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君の魔法が僕の世界を変えていく。  作者: 月島
第二章 復讐の闇を乗り越えて
21/55

20 かつて亡くした愛する人

 霧雨の降るイギリスの街中を、スーツを着た年配の女性が赤い傘を差して歩いていた。背中まで伸びた黒髪が歩くたびに揺れる。傘の下に除く真っ赤なルージュが、雨雲のせいで薄暗い世界において鮮やかな色彩を放っていた。

 女性は街はずれの古めかしい赤レンガの屋敷に入っていった。

 玄関を抜け、書斎のデスクの前に座り、パソコンのメールを確認する。すると、日本から新しいメールが届いていた。


 ──初風市に攻撃魔法の痕跡あり。魔導師による反乱の兆しの可能性がある。調査を続行する。


 女性はそのメールを読み、溜息をついた。


「日本に行く必要がありそうね」


 メールに手早く「私もそちらに向かう」という旨の返信を書き、送信する。

 返信先の宛先には、「木村琉貴」とあった。

 メールの送信が完了したと同時に、書斎のドアがノックされた。


「どうぞ」


 短く返事をすると、青いスーツに身を包んだカスタード色の金髪の男性が1人、入ってきた。


「セラ長官、日本支部から攻撃魔法の痕跡が見つかったと連絡が……」

「私の所にも連絡がきた。エディ、日本に行くわよ」

「はい」


 エディは透き通った桃色の瞳でセラを見つめ、しっかりと頷く。それを見たセラも立ち上がり、壁に掛かっているハットを被る。


(攻撃魔法をみすみす発動させるなんて……魔導士協会は何をしているのよ)


 セラの眉間に皺が寄る。ルージュを塗った唇はへの字に曲がった。


(職務怠慢よ、グリフィン)


「……エディ」


 セラは部下の男に振り返り、声を掛ける。


「今回の件、魔導士による平和の破壊活動の予兆かもしれない。……絶対に術者を見つけ出して拘束するわよ。LODAMの名に懸けて」

「ええ、もちろんです」


 エディの返事に頷き、セラは書斎から出ていった。


* * *


 朝、誰もいないアパートでグリフィンは目を覚ました。ソファから起き上がり、奥の寝室を確認する。すると、二台あるベッドはどちらも整えられていた。枕元にある小さなメモ用紙には、「買い物に行ってきます」という短い文章と、「オルラ」の文字があった。どうやら彼女は出かけているらしい。

 そのメモ用紙を無感情な目で見つめた後、グリフィンは静かにキッチンへと向かう。すると、テーブルの上にラップがかかったピザトーストの乗った皿が置いてあった。おそらく、オルラがグリフィンに作ったものだろう。


(なぜ、ここまでするのだろう。彼女は……)


 グリフィンは疑問に思いながらも、ピザトーストをオーブントースターに入れた。

 焼きあがるまでの時間を使い、お湯を沸かしてダージリンを淹れる。その後、温かい紅茶と共に、焼けたピザトーストを皿に乗せてリビングに持って行った。

 テーブルに皿とマグカップを置き、トーストを一口齧る。

 もぐもぐと口を動かしていると、不意に棚に飾られた師匠の笑顔と目が合った。


(最後に彼女と食事をしたのはいつだろう)


 グリフィンは目を閉じて、師との最後の食事を思い出した。


* * *


 11年前、ロンドンのとあるレストランにて、当時48歳のグリフィンは師匠のアリスと共に朝食を食べていた。

 フィッシュアンドチップスをもぐもぐと食べながら、アリスはグリフィンに柔らかく微笑む。


「突然呼んでしまってごめんなさいね。どうしても、あなたと食事がとりたくなって」

「気にしないでください。アリス先生に呼ばれたら、僕はどこにだって飛んで行きます」

「そう。本当に、あなたは昔から変わらないわね」


 アリスは長いまつげを伏せながら、優しい声で笑った。彼女は昔から、目を伏せながら笑う癖があった。グリフィンは、そんな彼女の笑い方を、ずっと愛していた。

 彼女に出会った、あの日から。


* * *


 2人が最後に食事をした日から、37年前、魔導士狩りで家族を失い天涯孤独となったグリフィンのことを、当時20歳だったアリスが拾い、自身の弟子として家で育てていた。

 朝は家事を教え、昼は魔法を教える。夜は、グリフィンが眠りにつくまで物語を聞かせ、同じベッドで眠る。

 穏やかな日々だった。

 ただ時折、グリフィンは夜中に泣きながら耳を塞ぐことがあった。何故そうしていたのか、その理由は簡単だ。魔導士狩りの人間が、夜中にグリフィンの生家を襲った際に拳銃で家の中を穴だらけにしたのだが、その時の発砲音が未だに耳に残っているからだ。その音がフラッシュバックする度に、グリフィンは恐怖で涙が止まらなくなった。

