16 林間学校①
ついに林間学校当日になった。ふわり達は宿泊施設のある山の麓までバスでやって来て、ハイキングの準備をしていた。
「1年B組、全員いるな。ハイキングと関係の無い荷物はバスの荷台に載せてくれ。ハイキングの際は担当教員と共に各班でまとまって歩くように」
泉の説明に生徒達が返事をし、それぞれの班にまとまり始める。ふわり達もメンバー同士で集まったが、オルラとテツの表情が明らかに暗い。
その様子を見た桂は、頭をかいて溜息をつく。
「何があったか知らないけど、気持ち、切り替えて行こうぜ。せっかく綺麗な空気吸えるんだからさ」
「そうだよ。木村もオルラさんも、元気出しな」
美世も隣から励ましの言葉を続けた。テツはそれに小さく頷いたが、普段のような作り笑いは全く浮かべない。オルラも元気なく俯くばかりだった。
ふわりは何も言えずにそれを見ていた。自分も昨日のことに関わっているだけに、何と言えばいいのか分からなかったのだ。
「3班、全員いるな」
リュックを背負った泉がふわり達の元にやって来る。
「そろそろ出発の時間だが、準備は大丈夫か?」
泉の質問に、桂は「はい」と答える。他のメンバーも頷いたのを確認して、泉はにこりと微笑んだ。
「じゃあ出発しよう。炊事の時間を確保しないといけないからな」
そう言って先導する泉の後を追い、ふわり達も山を登り始めた。
* * *
泉を先頭に、ふわり達は山を登っていく。木々の緑色と、初夏の爽やかな空気に包まれながら歩いて行くのはとても心地良かった。
ふわりは心を落ち着けながら、自分の前を歩くテツの背中を見る。
入学式の日と同じ、自分より少し大きな背中。あの日は、テツの言葉と優しさに、ただ胸を躍らせていた。
(……テツ君は、会ったときからずっと優しかった。もしかしたら、気を遣われてたのかもしれないけど……テツ君が優しくしてくれたことは嘘じゃない)
黙々と歩いて行くテツの背中を見て、ふわりは目を伏せる。
(ちゃんと知りたいな。テツ君の、本当の気持ち)
そう思いながら歩くこと数十分。山の中腹にある休憩所で、泉は立ち止まった。
「ここで休憩にしよう。しっかり休んで、10分後にまた出発だ」
ふわりは泉に返事をし、屋根の下にあるベンチに腰を下ろした。
テツと桂の姿はない。向こうにトイレもあったため、そこに行っているのだろうか。
「結構登ったねー」
ふわりの隣に腰掛けた美世が大きく伸びをする。それに微笑みながら頷いて、ふわりはベンチから遠くの空を見つめた。
雲一つ無い青空が、どこまでも広がっている。下の方に目を向けると、ここまで登ってきた道がちらりと見えた。
(意外と上まで登ってきたんだな)
ふわりがそう思っていると、隣に座ったオルラが不意に肩に寄りかかってきた。
「うわっ!? オルラちゃん?」
声を掛けると、オルラはハッと目を開けて姿勢を正した。
「ごめんなさい。実は最近、夜、不眠気味で……」
オルラはそう言うと取り繕った笑顔を見せる。そんなオルラに、ふわりは不安げな顔で尋ねた。
「大丈夫? 何か眠れなくなるようなことがあったの?」
「え……?」
「もし私で良かったら、お話聞くよ」
ふわりの思いがけない申し出に、オルラは目を丸くした。
(どうして、急に私の心配なんてするのかしら。私はあなたの恋を邪魔して、無理やりイギリスに連れて行こうとしてるのに)
オルラが黙り込んでしまうのを見て、ふわりは更に続ける。
「私、オルラちゃんの事情がよく分からないからさ。もし大丈夫だったら、教えて欲しいの。怖がってるだけじゃなくて、知りたいんだ。オルラちゃんのこと」
ふわりにそう言われ、オルラは俯いて口を閉ざす。
(もし、自分の過去を打ち明けたら、佐藤さんはどう思うかしら。否定する? それとも、施設の人のように虐げる?)
