23 桂の家族
グリフィンと暮らしたアパートから逃げ出して、オルラは街を歩いた。緑通りを通り越して、ショッピングモール沿いの大通りを歩く。もうあのアパートは見えないが、それでもオルラは歩みを止めなかった。
──遠くへ。できる限り、遠くへ。グリフィン会長との思い出に二度と触れることがないぐらい遠くへ行かないと……。
オルラは当てもなく初風市の街を歩き続ける。引っ越してきて1ヶ月とはいえ、まだどこに何があるかよく分かっていない。また、頼れる友達の家だって知らない。これからどうすればいいのか。
歩き疲れて、オルラは立ち止まった。周りを見ると、大きなドーム状の建物の隣に芝生が広く続いていた。芝生の周りには陸上のトラックもある。そして、その脇には親切にもベンチが置いてあった。
(……ちょっと座ろうかしら)
オルラはベンチに座って、空を見上げた。林間学校のウォークラリーで見た夕焼けと同じ色の空。今の自分には不相応なぐらい美しい。
(林間学校で、自分を大切にしてくれる人を愛そうと決めたけれど、人間はそんな簡単に割り切れないのね)
オルラの脳裏に先程のグリフィンの顔が浮かぶ。悲しみと怒りに歪んだ表情。あの苦しそうな瞳は決して自分を見ることはなかった。そのことを再確認して、胸がキリキリと痛む。
(……私は、グリフィン会長の「大切な人」にはなれなかったのね)
オルラは俯き、流れるままに涙を流した。はらはらと零れ落ちる雫が、オルラの制服のスカートに跡を作る。
「っ……うう……」
オルラは涙を拭うこともせず、嗚咽を漏らしながら泣いていた。
丁度その時、ドーム入口の自動ドアが開いた。中から初風学園高等部バレー部の黒いTシャツを着た男子達が出てくる。その中で1番最後に出てきた桂が、オルラを見て目を丸くした。
「あれ……」
「桂、どうした?」
「ああ、すみません。用事思い出したから、俺、後から帰ります」
「分かった。じゃあな、桂」
桂は先輩達を見送って、ゆっくりとオルラの方に歩み寄る。
「オルラ」
桂に声を掛けられ、オルラは顔を上げる。その泣き腫らした顔を見て、桂は目を丸くした。
「どうしたんだよ、その顔」
「桂君……あなたこそ、どうしてここに?」
「俺は部活。バレー部、週1で初風アリーナ借りてるんだ。部活終わって外に出たらオルラがいたから、気になって声掛けたんだよ」
「そうだったんですね……」
遠くから自分に気が付いてわざわざ声を掛けてくれた辺りが、周りをよく見ていて人がいい桂らしかった。その優しさは嬉しかったが、あまり心配も掛けたくない。
オルラは目元の涙を拭うと、桂に向かって笑顔を作る。
「心配掛けてごめんなさい。私なら大丈夫です」
オルラの作られた笑顔を見て、桂は溜息をついた。
「嘘つけ。どこがだよ」
桂はオルラの隣に腰をかけると、彼女の顔を見て続ける。
「大丈夫じゃないのに大丈夫なフリすんな。助けて欲しい時は助けてって言えよ。俺でよければいくらでも助けてやるから」
桂の言葉を聞き、オルラは目を見開いた。
「どうしてそこまで言ってくれるの?」
「どうしてって……ほっとけないんだよ。クラスメイトが1人で泣いてたら心配だろ。詳しい事情とか言いたくないなら言わなくていいけどさ、俺にできることがあるなら遠慮すんな。一応、林間学校一緒に過ごした仲だろ」
桂の言葉を聞き、オルラはグリフィンとのことを話そうとして口を開いた。しかし、丁度その時、オルラのお腹が「ぐー」と音を立てたのだ。
「あっ」
オルラは慌ててお腹を押さえるが、桂にも聞こえた後だった。
「腹減ったのか?」
「え、ええ……お腹空いちゃいました」