 しかし、そういう時は決まって、アリスが落ち着くまで背中を擦ってくれたのだ。


「グリフィン、大丈夫よ。ここに魔導士狩りの人間は来ないわ」


 塞いだ耳に、アリスの優しい声がかすかに聞こえる。


「仮に魔導士狩りの人間が来たとしても、私があなたを守る。だから、大丈夫よ」


 その、そよ風のように穏やかな声を聞き、グリフィンの心が凪いでいく。彼の呼吸が落ち着いたのを確認して、アリスは彼を優しく抱きしめた。


「大丈夫。あなたがもうこんな風に怖がらなくてもいいように、私が魔導士狩りを終わらせるわ」

「本当に……? 」

「ええ。あなたの11歳の誕生日までに終わらせる。約束するわ」

「先生……うん。約束だよ」


 グリフィンが頷くと、アリスは目を伏せながら柔らかく笑った。

 この時のアリスの微笑みが、38年経った今でもグリフィンの胸に焼き付いている。

 優しくて、美しかった。伏せられたまつ毛も、僅かに上がった口角も上品だった。枕元の柔らかいランプの灯に照らされながら微笑む師匠は、まるで女神のようだった。

 この日、この瞬間から、グリフィンはアリス・スチュワートという女性に心を奪われたのだった。


* * *


 その日から、3か月が経った4月の朝。風に桜の花びらが運ばれていく暖かな春の日に、アリスは英国議会の建物の前で殺されそうになっている魔導士の親子を庇うように立ち塞がり、政府直属の魔導士狩り専門組織——「Line of defense against magic」通称LODAMの人間に言い放った。


「何の罪もない魔導士の命を、自分達の都合で刈り取るだなんて、あなた達は横暴です。私達にも、幸せに生きる権利があるはず。そうでしょう?」


 傷ついた魔導士の母親の体を支えていたグリフィンの視界に、アリスのカスタード色の髪が靡く光景が飛び込んでくる。表情は見えなかったが、彼女の声色から察するに、とても険しい顔をしていたのだろう。組織の人間は明らかに怯んでいた。


「私達に、交渉の場を下さい。魔導士狩りを止め、人間と魔導士が互いに平和に暮らせるように……話し合いをさせて下さい」


 アリスの言葉を聞き、LODAMの人間達は上司に連絡した。しばらくして「交渉の場を設けよう。LODAMの拠点に案内する」とアリスを促し、彼女をどこかへ連れていこうとした。

 LODAMの人間達とその場を立ち去ろうとするアリスに、グリフィンは声を掛けようとして、口を噤んだ。

 彼女の頼もしい背中を見て、思ったのだ。


 ——アリス先生なら、大丈夫だ。絶対無事に帰ってきてくれるし、魔導士狩りも終わらせてくれる。絶対……大丈夫なんだ。


 グリフィンはそう確信し、ただアリスの背中を見つめていた。

 そして、その日の晩。英国中に流れたニュースが、魔導士狩りの終息を告げた。

 グリフィンの待つ家に戻ったアリスは、帰ってくるなり彼を抱きしめて嬉し涙を流した。


「やったよ、グリフィン。約束、守れたよ……!」


 その明るい声を聞き、グリフィンは全てが終わったことを確信した。

 もう、魔導士狩りで苦しむ人間はいないのだ。もう、家族と生き別れて悲しむ人間もいないのだ。

 アリスが変えてくれた。アリスが、自分の世界を変えてくれた……グリフィンの胸が、零れんばかりの感謝と幸せでいっぱいになる。


「ありがとう、先生……」


 グリフィンは目に涙を浮かべながら、アリスのことを抱きしめ返した。

 これで、なんの恐怖もなく、アリスと一緒に幸せな日々を送れる。2人で、死ぬまで一緒にいられる。

 この時は、そう信じ疑わなかった。

 

* * *


 魔導士狩りの終息から5年後、15歳になったグリフィンは、アリスと共に過ごした家から出ることにした。

 荷物をまとめたリュックサックを背負って玄関に立つグリフィンに、アリスは心配そうに尋ねる。


「グリフィン、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。先生こそ、大丈夫なの? もうすぐ生まれるんでしょ」


