第八話 帰還アイテムはない
その募集に名前を書くのに、時間はかからなかった。
俺には、エルへ近づく最初の切符に見えていた。報酬が少ないことも、初心者可であることも、その時は都合のいい条件にしか見えなかった。
ミドリだけが、最後まで貼り紙の一番下を見ていた。
帰路保証なし。
その一行の意味を、俺たちはまだ知らなかった。
募集主のパーティとは、翌日、酒場の隅で顔合わせをした。
歓迎されているわけじゃないのは最初から分かった。リーダー格の無精髭の男が俺たちを上から下まで眺め、面倒くさそうに条件を並べた。
「支援が足りねえから入れる。スカウト見習いも荷物くらいは持てるだろ。だが条件がある。二人で報酬は一人分。取り分に文句は言うな。足を引っ張ったら、その場で置いていく。――それと、帰路保証なしの意味は分かってんな」
「分かってます」
俺は即答した。
分かっていなかったから、即答できた。帰りは自分で何とかしろ、くらいの意味だと思っていた。
ミドリが一瞬何か言いたそうにした。だが俺の顔を見て口をつぐんだ。俺がエルのことで焦っているのを分かっていたんだろう。
出発までは二日しかなかった。
スカウト見習いのミドリは、その間に登録所の端に貼られていた旧搬送路の地図を写した。安いチョークを買い、細い紐を荷物に結び、曲がり角で印を残す練習までしていた。
「迷ったら終わりでしょ、こういうの」
そう言って笑うミドリの方が、よほど探索者らしく見えた。
俺がどうにか習得できたのは、弱いヒールと、効いているのか分からないバフ。それから技能表の隅にあった薄い聖壁だけだった。壁なら一度くらい誰かを守れるかもしれない。その程度の考えだった。
旧搬送路外縁区画は、地下搬送路を呑み込んだようなダンジョンだった。
何かを運ぶためのレールと通路だけが残り、そこに魔物と横穴が湧いている。
二十年後の探索者が当たり前に使うような探索端末も、自動マップもない。あるのは入口に貼られた手書きの地図。チョークの印。要所に渡されたロープ。誰かが残した走り書きのメモ。そして、安物の魔石灯の頼りない光だけだ。
錆びたレールが、闇の奥へ伸びている。朽ちた台車が横倒しになっている。壁は湿り、あちこちに横穴が口を開けていた。崩れかけた支柱が、天井をかろうじて支えている。
初心者向けとは聞いていた。だが安全とは誰も言っていなかった。
行きは拍子抜けするほど簡単だった。
前衛の二人が、出てくる魔物を危なげなく片付けていく。無精髭のリーダーと、短気そうな槍持ち。小型の個体ばかりで数も多くない。俺の出番はほとんどなかった。弱いヒールを一、二度かけたが、かすり傷を塞ぐ程度で、誰も本気では当てにしていなかった。
入口の地図を俺がぼんやり眺めている間に、ミドリはもう分岐の形を覚え始めていた。荷物を背負い、分かれ道のたびに壁へチョークで印をつける。
「レイ、今の曲がり角、帰りは逆になるからね」
「……分かってる」
「ほんとに?」
言い返せなかった。少なくとも帰り道のことは、俺よりミドリの方が分かっていた。
「ねえレイ、これ、思ってたより楽勝じゃない? 報酬少ないって書いてあったけど、これなら全然――」
「気を抜くな。行きが楽な坑道ほど、帰りで事故る。昔からそうだ」
無精髭の男が、ぴしゃりと言った。
その時の俺は、その言葉を聞き流していた。
こんなものかと思いかけていた。少しだけ安心していた。エルも、こういう場所を潜っているのか。そう思うと追いつける気がした。
異変は、引き返し始めてすぐに起きた。
来たはずの横穴の一つが、魔物の巣になっていた。行きにはいなかったはずだ。湧いたのか、移動してきたのか、誰にも分からない。
「ここ、行きより湿ってる。水がどっかから来てるよ」
ミドリの声が硬くなった。
見ると、彼女がつけたチョークの印が壁を伝う湿気で半分流れていた。どっちの道から来たのか、分岐の前で全員の足が止まる。
そして来た道の後方からも、別の魔物が湧いた。
前と後ろ。両方を塞がれかけている。
「奥だ! 奥へ逃げろ!」
槍持ちが叫んだ。
「馬鹿言え、戻るんだよ!」
無精髭の男が怒鳴り返す。
指示が割れた。パーティが混乱する。誰かが足を滑らせて転んだ。立ち上がろうとして、魔物の一撃を肩に受ける。