そこまで考えて、オルラはふわりの顔をちらりと見た。真剣に自分を心配してくれている、そんな表情だった。
(……いいえ、絶対にそんなことしないわ。佐藤さんは、きっと私を受け入れてくれるわね)
オルラは意を決して、自分の過去を話そうと口を開いたが、しかし。
「そろそろ出発するぞ。佐藤、安住、オルラ、準備は大丈夫か?」
タイミング悪く泉が来てしまった。ふわりと美世は返事をして立ち上がると、泉と共にテツと桂と合流する。
オルラもゆっくりと立ち上がり、その後を追った。
ふわりの背中が目に入る。オルラは彼女の後ろで、心の中で呟いた。
(……佐藤さん。あなたは、私が思っていたよりもずっと強くて優しい人だったのね)
* * *
ふわり達は山を登り続け、ついに宿泊施設の前に辿り着いた。広場には既に数班の生徒と教員がおり賑わっている。
泉達に気がついた教頭を務める男性教員が、クリップボードとペンを持って歩いてきた。
「B組の3班は学年で9番目ですね」
「おお、なかなか早いですね」
「そうですね。生徒の皆さんは広場で待機して下さい。泉先生には、到着した班の確認作業をお手伝いして頂きます。おそらく、そろそろ到着する班がどっと増えるでしょうから」
「分かりました」
教頭と共に、泉は広場の入り口の方に歩いて行く。それを見送って、桂はテツの肩を叩いた。
「テツ、ちょっと向こうで話さないか?」
「え?」
「ほら、昨日のこと」
「ああ……そう、だね」
まだ声に元気が無いテツを連れて、桂は広場の端の方に歩いて行く。ふわりはそれを心配そうに見つめていた。
(……テツ君、やっぱり元気ないな)
不安げな顔をしているふわりを見て、美世は彼女に歩み寄って背中をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫?」
「ああ、うん……」
頷きつつも、ふわりはテツが心配で仕方なかった。
——ごめんね。
昨日、自分に謝っていたテツの顔は、今思えばとても辛そうだった。
あの時、質問攻めにするのではなく、もっと言葉を選んでいたら……テツを無理やりにでも引き留めていたら、テツは今ほど苦しんでいないんじゃないか。そう思い、ふわりは目を伏せる。
そのふわりの心の中を覗き、オルラは悲しげに俯いた。
(本当に、どこまでも優しい人なのね。見ていて辛くなるぐらい、佐藤さんは善い人だわ)
オルラは自分の胸を押さえながら、更に自分に問いかける。
(こんなにも他者を愛せる優しい人が嫌がっているのに無理やりイギリスに連れて行くなんて、本当にしていいのかしら)
心の中で生まれた悩みが、寝不足で重い頭を圧迫する。額に熱が籠もっているように感じる。目眩がする……。
オルラは、立っていられずにその場に座り込んでしまった。
「オルラちゃん!?」
それに気がつき、ふわりと美世はすぐにオルラの体を支えた。
「大丈夫?」
「ごめんなさい……少し、目眩がして」
「私、泉先生呼んでくる! みよちん、オルラちゃんの様子見てて」
「分かった」
泉を呼びに走っていくふわりを見ながら、オルラは力無く笑う。
「優しい人なのね、佐藤さんって」
「え?」
「テツ君や桂君が佐藤さんを想う理由が、分かった気がします」
そう言ったきり、オルラは目を閉じてぐったりと美世に寄りかかる。
しばらくして、ふわりが泉を連れて戻ってきた。
「オルラ、大丈夫か?」
泉は、掛けられた声にも気付かずに眠り込んでいるオルラを抱き上げた。
「先に部屋で休ませる。佐藤と安住は引き続きここで待機しててくれ」
「はい!」
ふわりと美世が見守る中、オルラは泉によって運ばれていった。
* * *
一方、広場の隅の木の下で、テツと桂は座り込んでいた。
話をしようと誘ったものの、上手い言葉が出てこない。言葉に迷いながらテツの方をちらりと見ると、今朝と同じく暗い表情で俯いていた。
その表情を見て、桂は静かな声で尋ねる。
「色々聞きたいけどさ、とりあえず昨日何があったか教えて貰っていいか?」
「……うん」
テツは小さく頷くと、口を開いた。
「オルラさんに、僕の笑顔と言葉は嘘だって言われたんだ。それを、佐藤さんにも聞かれちゃって……」
「そっか。オルラがな……」
桂は昨日、自分がテツの作り笑いをオルラに指摘したことを思い出し、気まずくなって頭をかく。