 グリフィンに指摘され、アリスは大きくなった腹に手を当てる。その様子を見て、グリフィンは悲しげに微笑んだ。


「旦那さん、明日ロンドンに着くんでしょ。だから、それまでに僕は出ていかないと」

「無理して出ていくことないのよ? あなたがいても、きっと夫は許してくれるわ」


 自分を気遣ってくれるアリスの言葉と表情が、グリフィンの胸に痛いほど突き刺さる。


 ──ああ、この人は僕のことを男として見ることはないのだな。


 そんな諦めが胸を占めた。

 アリスはグリフィンを弟子として愛していた。しかし、グリフィンがアリスに向けていた感情は師への尊敬の域を超えていたのだ。

 彼女から1番大きな愛を注がれたかった。彼女の1番傍にいたかった。彼女の全てが欲しかった。

 弟子では無く、1人の男として。

 こんな欲望を抱えたまま、夫ともうすぐ生まれる子どもを持つ彼女の傍にいていいのだろうか。そんなこと許されないだろう。


「大丈夫だって。僕ももう15だし、先生から魔法も家事も教わった。仕事だってあてがある。だから大丈夫」


 グリフィンは有無を言わせぬ笑顔でそう告げると、彼女に背を向けた。


「先生、今までありがとう」


 そう短く言って、グリフィンは速足で玄関を飛び出した。

 声は震えていなかっただろうか。悲しい顔はバレていないだろうか。この欲望まみれの愛は気づかれていないだろうか。

 家を飛び出して、大通りに出る。多くの人が往来する道の端に立ち止り、グリフィンは力なく笑った。


「良かったんだ、これで。こうでもしないと、この想いは絶てないんだから」


 涙が地面を濡らす。表情はぐちゃぐちゃだった。


「どんなに頑張っても、アリス先生には振り向いてもらえないんだから……なら、こうした方がいいだろ?」


 自分に必死に言い聞かせる。しかし、胸の痛みも涙も止まらない。


「良かったんだよ、これで……」


 その場から一歩も動けない。アリスの家に戻る気にも、どこかへ行く気にもなれなかった。

 そもそも、行くあてなんて始めからないのだから。

 仕事のあてがあるなんていうのも嘘だ。本当は、あの家から出た所で路頭に迷うだけだった。ただ、アリスへの想いを絶ちたくて飛び出したのだ。言うなれば子どもの家出だ。これから、どうしようもなかった。


(このまま、消えてなくなれたらいいのに)


 そんなことすら思った。

 しかし、グリフィンが泣いているところに、後ろから誰かがぶつかって来たのだ。


「うわっ!?」


 女性の声が聞こえて振り向くと、グリフィンの前で黒髪の少女が転んでいた。

 少女はグリフィンを睨み、形の良い唇をへの字に曲げる。その不機嫌そうな顔を見て、グリフィンは慌てて彼女に手を差し伸べた。


「大丈夫?」

「大丈夫じゃないわよ。こんな道の真ん中でぼーっと立ってるなんて、あなた何考えてるの?」


 少女に強い言葉をぶつけられ、グリフィンの頭に血が上る。


「そんな言い方しなくていいだろ。僕の事情も知らない癖に」

「ええ、知らないわよ。知らないけど、そもそも私を納得させられる事情なの?」


 少女は立ち上がり、グリフィンを鋭く睨む。


「もしそうなら言ってみなさいよ」


 少女に凄まれて、グリフィンは思わず口を噤んだ。

 愛していた先生に夫と子どもができたことから逃げ出して、自分の想いを必死に絶とうと家出をしたこと。そして、自分で家出をした癖に悲しくて涙が止まらなかったこと……このことを話して、少女は納得してくれるのだろうか。

 グリフィンが何も言えずにいると、少女は彼に詰め寄った。


「言えない理由なわけ?」

「……そういうわけじゃ」

「なら言ってみなさいよ」


 どうやら言うまで引き下がらないらしい。グリフィンは諦めて口を開いた。


「大好きな人が結婚したんだ。でも、僕はまだその人が好きで、一緒にいるのが辛くて家出した。自分で決めたことだったんだ。でも……悲し、くて……」


 言葉尻が震えると同時に、グリフィンの目に再び涙が浮かぶ。それを見て、少女は慌てて彼に言った。


「ちょっと、泣かないでよ。私が泣かせたみたいじゃない」

「でも、君が言えっていったから……」

「う……あーもう、分かったわよ」


 少女は溜息をつくと、グリフィンの服の裾を引っ張って歩き出した。


「ちょっと、どこ行くの?」

「私の職場兼自宅。ここであんたにメソメソ泣かれてても困るもん。家に帰ったら温かい飲み物でも出してあげるわ」


 少女はそう言って、グリフィンを引っ張って大通りを歩いて行く。グリフィンも戸惑ったが、他に行くあても無かったため、大人しく彼女についていった。


* * *


 彼女に連れられてやってきたのは、街はずれの赤いレンガの屋敷だった。この屋敷の入り口の石看板を見て、グリフィンは目を丸くする。


(ここ……LODAMの拠点……?)

