法のことを話さなければ。こんなに素敵な出来事を自分の心に秘めておくなんて勿体なかった。
「あのね、さっき魔法使いの女の子が助けてくれたんだ! 魔法で猫を呼んで、僕をここまで連れてきてくれて、引っ越しのことで不安だった気持ちも安心させてくれて……」
興奮気味に話していたテツだったが、父の見開かれた目と震える唇を見て話すのをやめた。どうしたのだろう。悲しいような、怒っているような顔だ……。
「父さん……?」
「テツ、よく聞きなさい」
父は母譲りの闇夜の色の瞳でテツを射貫き、強く言い切った。
「魔法は人を狂わせるものだ」
テツは目を丸くした。――あの女の子の魔法が、一体誰のことを狂わせるというのだろう。
テツは父の言葉が信じられない。
しかし、反論する間もなく父は呪詛を重ねる。
「魔導士は他人の人生を狂わせる存在なんだ」
魔導士……ああ、魔法使いのことだ。子ども向けの歴史の本に書いてあった。
しかし、魔法使いが人生を狂わせる? 本当に? さっきの女の子は、自分のことを助けてくれた。人生を狂わせるなんて信じられない。彼女はむしろ自分の人生を救ってくれた。
「父さん、そんなことないと思うよ。魔法使いの女の子は僕のこと助けてくれたんだよ……?」
「魔導士の肩を持たないでくれ!」
父の大声に、周りの人が何事かとこちらを見た。
「魔導士は、怖いものなんだ。僕の家族の人生を台無しにした……世界中に嫌われて然るべき存在なんだ! 」
震える声で怒鳴りながら、父は整えられた前髪をぐしゃりと握る。その様子が普通じゃないことぐらい、6歳のテツにも分かった。
「頼む……頼むよ、テツ。魔法使いなんて好きにならないでくれ……」
大の大人が泣き出しそうな様子を見て、テツは感情を押し殺して頷く。
(父さんは魔法が嫌いなんだ。僕が魔法の話をしたら傷ついちゃうんだ。だから、もう言っちゃダメだ)
心の中で自分に言い聞かせる。しかし、テツの胸は鋭く痛んだ。
──魔法は人を狂わせるものだ。
本当にそうなのだろうか。
──魔導士は他人の人生を狂わせる存在なんだ。
本当は違うんじゃないか。
テツの脳裏に少女の顔が浮かぶ。
カスタード色の髪をふわふわとさせ、桃色の瞳を可愛らしく細めて笑ってくれた彼女の顔。
──おまじないしてあげる。
彼女の魔法は、誰も傷つけない。出会ったばかりなのに、そう思った。
魔法はきっと素敵なものだ。そう信じたい。そうとも思った。
(魔法は、優しくて素敵なものだって、そう言いたい。でも、言えない……)
この瞬間、テツは「我慢」というものを覚えてしまった。
次の年の4月、青森県の小学校に通い始めた頃。テツを仲間に入れてくれたのは活発な男子3人だった。彼らは幼なじみで、小さい頃からずっと一緒にサッカーをしていたという。
桜が舞い散る春の日、サッカーボールを小脇に抱えて歩く1人が口を開いた。
「なぁ、テレビのニュース見た?」
「見たぁ。あれだべ? あの、魔導士の小学生の事件」
あの事件とは、新潟県の男子小学生が、自分をいじめたクラスメイトを魔法で怪我させたというものである。彼はどうやら、魔導士であることで気味悪がられ、悪口と暴力を浴びせられていたらしい。「魔王退治だ! 」と複数人にバットで殴られて我慢が出来なくなり、ついにクラスメイト達の骨を折ってしまったようだ。
正直なところ、テツはいじめっ子達の自業自得だと思った。いじめっ子達の行動が、倍になって自分達に返ってきただけのこと。因果応報というやつだ。
しかし、世間の反応はテツと真逆だった。
「そうやって魔法で人を傷つけるからいじめられたんだってー」
「んだよな。まじで魔王だよな」
人間は、自分にとって脅威となるものに敏感に反応する。一般人にとっては「魔法」は自分の命を奪いかねない凶器だ。そういう認識が、やはり当時は当たり前だった。
だって、誰も魔法の優しさを知らなかったのだから。
「テツもそう思わね?」
友達に尋ねられ、テツは作り笑いで頷くのだった。
「そうだね」
──嘘つき。
心の中の自分が、こちらを睨み付けている。
──あの子の前でも同じように頷けるの?
心が黒い底なし沼に捕らわれ、ズブズブと沈んでいく。
嫌われたくないから。僕はよそ者だから、周りに合わせないと居場所が無くなるんだ。だから仕方ないんだ。そう言い聞かせて本音を覆い隠した。
でも、そんなの言い訳だった。テツはずっと、あの日の父に囚われていた。
──魔法使いなんて好きにならないでくれ。
あの時の父の泣き顔に呪われたのだ。
父を悲しませてはいけない。あの時はそう思ってただけだった。なのに、徐々に作り笑いが増えていく自分も、魔導士を拒絶して痛めつける周囲も……あの日、魔導士を強く否定した父のことも嫌いになっていく。
テツの心の支えは、あの日出会った少女の魔法だけだった。
彼女の存在だけが、テツの本音を正しいと肯定してくれたのだ。
魔法は素敵なものだ。
魔法は人を笑顔にするものだ。
彼女のはにかみ顔を何度も頭に思い描き、テツは毎日を凌いでいた。
しかし、思い出は擦り切れていく。彼女の顔が思い出せなくなる。彼女の声が、言葉が、忙しい日々に飲み込まれて忘れられていく。
いつか彼女が掛けてくれたおまじないも忘れて、テツは「本当の友達」を欲するようになった。
魔法があれば自分の世界も変わるかもしれないなんて、漠然とした願望が寂しさで空いた心の穴を埋めるようになった。
そんな中、本当の友達を探して、そして世界を変える魔法を求めて通学路で自転車を漕いでた矢先、あの春の日に、ふわりと出会ったのだ。
ふわりと仲を深めていくうちに、確信した。やはり、魔法は誰かを幸せにするものなのだと。
そう思うと同時に、テツの胸の内で父への不信感が増していく。
魔導士を拒絶する父との間に見えない溝が生まれていく。
初風市に来て以降、テツは父と殆ど言葉を交わしていなかった。
嫌いなんじゃない。ただ、話したくないだけ。
父も父で、会社が忙しいと言って朝早くから夜遅くまでどこかに出かけている。一体何の仕事をしているのかなんて聞いたことも無かったが、先程のオルラの言葉でやっと分かった。
父は、日本中に散らばっていた魔導士を監視していたのだ。
父は、魔導士を「平和を乱す存在」と信じて疑わず、人々の生活を守るつもりで監視し、必要に応じて何らかの措置をとっていたのではないか。
どんなことをしていたのかは分からない。しかし、テツの脳裏に過ったのは9年前の新潟県の事件だ。
父も魔導士を痛めつけているのではないか。
そう思ったら尚のこと、父の顔なんて見たくなかった。
テツの心にドロドロと黒いヘドロが纏わり付く心地がする。異様なまでに重く、目を背けたくなるほど憂鬱で息苦しい感情が、テツの内側でグルグルと渦巻いていた。