「ごめん。俺がオルラに言ったんだ。テツは作り笑いが多いってこと」
「……そうだったんだ」
桂の言葉に、テツは弱々しく笑った。
「桂君には見抜かれてたんだね」
テツは、体育座りする自分の膝を両腕で強く抱きながら言葉を続けた。
「僕さ、小さい頃から転校してばっかりだったから、周りに馴染めるようにいつも作り笑いしてたんだ。そうやって嘘の笑顔ばっかりしてたから、心が許せる友達なんてできなかった」
桂はテツの言葉に黙って耳を傾ける。否定もせず、話の腰も折らず、ただ静かにテツの話を聞いていた。
「でも、佐藤さんは……そんな僕にできた、初めての心からの友達なんだ。だから、佐藤さんに向けた言葉や、笑顔は……嘘じゃないんだよ。なのに……」
テツは目を潤ませながら、小さく口を開く。
「嘘じゃないって言えなかった。本当は、佐藤さんのことが大事なのに。それは本当だったのに……」
服の袖で目元を擦る。呼吸が震え、次に出た声は嗚咽だった。
「っ……うう……」
必死に声を抑えながら泣くテツの肩を、桂はポンポンと叩く。
「……ごめん。俺、お前の抱えてる事情も知らずにキツいこと言った。作り笑いだって、必要だったからそうしてたんだよな。……でも、これだけは言わせて欲しい」
桂は、テツの顔を真っ直ぐに見つめた。
「友達には、もう嘘つくな。俺も含めて、だ」
その言葉に、テツは泣いて赤くなった目を丸くした。
彼の驚いた顔を見て、桂は少し言葉に詰まりながらも真剣な顔で続ける。
「俺さ、嘘つかれるの苦手なんだ。俺の父さんもテツと同じ作り笑いが多い人でさ、母さんが亡くなってから、警察官の仕事も家事も弱音一つ吐かずにこなしてて……俺が聞いても「大丈夫」としか言わない人だった。だけどさ……」
桂はそこまで言うと、震える声で続けた。
「無理がたたって死んじゃったんだ。ある日突然、さ」
桂の告白に、テツは悲しげに顔を歪めた。
「そんな……」
「俺、許せなかった。大丈夫じゃないのに大丈夫だって嘘ついてた父さんのことも、大丈夫じゃないって気付いてたのに見て見ぬふりしてた自分のことも。だから……自分に関わる人が嘘ついて無理してたら、今度は正すんだって決めてたんだ」
桂はそこまで言うと、テツを真剣な顔で見つめた。
「だからさ、自分勝手かもしれないけど……せめて俺の前では、無理して嘘つかないで、本当のテツで話して欲しい」
桂の真剣な顔を見て、テツは涙目のまましっかりと頷く。
きっと、今の話は桂にとって辛い話だっただろう。でも、その苦しさをおしてまで、自分に向き合うためにすべて打ち明けてくれたのだ。
そんな彼の優しさや真面目さが、テツには温かかった。
「……うん」
テツが頷いたのを確認して、桂も安心した顔で微笑む。
テツと正直に向き合うことができてよかった。テツの本音が聞けてよかった――そう思いながら、桂は照れ臭そうに目を逸らしながら右手を差し出した。
「じゃあさ、お互い隠し事はナシってことで……改めて友達になってくれないか」
「あ……」
テツは呆然としていたが、すぐに桂の手を両手で握った。
「うん! 桂君、ありがとう」
そう言うと、テツは心から嬉しそうな顔で笑ってくれた。その笑顔を見て、桂もつられて表情を柔らかくする。
「別にいいよ。改めて、よろしくな」
「うん」
2人で笑い合っていると、広場の真ん中から教頭の声が聞こえてきた。
「全班揃ったので、これから炊事の時間とします。場所はこの広場の中にして下さい。各班、必要な道具は宿泊施設の職員さんから借りて下さいね」
「桂君、行こう」
涙を拭って笑顔を見せるテツに頷いて、桂は彼と並んでふわり達の元へと歩き出した。
(テツ、悪い奴じゃなかったんだな。……ちゃんと、佐藤には正直に接してたんだ)
ちらりと見えたテツの晴れやかな表情が、眩しすぎて胸が痛んだ。
(告白もせずにテツの粗ばっかり探してた俺じゃ敵わないのも当然だな)
桂は、小さく苦笑いした。
* * *
それぞれの班が炊事を始める中、ふわり達の班もバーベキューを始めた。
桂とテツが食材を焼く横で、美世とふわりが紙皿や割り箸を準備する。
「ねえ、みよちん。後でオルラちゃんにもご飯持って行ってあげない?」
「そうだね。多分部屋で寝てるだろうけど……」