「さ、着いた着いた。ほら、上がってよ」


 少女に促されたが、グリフィンはその場から動けなかった。

 脳裏に、かつてLODAMに殺された家族の亡骸がフラッシュバックする。あの銃声の音が鼓膜をビリビリと揺らす。


「う……うわ……」


 グリフィンは思わずしゃがみ込んで耳を塞いだ。


「ちょ、ちょっと!? 大丈夫?」


 少女は慌ててグリフィンの体を支えるが、彼の恐怖は止まらなかった。


「殺さないで……殺さないで……!」

「え? 」

「助けて……アリス先生、助けて!」


 うわごとのように繰り返すグリフィンを見て、少女は目を丸くした。「まさか、この人は……」そう思い、少女は静かに尋ねる。


「あなた、魔導士なの?」

「え……?」

「魔導士なのよね?」


 少女に繰り返し尋ねられ、グリフィンは震えながらも頷く。すっかり怯えた様子の彼を見て、少女は優しく背中を擦った。


「安心して。もう魔導士狩りなんてしないわよ。アリス・スチュワートが私の父とそう取り決めたから」

「あ……」


 そうだ、アリスが、魔導士狩りを終わらせてくれたのだ。そのことを思い出し、グリフィンは細く息を吐く。


「そう、だった……アリス先生が、そうしてくれたんだった」

「落ち着いた?」

「……うん」


 グリフィンが頷いたのを確認し、少女は彼を支えて立ち上がらせる。


「ここにいる人間も、誰もあなたを傷つけないわ。だから、安心して家に来て」


 少女に促され、グリフィンはゆっくりと家の玄関をくぐった。

 家に入ると、少女の父親が出迎えてくれた。彼は黒髪を清潔にオールバックにしており、スーツをしっかりと身に着けていた。


「セラ、お帰り。おや、君はたしか……アリスさんの弟子の?」

「はい。グリフィン・ルイスです」

「そうか、やっぱりな。私はクリス・ティファニー。知っての通りLODAMの長官だ。それで、どうしてここに?」


 クリスに尋ねられ、口ごもるグリフィンの代わりにセラが答える。


「家出してきたんだって。行くあてがないみたいだから、とりあえず連れてきたの。道の真ん中に立ちっぱなしでいられても迷惑だから」

「家出……そうか。とりあえず、リビングにおいで。お茶を淹れてあげよう。セラはどうする?」

「私は着替えてくる。転んだせいでワンピースが汚れちゃったから」


 セラはそう言うとグリフィンをじとっと見つめる。その視線を気まずく思っていると、クリスがくすっと笑ってグリフィンの背中を押した。


「グリフィン君、セラが着替えてくるまでお茶にしてよう。こっちにおいで」


 グリフィンは促されるままにリビングへ向かい、木製の椅子に座って紅茶を啜った。アリスと暮らしていた時によく飲んでいたダージリンの味がして、グリフィンの顔が切なく歪む。


「ダージリン……」

「ああ、お茶かい? そう、ダージリンだ。アリスさんが好きらしくてね。定期会合の際に出すんだよ」

「そうなんですか……」

「うん。仕事の関係とはいえ、アリスさんにも喜んでもらいたいから」


 クリスはそう言うと、グリフィンの隣の席に座って微笑む。


「アリスさんは立派な人だ。弱い者を守るために労力を惜しまない心優しい人だからな。彼女を見て、私はイギリス政府が魔導士を誤解していたと気づいたよ」

「誤解?」

「ああ。魔導士は人を傷つける存在とは限らない。優しい人も沢山いるってことを彼女に教えてもらった。……そんな彼女のもとから家出してきたってことは、それ相応の理由があるのだろう?」