オルラは桂に照れ笑いする。すると、桂は小さく微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、俺んち来いよ。美味いもん食べさせてやる」
「え……?」
「ほら、早く来い」
「ああ……はい」
スタスタと歩いて行ってしまう桂の背中を、オルラは慌てて追いかけた。
* * *
桂に連れてこられたのは、商店街にある小さなラーメン屋だった。桂は「麺屋桂」と書かれた赤い暖簾をくぐり、ガラガラと扉を開ける。すると、厨房で麺をきっている白髪の男性がニカッと笑ってきた。
「隆弘、お帰り」
「じいちゃん、ただいま」
桂が祖父に微笑むと、テーブル席に座っていたスーツ姿の男達もこちらを見て笑顔を覗かせた。
「隆ちゃんお帰り! 部活帰り?」
「はい。県大会が近いんで」
「へー! 1年生なのに試合に出るの?」
「ああ、ありがたいことにベンチに入れて貰えたんです」
桂が頭をかくのを見て、別のテーブルに座っていた中年の女性客が笑い声を出す。
「隆ちゃんはバレー上手いのよ! 中等部の時は全国でバレーしてたのよ? 私、生で見に行ったんだから!」
「そうなの? すごいじゃん! 俺も見たかったなー!」
「超かっこよかったわよ! おばちゃん惚れちゃった!」
そう言って両手でハートを作る女性を見て、桂は頬をかく。その照れた様子を見て、オルラはクスリと笑った。
「私も見てみたかったわ」
「う……そんな大したもんじゃないからな?」
「でも、超かっこよかったんでしょう?」
「それは人によるだろ」
「否定しないんですね」
「うるさい」
顔が赤い桂を見て、オルラは声を抑えつつも楽しそうに笑った。そんな彼女を見て、スーツの男性客が興味津々といった様子で尋ねる。
「隆ちゃん、その子彼女?」
「そんな可愛い子連れてるなんて、隆ちゃんも隅に置けないねー」
「ち、違います。彼女じゃなくてクラスメイトです。腹空かせてたんで連れてきたんですよ。じいちゃん、俺の小遣いから一杯分引いていいから、この子に醤油ラーメン出してくれないかな?」
桂の頼みを聞いた祖父は豪快に笑うと、「隆弘に彼女ができたお祝いにじいちゃんが奢ってやる」と言って、麺を器に盛り付けた。桂はそれに赤い顔で「彼女じゃないって!」と返しながら溜息をついた。それを見た客達も声を上げて笑う。
「はぁ……騒がしくて悪いな、オルラ」
「いえ、大丈夫です。……ここは暖かい場所ね」
オルラは桂に微笑みながら、過去にいた孤児院を思い返す。魔導士であることを理由に子ども達から暴力を振るわれ、職員もそれを注意するどころか一緒になってオルラを虐げた。あの頃の施設の中も、この店の中のように人の声が騒がしかったのだ。昔はその騒がしさが本当に苦痛だった。
しかし、この店の騒がしさは違う。怒鳴り声ではなく笑い声が響き渡り、暴力の代わりに楽しそうな会話が交わされている。なんて居心地のいい場所なのだろうか。そう思ったら、笑みが零れたのだ。
オルラの笑顔を見て、桂も嬉しそうに笑いながら彼女を隅の座敷席に案内する。
「オルラ、あっちの空いてる席に行こう」
「分かりました」
桂に促され、オルラはローファーを脱いで座敷に上がった。どう座ろうか迷った挙げ句、手前の座敷席で正座をしている家族客の真似をして座布団の上で足を折り畳んだ。
店内に漂う美味しそうなスープの匂いが鼻腔をくすぐり、オルラのお腹が再度鳴る。
「ああ……ごめんなさい」
「別に良いよ。じいちゃんの醤油ラーメン、マジで美味いからな。楽しみにしてろよ」
「ふふっ。はい」