2人の話を聞き、桂が目を丸くしながらふわりに尋ねた。
「オルラ、どうかしたのか?」
「ああ、寝不足で体調悪くなっちゃったみたいで……今、部屋で休んでるよ」
「そうだったんだ……心配だな。後で肉焼いて持ってくか」
「そうだね」
ふわりはそれに頷き、紙皿を持ったままテツの方を見た。
先程よりは表情も落ち着いている。桂と話して少しは気が楽になったのだろうか。
ふわりの視線に気付き、肉を見ていたテツが顔を上げた。バチンと目が合って、ふわりは思わずビクリと体を竦める。その反応を見たテツも固い表情のまま肉を焼くのに戻っていった。
(テツ君の本当の気持ちが知りたい)
(佐藤さんの誤解を解きたい)
2人はそれぞれ目を伏せ、心の中で声を揃える。
(でも……なんて話せば良いんだろう)
ぎこちない様子のふわりを見て、美世は彼女の背中を押した。
「紙皿、木村に持って行ってあげたら? お肉焼けたら乗せて貰いな」
「う、うん……」
ふわりはカクカクとした歩き方でテツの傍に寄ると、紙皿を差し出した。
「て、テツ君。お肉焼けたらこれに乗せて」
「あ……うん、ありがとう」
テツも緊張しながら皿を受け取り、焼けた肉を皿に乗せてふわりに渡した。
「食べていいよ」
「え、いや、テツ君が焼いてるのに食べるわけには……」
戸惑っているふわりを向かい側から見ていた桂が、「佐藤、皿ちょうだい」と声を掛ける。
「あ、ごめんね!」
桂はふわりから受け取った皿にキャベツと肉を乗せると、テツに差し出した。
「テツも佐藤と一緒に食べて来いよ。食材は俺が見てるから」
「桂君、でも……」
皿を受け取るのを渋るテツを見て、桂は溜息をつく。
「あのな、テツに佐藤。食材は食わないと無くならないんだ。皿に置ける量もあんまりないし、後片付けの時間も決まってる。だから、どんどん食べろ」
「でも、桂君は食べられないし……」
「食ったら代わってくれればいいから。気にしないで食べてこい」
桂の有無を言わせぬ口調を受けて、テツはそれを受け取り頭を下げた。
「ありがとう。佐藤さん、そこに座って食べよう」
テツはふわりを促し、肉球柄のレジャーシートに腰を下ろした。
「いただきます」
テツはそう言うと、キャベツを口に運んだ。しかし、緊張で味がよく分からない。
(気まずい……)
テツが浮かない顔で箸を止めるのを見て、ふわりは慌てて口を開く。
(何か喋らなきゃ……!)
「テツ君!」
「あ、何……?」
「えっと、えっと……ほら、あのキャベツに混ぜると美味しいやつ! 持ってくれば良かったね……」
「ああ……えっと、なんて名前だっけ? 何とかキャベツみたいな……」
「えっと……シャキシャキキャベツだっけ?」
ふわりの言葉に、テツはぽかんとしていたがやがて吹き出した。
「ふふ! それじゃ、ただのキャベツだよ」
テツの笑うのにつられて、ふわりも思わず声を出して笑ってしまった。
「あはは! ほんとだ……ふふっ、シャキシャキキャベツ……新鮮そう……」
テツは涙を拭いながら笑うふわりを見て、頬を僅かに赤らめる。
(良かった。笑ってくれた……)
ふわりの笑顔を見るだけで、心の底から幸せになれる。この気持ちは嘘じゃない。ふわりの笑顔を前にしている時の自分は、いつだって正直だった。
ふわりの優しさが、テツを正直にさせてくれるのだ。
そんな彼女の隣が、やはり誰といるより心地よかった。
テツは顔が熱くなるのを感じながら、キャベツを口に運んだ。先程とは異なり、きちんと甘い味がした。
一方のふわりも、ひとしきり笑った後でテツの緩んだ頬を見て安心する。
(良かった。いつものテツ君だ)
そう胸を撫で下ろし、ふわりは先程のテツの笑顔を思い出す。
キャベツで笑っていたテツの、楽しそうな顔。わざと作っているような笑顔じゃない。心の底から笑っているように見えた。
仮に作り笑いだとしても、テツが自分に笑顔を向けてくれたことは事実だ。
今までテツが見せてくれたどんな笑顔も、ふわりにとっては「嘘」じゃない。全部、自分を幸せにしてくれた「魔法」だ。
(……やっぱり私、テツ君が好きだな)
ふわりはそれを再確認し、頬を染めて微笑んだ。
* * *
2人が笑いながら食べているのを見て、桂は思わず苦笑いする。
(あー、何してんだ俺は。なんでこう、ライバルの背中押すようなことばっかするんだ?)
