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時代遅れと笑われた古参ヒーラー、二十年前の撤退支援で全滅確定の戦場を支配する  作者: 青柳 玲夜(れーやん)


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第九話 犬に触るな

 旧搬送路の奥へ入る募集は、前より少しだけ条件がよかった。


 奥に入る分、帰りは長くなる。報酬が上がる理由なんて、それだけで十分だった。


 ただ、俺が見ていたのは報酬欄じゃない。


 はじめてのダンジョンから戻った夜、酒場で耳にした話だ。エルが、旧搬送路のもっと奥で目撃されたという。高レベルの探索者と組んで、初心者には入れない区画まで進んでいるらしい。


 追いつくには、奥へ行くしかなかった。


 掲示板を眺めていると、ミドリがふと一枚の古い貼り紙を指でつついた。


「ねえ、これだけ紙が黄ばんでる。白鯨坑道・周辺調査、経験者のみ、だって」


 その名前を読み上げた瞬間、近くで杯を持っていた探索者が手を止めた。こちらを見ると、すぐに目を逸らす。


「俺には関係のない募集だ」


 俺はそう言って、貼り紙から目を離した。


 その時の俺は、その名前に何の意味も感じなかった。今思えば、間抜けな話だ。だが当時は、目的地でもない古い募集の一枚でしかなかった。


 奥へ向かう一行は、前回より少し大所帯だった。前衛が二人、後衛に魔法使いが一人。それに、俺とミドリ。荷物持ち兼採取補助の枠で、もう一人、初心者が混じっていた。


 それが、アオイだった。


 明るい娘だった。初めて会ったその場で、すぐに俺たちの名前を覚え、馴れ馴れしく話しかけてくる。怖いという感覚がどこか薄い。ダンジョンに潜るのに、遠足にでも来たような顔をしていた。


「採取補助なんですけど、いろいろ見ていいですか? せっかくだし」


「勝手に触らないでね。ここ、初心者用の区画じゃないから。光るやつとか、動くやつとか、可愛いやつほど危ない」


 ミドリが軽く釘を刺した。


「はーい」


 返事だけはいい。だが目はもう別の方を見ていた。


 奥は、前回より空気が重かった。


 前衛が出てくる魔物を捌いていく。俺は相変わらず、ほとんど出番がない。一度、前衛がかすり傷を負ったのでヒールをかけたが、塞がるのが遅い。前衛は待ちきれず、もう次の敵へ向かっていた。


「兄ちゃんのヒール、のんびりしてるな」


「すみません」


 返す言葉もなかった。


 その横で、ミドリは手を止めない。分かれ道のたびに素早く印をつけ、紐を張り、時々目を閉じて弱い探知魔法を流す。地図の上に、来た道を確かに刻んでいく。


 俺はただ、その後ろで全員の位置を何となく見ていた。


 通路の左に、膝くらいの高さの横穴が開いていた。


 その手前で、何かがうずくまっている。


 小型犬みたいな生き物だった。薄汚れた毛玉が震えている。こっちを見て、弱々しく鼻を鳴らした。怯えているようにも見えた。


「えっ、何これ。犬?」


 アオイの声が跳ねた。


「かわいい……怪我してるのかな」


「犬に触るな」


 ミドリが即座に言った。


 その声は軽くなかった。


「でも、震えてますよ」


「見た目で判断しない。近づかないで」


 ミドリは目を閉じて探知を流した。それから首をかしげる。


「……敵意、弱いね。魔力反応も小さい。近くに、大きいのもいない。たぶん、はぐれた個体……かな」


 最後だけ少し曖昧だった。


 ミドリの探知は、安全寄りの結果を返していた。


 アオイがしゃがみ、手を伸ばそうとする。一歩、前へ出た。警告が耳に残っていなかったのか、反応が弱いという言葉だけを聞いたのか。


 俺には、そいつが危険かどうかなんて分からなかった。犬に見えた。探知も安全寄りだった。


 ただ、別のことが見えた。


 アオイが前に出る。前衛二人が、つられて半歩動く。ミドリもアオイを気にして、印付けの手を止める。横穴の前で人が詰まれば、後ろへ戻る道が細くなる。そこでアオイに何かあれば、誰かが助けに出る。もっと詰まる。


 危ないかどうかじゃない。


 今、そこへ行かせてはいけない。


 考えるより先に、手が動いていた。


 アオイの半歩先に、薄い聖壁を置いた。


 アオイが、それに額からぶつかった。


「いっ……何? 邪魔なんですけど!」


 彼女が振り返って、俺を睨む。


 その、まさに次の瞬間だった。


 うずくまっていた毛玉の口が裂けた。


 耳元まで、ぐにゃりと。か細い鼻面が別物に変わる。首がありえない長さに伸びて、アオイのいた場所へ牙を突き出した。


 聖壁の、すぐ向こうで。


 当時の俺の壁は薄かった。牙そのものは止められなかった。だが、聖壁にぶつかった分だけ、アオイの体は前へ出なかった。その分だけ牙は空を切った。喉があったはずの場所を。