「……はい」


 グリフィンは小さく頷いて、紅茶を一口飲んだ。


「僕は、アリス先生が大好きで……でも、アリス先生には結婚相手がいる。それに、もうすぐ子どもも生まれる。だから、傍にいるのが辛かったんです」


 グリフィンの小さな声を聞き、クリスは優しい笑顔を浮かべる。


「そうだったのか。……今は難しいかもしれないが、アリス先生の他に愛する人が見つかる日がきっと来るさ。それまで、うちにいてもいいよ」

「……いいんですか? なんでそこまで」

「いや、まあ……魔導士協会会長のアリスさんにはお世話になっているし、何より、セラが寂しい思いをせずに済むからな」


 そう言って頬をかくクリスを見て、グリフィンは首を傾げた。あの気の強い彼女が寂しがる姿なんて想像もできない。しかし、父親であるクリスが言うのだから、そういう一面もあるのだろう。自分には絶対に見せてくれないだろうが。


「お父さん、お待たせ。私の紅茶は?」


 セラが花柄のルームウェアに着替えてリビングにやってきた。クリスはそれに笑顔を返しつつも、「自分で用意しなさい」と告げる。

 セラがそれに嫌な顔をしているのを見て、グリフィンは立ち上がった。


「僕が淹れます」

「おや、できるのかい?」

「ええ、まあ」


 グリフィンは頷いて、キッチンに向かって紅茶を淹れる。そして、温かい湯気の出たティーカップをセラの前に持っていき、コトリと静かに置いた。


「どうぞ」


 セラはそれに驚いた顔をしていたが、やがて照れ臭そうに目を逸らして「ありがとう」と呟いた。ティーカップに小さく口を付け、ダージリンをこくりと飲む。すると、彼女の顔がぱああっと明るくなった。


「美味しい……」


 彼女の嬉しそうな顔を見て、グリフィンもつられて頬を緩める。そんな風に嬉しそうな表情は初めて見たが、思っていたよりずっと可愛らしかった。

 セラはグリフィンに微笑ましく見守られているのに気が付き、顔を赤くして目を逸らした。

 路上で会った時は彼のことを木偶の坊だと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。普通に優しい人間なのだろう。あくまでも、普通に。ときめいてなどいない。セラはそう自分に言い聞かせた。


「……まあ、紅茶の淹れ方が上手いのは認めてあげる」

「ふふっ、どうも」


 もしかしたら、セラは自分が思っているよりずっと素直じゃなくて、それでいて可愛らしい人なのかもしれない。グリフィンはそう思ってクスリと笑う。

 先ほどまでアリスの事ばかり考えて落ち込んでいた心が、彼女のお陰で上向いた。グリフィンはそれに気が付き、心の中でセラに感謝した。

 この日から、グリフィンはティファニー家の一員として暮らすようになったのだ。魔導士と国民の安全を守る警備組織のように姿を変えたLODAMの事務仕事を手伝いながら、休みの日はセラと共にロンドンを歩いた。

 春、夏、秋、冬。移ろいゆく季節を、少し不器用で素直ではないセラの手を引きながら歩く。次第に笑顔を見せてくれるようになったセラのことを大切に思うようになるまで、そう時間はかからなかった。