向かい側で肉を焼くのを手伝っていた美世も、桂を可哀想なものを見る目で見ていた。
「桂、ドンマイ」
「はは……どうも」
桂は、乾いた笑い声を出しながら肉を皿に乗せる。
「安住、これ食べるか?」
「いいよ。あんたが食べなさいよ」
美世に促され、桂はレジャーシートを見たが、ふわり達がいる場所で食べる気になれなかった。
テツとふわりの背中を切なげに見つめる桂が見るに堪えず、美世は思わず桂に声を掛ける。
「桂にもできるよ。桂のこと見てくれる恋人」
「……そうかな」
「そうだって。あんた、いい人だし真面目だし……きっと長所を見てくれる人がいるって」
「だと、いいけどな」
桂は悲しげに笑いながらそう言うと、肉の乗った皿に野菜を追加し、2人分の肉と野菜が乗った皿を作ってコンロから離れた。
「どこ行くの?」
「オルラのとこ。俺、そっちで食べる。佐藤達の邪魔したくないからさ。後片付けまでには戻るから、残りはみんなで食べてくれ」
桂はそう言うと両手に皿と割り箸を持って宿泊施設に歩いて行ってしまった。
美世はそれを心配そうに見送って、小さく呟く。
「あいつ、まじでお人好しだな」
* * *
カーテンの隙間から入ってきた柔らかな風で、オルラは目を覚ました。
どうやらあの後、宿泊部屋に運ばれたらしい。オルラは、先日泉から説明を受けた通りの二段ベッドがある部屋にいた。今オルラが寝ていたのは下の段だ。
まだ少し気持ち悪い。起き上がるのはやめておこうと思い、オルラは目線だけ動かして部屋の中を見た。するとオルラのベッドのすぐ脇で、クリップボードに挟んだノートに何かを書いている泉の姿が目に入った。
「何書いてるんですか?」
小さく声を掛けると、泉はにこりと笑ってオルラの方を向いて座り直す。
「おはよう。私のこれは活動記録ノートだよ。先生やってて、良くできた点とか反省点とか記録してるんだ。まあ、義務とかじゃなくて自分で勝手につけてるだけだけどな」
「そうなんですか」
「それより、オルラ。体調はどうだ?」
泉に尋ねられ、オルラは額に手を当てながら呟く。
「まだ少し気分が悪いです」
「そっか。無理しないで、落ち着くまで横になってて大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
オルラは短く礼を言って、ぼんやりと二段ベッドの天井を見上げた。その眠りにつかない様子を見ながら、泉は優しく尋ねる。
「佐藤から寝不足だって聞いたよ。不眠なんだって?」
「ええ、まあ……」
「もし不眠の理由が話して楽になるような理由だったら、今、私が聞こうか?」
泉に尋ねられ、オルラは少し迷ったが、先生であれば大丈夫だろうと思い直して口を開いた。
「昔の夢を見てしまって眠れないんです。イギリスにいた頃、両親と死に別れて施設で虐待されて……道端で倒れていた私を拾ってくれた人との出会いを、何度も夢に見るんです」
オルラは頭を押さえながら、更に続ける。
「その人の腕の温もりで目が覚めるの。でも、現実では……その人は、私を見てくれない。その事実を、毎日確認して起きてるんです。次第に眠るのが嫌になってきました。でも、夜眠り込むといつもこの夢を見るんです。それが辛くて」
「……そうだったのか」
泉は静かにそう言うと、クリップボードを床に置いた。
「好きな人に、自分を見てもらえないのは辛いよな」
「泉先生にも分かるのですか?」
「まあな。それなりに恋も失恋もしてきたから」
泉は笑いながら、懐かしそうに上を向く。
「初めての失恋は、オルラと同じ高校1年の時だ。絵の上手い先輩がいてな、その人に憧れて美術部に入ったんだけど、その先輩にはもう彼女がいたんだよな」
「まあ……」
気の毒そうな顔をするオルラに照れ笑いしながら、泉は付け加える。
「でも、今は大学3年の時に知り合ったイラストサークルの後輩と付き合ってる。その彼は私のことをちゃんと見ていてくれる人だ。……まあ、要するに、だ」
泉はオルラに微笑みながら、優しく告げる。