しばらくして、オルラの席に豊かな茶髪の年配の女性が、お盆にラーメンを乗せてやってきた。彼女は顔に皺を作りながらニコリと笑うと、オルラの前に醤油ラーメンを置く。
「お待たせしました。醤油ラーメンです」
「わぁ……ありがとうございます」
オルラはラーメンの器の中を見て、目を輝かせた。色のいいツユの中には、麺だけではなく様々な具材が浮かんでいる。海苔、メンマ、チャーシューにナルト。どれも美味しそうだ。
女性はオルラの嬉しそうな顔を見て微笑みながら、桂の前に山盛りのあんかけチャーハンと餃子を置く。
「はい。隆弘の分」
「え? ばあちゃん、いいの?」
「ふふっ、これはばあちゃんからの奢りよ。隆弘がガールフレンドを連れてきたお祝い」
「だ、だから彼女じゃないってば!」
「ふふ、ごゆっくりどうぞ」
祖母は2人に笑いかけると、お盆を持って厨房に戻っていった。その後ろ姿をじとっと見つめた後、桂は割り箸を綺麗に割ってオルラに手渡す。
「色々ごめん。とりあえず食べよう」
「謝ることありませんよ。食べましょう」
2人は揃って手を合わせて、「いただきます」と声を出して食事に手をつけた。
オルラが思ったよりも慣れた様子で箸を扱うのを見て、桂は目を丸くする。
「オルラ、イギリスから来たばっかりなのに箸使えるんだな」
「あら、林間学校でも使ってたわよ? こっちに来るのが決まってから、家で練習してたの」
「そうなんだ」
桂はスプーンでチャーハンを口に運んでもぐもぐと口を動かしながら、オルラの様子を見る。
ラーメンを口に運び、「美味しい」と顔を綻ばせるオルラ。彼女の表情は先程よりもずっと穏やかだ。彼女に何があったか分からないが、ここに連れてきたことで少しでも気が晴れたなら嬉しかった。
それに、自分よりずっと小柄な彼女が口の中をいっぱいにしながらもぐもぐと食べている姿が小動物のようで可愛い。普段見てる動物園のウサギの動画を思い出してしまい、桂は笑いそうになるのを必死に堪えた。
その後もオルラはどんどんと食べ進め、やがて器の中身が全てその小さな体の中に入ってしまった。よほどお腹が減っていたのか、桂よりもずっと早く食べ終えたようだった。
「醤油ラーメン、美味かっただろ」
「ええ。すごく美味しかったわ。ありがとう、桂君」
オルラはそう言うと明るい笑顔を見せた。桂はそんなオルラを見て満足げに微笑みながら、取り皿に餃子を1個乗せて彼女に差し出した。
「なぁ、これも食べないか」
「え?」
「餃子。うちの餃子さ、羽がパリッとしてて評判いいんだよ」
「そうなんですか……」
きつね色の焦げ目がついた餃子を見て、オルラは思わず唾を飲み込む。たしかに桂の言うとおりパリッとしていそうだ。……美味しそうだ。すごく。だがしかし、あまり食べ過ぎると太ってしまうだろう。それが嫌で、オルラは葛藤した。
(食べ過ぎるのも良くないわ。でも、美味しそう……)
桂は彼女が食べたそうにしているのを見てクスリと笑う。
「酢コショウで食べるとめっちゃ美味いぞ」
自信ありげな目で囁く桂を見て、オルラは「ぐぬ……」と悔しそうな声を出した。具体的な食べ方まで紹介されてしまっては敵わない。もうすっかり餃子の口だった。
「桂君は、結婚相手を太らせてしまうタイプの人のようね……」
「おい、どういう意味だよ」
「桂君に勧められたら、誰だって勧められた物を食べてしまいそうだなって思ったの。結婚相手じゃないけど、私も太ってしまうかもしれないわ」
オルラはそう言って少し頬を膨らませた後、桂から餃子を受け取った。
「でも、これはいただきます」
「結局食うのかよ。別にいいけど」
桂は苦笑いしながらもオルラの前に小皿と酢とコショウを置いてやった。