 出会ってから5年後。グリフィンは家族や仕事仲間に祝福されながら、セラと結婚式を挙げた。


* * *


 結婚してから4年後。グリフィンが24歳で、セラが26歳の年のある春の日の夜だった。

 ベッドの上に座るグリフィンに、ネグリジェを着たセラが寄り添う。彼女の使っているシャンプーの甘い香りが、グリフィンの鼻腔をくすぐった。


「グリフィン」


 セラは彼に身を寄せ、頬に触れる。甘やかに光る漆黒の瞳が、グリフィンを射抜いた。

 このまま、唇を重ねて、触れ合えたら、きっと自分も幸せになれるのだろう。アリスが夫としたように、自分もセラと1つになったら幸せになれるのだろう。

 枕もとの暖色のランプが、セラの微笑みを照らす。その笑顔が、子どもの頃恐怖に怯えて泣いていた自分を抱きしめてくれた時のアリスに重なる。

 その笑顔を思い出した途端、涙が止まらなくなった。


「え……?」


 セラの姿がぼやけて見えなくなる。何故だろう。


「どうして、泣いてるの?」


 彼女の震えた声が鼓膜を揺らす。


「私と一緒に寝るの、そんなに嫌……?」


 違う。違う。違う……。反論しないといけない。君を愛していると言わなければならない。なのに、グリフィンの口から出たのは別の言葉だった。


「アリス先生……」


 グリフィンは、あの日脳裏に焼き付いた愛しい師の笑顔に、無意識に声を掛けていた。


 ——どうして、この名前を口走ってしまったのだろう。僕はセラを大切に思っているのに。セラを妻として愛しく思っているのに。それは嘘ではないはずなのに。


「……そう」


 セラの小さな声が聞こえた。


「あなたは、私よりアリスさんが好きなのね」


 グリフィンは否定しようと口を開く。しかし、息が詰まって声が出ない。


「いいわよ、もう」


 セラは潤んだ声でそう言うと、ベッドから立ち上がってドアノブに手を掛けた。


「いつか、こうなる気がしていたの。分かってた。……分かっていたのに、あなたを愛した私が馬鹿だった!」


 涙交じりの怒鳴り声が聞こえたと同時に、寝室のドアがバタンと閉まった。

 ああ、最低だ。最悪だ。こんなにも自分を愛してくれた人がいたのに、グリフィンは……まだ、アリスへの愛を捨てきれなかった。

 アリスの笑顔が……あの、優しすぎる魔法が、グリフィンの心の器に大きな穴を空けたのだ。他の誰が、どれだけ愛情を注いでも、その穴から流れて行ってしまう。決して満たされない心の器を、グリフィンは抱えてしまった。

 セラと結婚して、彼女を愛して、家庭を持って幸せに暮らせば、いつかアリスへの欲望まみれの愛情も消えると思っていた。しかし、無理だった。どんなに欲望まみれでも、彼女への愛を消したくなかった。セラを愛することで、アリスへの愛を持てなくなるのが堪らなく苦痛だった。

 ああ、もう後戻りなどできない。

 死ぬまで、永遠に……アリスを愛することしか道が無い。他の誰の愛情も受け取らずに、彼女に一方通行の愛情を向けるしか、生きる術がない。

 グリフィンは、自分の汚れ切った一途さを呪った。

 翌日、グリフィンはセラと別れ、アリスの家の傍の小さなアパートを借りた。

 久しぶりにアリスへ会いに行ったら、彼女は昔と変わらぬ笑顔でグリフィンを出迎えてくれた。ゆったりとした服を着ており、顔も少し丸くなったアリスは、グリフィンには幸せそうに映る。それを見て切なくなっていると、9歳になった娘が中から走ってきて、グリフィンを見るなり母の後ろに隠れた。それを宥めながら、アリスはグリフィンを家に入れた。

 懐かしいリビングで出されたダージリンを飲み、グリフィンは彼女に告げる。


「先生。僕、これからはあなたのために働きたいです。昔のように、あなたの背中を追わせてくれませんか」


 背中を追いたい……その言葉は、半分本当で、半分嘘だった。尊敬するアリスについていきたい気持ちはあったが、それよりも、彼女の傍にいたい気持ちの方が大きかった。

 尊敬だけじゃない、欲望に汚れた愛だった。

 しかし、アリスはグリフィンのことを見て微笑んだ。


「なら、魔導士協会に来てくれる? ぜひ、私の手伝いをして欲しいのだけど」


 愛しい師の頼みに、グリフィンは迷うことなく頷く。


「それがアリス先生の頼みなら、僕はやります」


 こうして、グリフィンは正式に魔導士協会の役員となったのだ。彼はアリスの右腕として、世界中に散らばった魔導士達のために心のケアなどの支援をしていた。彼女が行く国なら、どこであってもついていった。

 しかし、愛を伝えたことは一度も無かった。

 水をやりすぎて根が腐ってしまった花のように、伝えられずに大きくなって腐った想いを抱えたまま、グリフィンは彼女の隣で働いていたのだ。


* * *


 時が流れ、グリフィンも48歳になった。アリスとの関係は変わらずに、2人は師匠と弟子として親しい仲を保ちながら、こうしてレストランでフィッシュアンドチップスを食べていた。

 グリフィンが物思いに耽っているのに気が付き、アリスは声を掛ける。


「グリフィン、どうかした?」

「いえ、大丈夫です。昔のことを思い出していて」


 グリフィンが取り繕うように笑うのを見て、アリスも目を伏せながら笑う。


「そう」


 アリスももう58歳だ。しかし、年をとっても彼女の美しさは衰えない。笑った時の皺は増えたが、年を重ねたことで、かえって上品な魅力が増した。


 ——アリス先生は、いつまでも僕の好きなアリス先生のままだ。


 グリフィンは静かに微笑む。


「……ごちそうさま。グリフィン、この後は時間がある?」

「え? ああ、ありますよ」

「なら、もう少し付き合ってくれる? 実は、日本から娘と孫達が遊びに来るの。3人にも、あなたを紹介したくて」


 そう言って微笑むアリスに対して、グリフィンは戸惑いながらも頷く。


「いいですけど、どうしてご家族に僕を?」


 不思議そうに尋ねるグリフィンに対して、アリスは優しく笑いながら答えた。


「よくできた弟子を自慢したいの」


 よくできた弟子……その言葉に、グリフィンは複雑な気持ちで笑った。自分がアリスの傍で働いている理由は、弟子の尊敬なんて綺麗なものではなかったからだ。

 苦笑いするグリフィンににこりと微笑みながら、アリスは彼を促してレストランから出た。


* * *


 2人はレストランから駅に移動し、アリスの家族達を出迎えた。アリスと同じふわふわしたカスタード色の髪をした母親と、エレメンタリースクールに通うぐらいの男の子と、5歳ぐらいの女の子がアリスに駆け寄る。