「オルラは1人じゃない。同じ悩みを抱えている人もいるし、ちゃんとオルラを大事にしてくれる人もいるってことだよ」
泉の言葉を聞いたオルラは、再び天井を見つめる。ふと、脳裏に昨日の桂の顔が浮かんだ。
たしかに、桂も自分と同じ悩みを抱えている。しかし、彼なりに一生懸命だ。そんな真面目さが、オルラには眩しく映った。
そんなひたむきな桂と、なんとなくまた話がしてみたくなった。
彼ならきっと、自分の気持ちを分かってくれるだろう。そう思ったから。
「……そうですね」
ほんの少しオルラの纏う空気が和らいだのに気がつき、泉は目を細めた。
その時、部屋のドアがノックされた。泉がドアを開けると、そこには肉と野菜の乗った皿を持った桂がいた。
「桂じゃないか。どうしたんだ?」
「オルラに昼飯持ってきたんですけど、大丈夫そうですか?」
「ああ、さっき目を覚ましたところだが、まだ少し体調が優れないみたいだな」
「そうですか……」
2人のやり取りを聞いていたオルラは、重たい体を起こしてベッドから降りると、泉に声を掛ける。
「泉先生、私なら大丈夫です。桂君と、お話しさせてくれませんか?」
「本当に大丈夫なのか?」
「ええ。1人で寝てるだけの林間学校もつまらないですし」
「……それもそうか」
オルラの言葉を聞き、泉は少し迷ったが、桂を部屋に入れた。
桂はオルラの傍に来ると、食材の乗った皿と割った割り箸を彼女に手渡す。
「食べられそうか?」
「ええ、ゆっくり食べれば大丈夫です」
オルラはにこりと笑ってそれを受け取ると、床に座って箸で人参を口に運んだ。
「……美味しい。誰が焼いてくれたの?」
「人参と玉ねぎは安住。肉は俺が焼いた」
「そう。ありがとう」
桂はその様子を見て微笑みながら、「いただきます」と呟いて肉を口に運んだ。
口に入れたそれを飲み込んで、桂はオルラに尋ねる。
「寝不足って聞いたけど、大丈夫か?」
「ああ……佐藤さんから聞いたの?」
「まあな。眠れなくなるような理由でもあったのか? 俺でよければ話聞くけど」
桂の言葉を聞き、オルラはクスリと笑う。
「佐藤さんと同じことを言うのね」
「は?」
「登山の時、佐藤さんにも同じことを言われたの。心から心配そうな顔でね」
「そうだったのか」
「……私は、佐藤さんの恋を邪魔しようとしていたのにね」
オルラの言葉を聞き、桂は頭をかく。
「佐藤をイギリスに連れて行きたいんだっけ」
「あら、それも佐藤さんから聞いたの?」
「うん。昨日な」
「ふふっ、なんだかんだ仲良しじゃないですか」
「うるさい」
顔を赤らめた桂に睨まれ、オルラは可笑しそうに笑うと、視線を下に向けて小さな声で語り始めた。
「私ね、自分の愛する人のために佐藤さんをイギリスに連れ戻そうとしてるの。彼に、振り向いて貰うために。でも……佐藤さんを見ていると迷ってしまうわ。愛する人を振り向かせるためだけに、誰かの人生を制限していいのかって。それに……」
オルラは桂の顔を見て、柔らかく微笑む。
「彼のためだけに生きなくても、私には他に私を大事にしてくれる人がいるような気がするの。佐藤さんや、今のあなたのように」
オルラの人形のように可愛らしく、それでいて心のこもった笑顔を見て、桂は思わず赤面した。
(お、俺は佐藤が好きなのに……)
内心頭を抱えつつも、オルラの素直な言葉と笑顔が、なぜだかとても嬉しかった。
桂はオルラに微笑み返して口を開く。
「そういう風に言って貰えるのは嬉しいよ」
「ふふっ、そう? 佐藤さんの笑顔の方が嬉しいんじゃない?」
「う……一言多いな。素直に受け取れよ」
「ええ、分かりました。……ありがとう。桂君」
オルラの優しい笑顔を見て、桂は目を伏せながら微笑む。
自分が好きなのはふわりで、オルラはただのクラスメイトのはずなのだ。
なのに、どうしてだろう。
オルラの笑顔がもっと見たと思ってしまうのは。オルラの声がもっと聞きたいと思ってしまうのは。
同じ悩みを抱えた者同士だからだろうか。
彼女のことが、もっと知りたくてたまらない。
(顔、熱い……)
桂は心臓の心地良い鼓動を聞きながら、目を閉じて頬の熱を感じた。