オルラはそれに「ありがとうございます」と小さく言って、小皿に酢コショウを準備して餃子につける。
「いただきます」
箸で餃子を運び、一口食べる。パリッという音ともに、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
口元を抑えながら目を輝かせるオルラに向かって、桂はニカッと笑った。
「だろ!」
その太陽みたいに明るい笑顔を見て、オルラは目を丸くした。こんなに嬉しそうな桂は初めてみた。……いや、オルラが気に留めていなかっただけで今まで何度もこんな顔をしていたのかもしれない。だが、自分に向けられたのは初めてじゃないか。
(桂君って意外と可愛い笑顔をするのね。知らなかったわ。……ううん、知ろうとしてなかったわね)
オルラは残りの餃子を口に運び、よく味わって飲み込む。口やお腹だけではなく、心が満たされていく感覚があった。暖かい陽だまりに抱きしめられているような満足感が胸を満たすのと同時に、ふわふわとして落ち着かなくて、心ごとどこかに飛んでいってしまいそうな感覚になる。
自分は浮き足立っているのだろうか。でもどうして? ただ、桂の笑顔を見ただけなのに。
……いや、「ただ」 じゃない。そんな些細なことじゃない。林間学校では、桂は自分を気遣ってくれた。林間学校だけではない。今だってそうだ。桂は自分を大切にしてくれているのだ。しかし自分は、彼について自分と同じ気持ちを抱えているということ以上のことを知らなかった。
自分を大切にしてくれる人を幸せにする……それがオルラの新しい夢だ。なら、桂だって幸せにすべき人の1人だろう。でも、今まで自分は桂のことを知ろうとしていなかった。
もっと、知りたい。自分を大切にしてくれた桂自身のことを、もっと教えてほしい。少しでも長く桂の傍にいて、彼のことを見ていたかった。
何だろう。この気持ちは。
「オルラ、ぼーっとしてどうした?」
桂が不思議そうな顔で尋ねてくる。そんな彼に、オルラは真っ直ぐな眼差しを向けて告げた。
「桂君、私をあなたの家に置いてくれませんか?」
「……え?」
「私、今帰る場所が無いんです。同居していた人と喧嘩して、家出してきてしまって……仲直りしようにも、あの人の顔を見るのも辛いの。だから、心の整理がつくまででいいので、私を家に置いてくれませんか」
桂はオルラの言葉を聞き、困惑した様子で俯く。
(クラスメイトの女子と一緒に暮らすって、世間的に大丈夫なのか? でも……)
顔を上げてオルラを見ると、彼女の表情は真剣なものだった。変な下心なんて微塵も感じないし、お互い他に好きな人がいる以上、一緒に暮らしても特に問題は起きない気がする。
何より、帰る場所が無くて困っているオルラを放っておけなかった。
桂は頷き、オルラに答える。
「分かった。一応じいちゃん達にも相談してみる。あんまり広い家じゃないから、不便な思いをさせるかもしれないけど……それでも良ければ」
「構わないわ。……ありがとう、桂君」
オルラはそう言うと、人形のように可愛らしい顔で柔らかく笑った。その笑顔を見て、桂の顔が熱くなる。
(絶対、問題は起こしちゃいけないんだからな……しっかりしろよ、俺)
跳ねた心臓を必死に宥めながら、桂は深呼吸する。やはり、こんなに可愛らしいクラスメイトと同居するのは、色々と問題があるんじゃないか? そんなことも思ったが、言ってしまった以上後戻りはできない。桂は覚悟を決めて頷いた。
その後、閉店後に祖父母に事情を相談し、オルラは桂家に世話になることが決まったのだった。