「うわっ……」


 アオイが尻もちをついて後ろへ転がる。同時に横穴の奥から、同じような毛玉が何匹も湧き出してきた。背後を取る気だ。一匹で人を近づけ、群れで囲む。そういう魔物だった。


「前衛! 横穴!」


 ミドリが叫ぶ。


 前衛の二人が舌打ちしながら前へ出て、首の伸びた個体を断ち切った。湧いてきた群れも、狭い横穴の出口で数を絞って片付けていく。


 俺はその間、アオイの襟を掴んで後ろへ引きずっていた。倒れた場所が悪い。横穴の真正面だ。少しでも、群れの口から遠い方へ。


 群れが片付くまで、そう長くはかからなかった。


 アオイは地面に座り込んだまま、自分の喉に手を当てていた。さっきまで牙があった場所だ。指が震えている。


「……今の、犬。私、触ろうとして」


 彼女が掠れた声で言った。


「触ってたら、喉を持っていかれてたよ」


 ミドリが淡々と言った。本当のことだった。


 前衛の一人が、犬だったものを見下ろした。


「今の壁、邪魔だと思ったが」


 男は、刃についた血を払って言った。


「なかったら、その子は喉を裂かれてたな」


 アオイが俺を見た。さっき邪魔だと睨んだ目とは違っていた。何が起きたのか、まだ飲み込めていない。ただ、自分があの薄い壁一枚で死なずに済んだことだけは分かったらしい。


「……あの、さっきの。ありがとう、ございました」


 俺は何も言わなかった。


 礼を言われるほど、立派なことをした気はしなかった。壁は牙を止められなかった。ただ、アオイの足を半歩止めただけだ。


 ミドリが、犬だったものの死骸を見下ろしていた。それから、ぽつりと言った。


「今の、よく止めたね」


 褒めているようで、少しだけ不服そうでもあった。自分の探知が安全寄りだと言ったものを、俺が止めた。その意味を、ミドリはまだ上手く飲み込めていない。


「反応は弱かった」


 ミドリは小さく言った。


「でも、安全だと思ったのは、私の間違いだったんだね」


 たぶんこの時点では、ミドリはまだ、自分の方が俺より現場慣れしていると思っていた。実際、その通りだった。道を見つけるのはミドリだ。安全を測るのも、ミドリだった。


 俺が見ていたのは、その道を使う人間がどう動いて、どこで戻れなくなるか。それだけだった。


 帰り道、さっきの横穴の前を通りかかった時だった。


 アオイが、犬だったものの死骸を避けるように歩きながら、思い出したように言った。


「そういえば、ダンジョンに入る前、エルって名前を出してましたよね」


 俺は返事をしなかった。


「その人、もしかして弓を使う人ですか?」


 弓。


 俺は、その言葉に少し遅れて反応した。


「……弓?」


「名前までは自信ないです。でも、旧搬送路の奥で弓に替えてから強くなった女の人がいるって聞きました。前は剣を持ってたのに、弓に替えてから急に強くなったって」


 アオイは、さっき犬だったものが転がっていた方を見た。


「その人がいたパーティ、こういう擬態する魔物も、近づく前に弓で処理して進んだらしいです。たぶん、エルって名前だった気がします」


 俺の知っているエルは、前に出たがっていた。


 守られる側じゃなく、守る側になりたいと言っていた。剣を持って、誰かの前に立つ自分を夢見ていた。


 そのエルが、俺の知らない場所で剣を置き、弓を取っていた。


 前に出るのではなく、遠くから危険を射る女になっていた。


 俺たちが毛玉に喉を持っていかれかけた場所を、エルのいるパーティは止まらずに抜けたらしい。


 俺は犬みたいな魔物一匹に手も足も出ず、味方の足を半歩止めるのが精一杯だった。


 遠い、と思った。


 背中が、また遠ざかった気がした。


 その時まで、俺は支援ってのは、味方を気持ちよく動かす仕事だと思っていた。前衛を強くして、傷を塞いで、後ろから押してやる仕事だと。


 だがその日、俺は初めて、聖壁を味方を止めるために使った。


 止めなければ、アオイは死んでいた。


 ミドリが拾った反応は弱かった。敵意も弱く、魔力反応も小さく、近くに大きな魔力もなかった。


 それでも、安全ではなかった。


 反応が弱い。だから安全。


 そう考えるのは簡単だった。


 俺はその日から、その簡単さを少しだけ疑うようになった。

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