「おばあちゃん、こんにちは!」


 女の子がアリスに抱きついて満面の笑みを見せた。その隣で、兄の男の子も目を輝かせながらアリスに笑う。


「ばあちゃん、久しぶり!」

「ふわり、蓮介、久しぶり。元気だった?」

「うん! 私もれんにいも元気!」

「そう。良かった」


 アリスが微笑んでいる傍で、母親が不思議そうに尋ねる。


「母さん。そちらの方は?」


 母親に視線を向けられ、グリフィンに緊張が走った。その様子にくすりと笑いながら、アリスはグリフィンに手を向ける。


「彼はグリフィン・ルイス。私のよくできた弟子よ。ノア、あなたは昔会ったことがあるのよ?」

「そうだっけ? ……うーん、思い出せないけど、母さんの弟子なのね。よろしくお願いします、グリフィンさん」


 母親が挨拶するのを見て、蓮介も真似して頭を下げた。


「おばあちゃんの弟子ってことは、おじさんも魔法使いなの?」


 ふわりが興味津々といった様子でグリフィンに尋ねる。それにたじろぎながらも、グリフィンは頷いた。


「ああ、そうだよ」

「そうなんだ! おばあちゃんの弟子ってことは、すごい魔法使いなんだよね!」


 ふわりの無邪気な笑顔を前に、グリフィンは照れくさくなって頬をかいた。


「ふふっ、そうよ。グリフィンはすごい魔法使いなの。家に着いたら、沢山お話してあげるわ」


 アリスは微笑みながら、「家に行きましょう」と3人を促した。3人はそれに頷いて、アリスの家へと歩き出す。ふわりとノアが手を繋いで後ろを歩き、蓮介は歩く速度を早めてグリフィンの隣を歩いていた。

 どうして自分の隣を歩くのか。疑問に思ったグリフィンは彼に尋ねる。


「お母さん達と手を繋がなくていいのか?」


 すると、蓮介は顔を赤くしながら笑った。


「もうそんな年じゃないから」


 なるほど、少し背伸びをしたい年頃なのだろうか。グリフィンがそう思っていると、蓮介は慌てて付け加えた。


「背伸びとかじゃなくて、早く大人になりたいんだよ。大人になって、ばあちゃんみたいな立派な魔法使いになりたいんだ」

「おや、そうなのか。……今、心を読む魔法を使ったのか?」

「う……ちょっとだけ。駄目だった?」


 決まり悪そうに尋ねる蓮介を見て、グリフィンは優しく目を細める。


「駄目じゃないが、使いすぎて自分の心を傷つけないように気を付けなさい。魔法は、油断すると人の心を壊してしまうからな。魔法のコントロールができて、初めて一人前の魔導士だ」

「そうなんだ」

「ああ。……心配しなくても、君ならなれるはずだ。だって、アリス先生の孫なのだから」


 グリフィンの言葉を聞き、蓮介は顔を明るくして頷いた。


「うん!」


 そのやり取りを見ていたアリスも、蓮介に微笑みを向ける。


「蓮介が立派な魔導士になった姿を見るのが楽しみね」

「ばあちゃん……俺、絶対ばあちゃんみたいな魔導士になるから、それまで待っててね」

「ええ。楽しみにしてるわね」


 アリスは蓮介に向かって目を伏せながら笑う。グリフィンが愛してやまない上品な笑顔だ。その笑顔を見て、グリフィンは悟った。


(僕の選んだ道は、きっと間違ってなかったんだ。彼女の傍にいることを選んだことも、彼女に想いを告げなかったことも……きっと、正しい道だったんだ)


 アリスを愛し、彼女の傍にいることを選んだから、こうして彼女の幸せそうな笑顔が見られた。そして、自分が想いを告げなかったから、アリスは家族との幸せを掴むことができたのだ。

 嫉妬や欲望に振り回されることもあったし、今だって彼女を愛している。しかし、彼女が幸せな世界でなければ、きっと自分は幸せになれない。そのことに、ようやっと気が付いた。


 ——彼女が、これからも家族と微笑み合いながら生きていけるように、自分にできる事はなんでもしよう。それが、僕の愛の答えだ。


 グリフィンがそう思い、微笑んだその瞬間の出来事だった。


 パアン!


