9話 快足リスタート
走る。ただひたすらに。
走る。地面を蹴り、砂を巻き上げて。
走る。次の塁を目指して。
鍵谷という姓名は野球界より陸上界で名高い。
鍵谷夫妻はこの国で最も有名な陸上選手だからだ。
当然、その息子である鍵谷宗太は陸上界を将来背負う存在として期待されていた。
そんな彼が野球に足を踏み入れるきっかけとなったのが大村航大による勧誘だった。
これは鍵谷が主戦場を陸上から野球に切り替えるまでの顛末である。
鍵谷は退屈していた。
「短距離……また勝ってしまったな」
独り言が漏れる。
先日の大会で出してしまった新記録。
中学一年における日本記録をだして優勝。
彼の両親はそりゃ喜んだ。
だが鍵谷はわかっていた。内心ふたりは勝って当然だろうと思っている。
鍵谷には陸上の血が流れている。誰もが羨む血統は期待通りの成績を残しつつあった。
彼の小学時代、体育のかけっこや運動会では負け知らず。リレーに出れば誰もが諦め、チーターとまで言われるようになった。
そういった憎まれ口、雑音が気にならなかった訳ではないが、何よりライバルがいないことは鍵谷にとってとてもつまらないことであった。
確かに一位になれることは嬉しいことに違いないが、それもずっとそうなら平たんな日常と同じで飽きが来る。
それがより鮮明になっていた鍵谷は鬱屈した日々を過ごしていた。
そんなときだった。
「なんて顔してるんだ、陸上部のスターさんよ」
「お前は……」
大村航大。
中学一年でいきなり強豪シニアチームの一軍入りを果たしたという噂を鍵谷は聞いていた。
だが同じ中学生アスリートでも種目の違う彼との関わりは薄いというかほぼない。
「優勝したんだってな。同じクラスの人間として気まぐれで祝いのひとつもしようと思ったが、なんとも辛気臭い顔が目についてな」
「そんなにひどい顔だったのか」
「まるで溝にシューズを落としたとか、買ってた金魚があの世に行ってしまったとか、そういう類いの顔だ」
ほぼ話したことのない相手になんてことを言うんだ、と思った鍵谷だが、彼なりのコミュニケーション方法なのだろう。
少しムッとしたが、こらえて口を開く。
「うちにペットは居ねえ。そんなんじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……つまんねぇ、ってな」
そう言うと彼は笑い出した。
「なんだそりゃ! 俺はてっきりお前を陸上ロボットか何かだと思ってたが……。ちゃんと人間なんじゃないか。安心したぜ」
「言ってくれるじゃないか。そうそう他人に腹を割って話せることじゃない。こんなこと同じ陸上の奴らなんかに言ってみろ、間違いなく怒り狂うぞ」
鍵谷の言葉に航大は納得しつつ、ひとつの結論に至った。
「まあ、スポーツは違えど気軽に話のできるクラスメイトがいると気が楽になるよな、お互いさ」
「そうだな。でも当分、この気持ちは心に残りそうだ」
拮抗した勝負のできる相手がいないこと。
鍵谷にとってはあまりいいものではない。
ただ勝てばいいだけでは物足りなかった。
競った上で勝つ。
そんな戦いができなくなって久しいが。
鍵谷が考えをめぐらせていると、航大がある提案をしてきた。
「じゃあ、その足を存分に活かせる別競技があるとしたら、お前はどうする?」
「何? そんなものがあるなら早くーー」
「野球さ」
野球。
打って投げて守る。
あらゆる動作に足は関わってくる。
走塁、盗塁という見せ場もある。
だが、鍵谷には不安があった。
「俺、野球は初心者だぞ。話的に俺を勧誘しようとしてるみたいだが、そっちは強豪なんだろ? 俺が入ってまともな戦力として戦えるかどうか……」
が、その不安を航大は一蹴する。
「安心しろ。お前以上の足を持つ選手はうちにはいない。今日明日でバッティングや守備が良くなるなんて思わないし」
航大は足以外の部分は問題ないと言ってみせた。
「でもよ……」
まだ不安な鍵谷に航大は言う。
「誰だって打撃や守備を三年かけて練習すりゃ並以上になる。その辺は心配しなくていい。足を活かしたプレーができればいい。強みを伸ばせば一軍はすぐそこだ」
並の選手では届かない打球に手が届く。
先の塁に手が届く。
内野ゴロがヒットになる。
鍵谷より足を活かせる選手はいない、とおそらく航大は思っている。
これほど熱心な相手を鍵谷は知らない。
「そういえば、いつだったか。勝つことが当然みたいな空気になってたのは」
親からも褒められるというよりそういった空気を感じ取っていた鍵谷は陸上への興味を徐々になくしていっていたのだと実感した。
ならば、取るべき道に迷いはない。
「お前が必要だ、鍵谷」
航大から最後のひと押し。
答えは決まっていた。
「……わかった。入ろう。どこまでこの足が食らいつけるかわからないがな」
「……ありがとう」
週末、グラウンドで。
鍵谷と航大は約束をとりつけ、二人は分かれた。
こうして意外な場所から新戦力を手に入れた北近畿シニアは、さらなる高みへとまた一歩づつ進んでいく。
野球人としての鍵谷の活躍が全国に知れ渡るようになるのはもう少し先のお話である。