 銃声の音が響いたかと思ったら、自分の視界の端に鮮やかな赤が走った。

 隣で、ばたんと人の倒れる音がする。何が起きたか、分からなかった。いや、分かりたくなかった。

 ゆっくりと隣を見ると、アリスの胸を中心に赤い液体が広がっていた。

 雑踏から悲鳴が上がる。彼女の瞳から、光が消えようとしている。


「先生……?」


 グリフィンは、ふらふらとアリスの前に膝をつく。アリスはそれに微笑んだ後、呆然としている蓮介に向かって手を伸ばした。

 刹那、白い閃光が蓮介の前に走り、彼は意識を失って倒れた。


「おばあちゃん!」


 泣きながら駆け寄ってくるふわりにも、アリスは白い閃光を放ち、意識を消し飛ばした。

 母親が眠り込んだふわりを支えながら、アリスに向かって悲痛な声を出す。


「母さん……!」


 アリスはそれに微笑んで、唇を動かす。


 ——わ、す、れ、な、さ、い。


 その口の動きを見て、グリフィンは彼女が子ども達に忘却魔法をかけたことを察した。


「そんな、忘れろだなんて……!」


 母親が涙声を出す横で、グリフィンは銃弾が飛んできた方を見た。

 すると、そこにいたのは、LODAMのスーツに身を包んだ茶髪に白髪混じりの中年の男だった。それを見て、グリフィンの胸に黒いものが燃え上がる。


 ——許さない。許さない。許さない!


 グリフィンが魔法の炎で彼を焼き尽くそうとするのを、アリスが手を握って止めた。


「……なんで? 先生、なんで!」


 グリフィンの問いかけに微笑んで、アリスは目を閉じた。握られた手の力が無くなる。それに気が付き、グリフィンは彼女の死を悟った。

 一般人が通報したのであろう。警察が到着し、逃げようとしていた銃の男を取り押さえる。


「離せ! 魔導士は……魔導士は悪魔だ! 殺さなきゃいけないんだ!」


 怒鳴り声があたりに響いた。

 救急車が駆けつける。救急隊員が彼女の状態を確かめ、首を横に振った。

 グリフィンの世界から音が消える。

 民衆の悲鳴も、サイレンの音も、母親の泣き声も、男の怒鳴り声も聞こえなくなる。

 どうして、アリス先生は死ななくてはならなかったのだろう。

 どうして、僕の愛しい人は殺されなければならなかったのだろう。

 魔導士だから? 魔導士狩りを止めたから? 彼女がしたことは間違いだったのか? そんなはずない。彼女は僕の世界を救ってくれた偉大な魔導士だ。多くの命を救った偉大な魔導士なのだ。

 なのに、なんでこんなに理不尽な死に方をしなくてはいけないんだ……!


「あ……あああああ!!!!」


 グリフィンの叫び声が辺りにこだました。

 許さない。許さない。許さない……! アリスの命を奪った人間も、LODAMも、こんな腐った世界も、全部許さない!

 ひっくり返してやる。魔導士を縛る常識も、偏見も、何もかも……僕が焼き払ってやる!!

 復讐してやる!!

 グリフィンは、胸にせり上がる熱を叫び声に変えながら、どす黒い決意を固めたのだった。


* * *


 オルラが焼いてくれたピザトーストを皿に置き、グリフィンは目元を押さえる。胸に淀んだ感情が渦を巻いていて気持ちが悪い。どうにかして、吐き出してしまいたかった。

 しかし、グリフィンは全てを飲み込んで涙を堪える。

 泣いている暇などないのだ。一刻も早く、LODAMに復讐をしなくてはならないのだ。そのために……彼女の孫に接触したのだから。

 魔導士の国を作るために日本に来たなんて、嘘だ。


 グリフィンは、彼女の家族達に、復讐の手伝いをさせるためにイギリスへ連れ戻そうとしているのだ。

 そうすることで、アリスが喜んでくれると信じて。

 そのために邪魔になる人間を排除することも厭わずに、だ。

 LODAMの人間を根絶やしにする。彼らがいる限り、魔導士達に平穏なんて訪れない。だから、終わりにするのだ。アリスが魔導士狩りを終わらせたように、自分も全てを終わらせるのだ。

 グリフィンは立ち上がり、ローブを身に着ける。

 テーブルに食べかけのピザトーストを残したまま、グリフィンは静かに家を出た。

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