負傷者が出た。
前に進むより、戻る方がずっと難しくなっていた。
その時、俺は初めて知った。
ダンジョンは、奥へ進むことより帰る方が怖い。
頭の隅で俺は無意識に、何かを探していた。
ゲームなら、帰還アイテムがある。最悪、死に戻りもある。どこかに、やり直しの手段が用意されている。
ない。
ここには、そんなものは一つもない。帰り道を失えば、その場で終わりだ。死ねば戻らない。助けが来る保証もない。
掲示板のあの一行が、頭に蘇った。
帰路保証なし。
あれは、ただの注意書きじゃなかった。帰れなくなった人間を、誰も迎えには来ないという意味だった。
負傷者にヒールをかけた。
ほとんど効かなかった。肩の傷は塞がらない。魔力だけが無駄に減っていく。
焦った。
支援職のくせに、何の役にも立てていない。
だが焦りの中で、俺の目だけが勝手に別のものを見ていた。
前衛は、敵を見ている。倒すべき魔物を。
ミドリは、横穴を見ている。次に何が出てくるかを。
俺は――気づくと、全員が戻れる幅を見ていた。
通路のどこが空いていて、どこなら何人が並んで下がれるか。負傷者をどこに置けば邪魔にならないか。誰が、まだ自分の足で動けるか。
まだ撤退支援なんて言葉も知らなかった。ただ、視線だけが少し変わっていた。
「前に出すぎるな!」
気づいたら、俺は叫んでいた。
「倒さなくていい! 下がる場所を空けろ!」
前衛が一瞬こっちを睨んだ。素人が何を言うという顔だ。だが混乱した今、誰かが指示を出すしかなかった。
俺は負傷者を壁際から通路の中央寄りへ引きずり出させた。壁際は横穴から狙われる。中央ならまだ両側に人を立てられる。
「ミドリ! 印が残ってる側はどっちだ!」
「右! 右の方が、まだ印が見える!」
「左は?」
ミドリは壁に指を当て、短く息を止めた。見習い用の弱い探知を、横穴の奥へ流しているのだと後で聞いた。
「違う。音が返ってこない。風もない。たぶん奥が詰まってる!」
ミドリが道を選んだ。
俺は、その道へ全員を流す幅を見た。
帰る線が、一本見えた。
あとは、そこへ全員を流し込むだけだ。弱いヒールを連打する暇に、まだ動ける奴を一歩ずつ下がらせる。
追ってくる魔物に向けて、俺は覚えたばかりの薄い聖壁を張ってみた。
失敗した。
壁は出るには出たが、位置がずれて、前衛の一人の足元を塞いだ。
「邪魔だ、引っ込めろ!」
男が怒鳴った。
慌てて消した。だがそのわずかなズレが、一瞬だけ魔物の爪もずらした。
前衛に襲いかかった一撃が、聖壁の縁に当たってほんの少し逸れた。男は舌打ちしながらも、致命傷を受けずに済んだ。
偶然だった。狙ってやったわけじゃない。
だが、頭の片隅に何かが引っかかった。
守るための壁が、邪魔にもなり、助けにもなる。
その時はまだ言葉にならなかった。ただ、敵の一撃を少しだけ狂わせることも、支援なのかもしれないと思った。
全員が、右の通路へ一歩ずつ下がっていく。負傷者を真ん中に挟んで。誰も、欲を出して敵を深追いしなかった。
気づけば、入口の光が見えていた。
誰も死ななかった。
ただ、それだけだ。
大きな獲物もなし。報酬は事前の言葉通り、雀の涙。二人で一人分。手のひらの中のわずかな金を見て、ミドリが力なく笑った。
「割に合わないなあ、これ」
無精髭の男が、俺を見た。
「ヒールは下手くそだな」
「……すみません」
「正直、嬢ちゃんの方がよほど使えた」
その時の俺も、そう思った。
ミドリが見つける道を、疑う理由なんてどこにもなかった。
「だが、下がらせ方は悪くなかった。あれがなきゃ、一人くらい置いてきてた」
褒められたわけじゃない。だが役立たずと言い切られたわけでもなかった。
それだけで、その時の俺には十分だった。
ミドリは小銭を握ったまま、坑道の入口を見ていた。
「次は、もうちょっと条件いいやつ探そ。奥の方なら、報酬も上がるっしょ」
軽口だった。
さっき死にかけたばかりだというのに、その声には、こりずに奥を見ようとする色が混じっていた。地上に出てもなお、彼女の目が無意識に背後の坑道の口を確かめているのに、俺は気づいていた。
その日、俺にできたのは、誰かを治すことではなかった。
負傷者の傷は結局、地上の治療院で塞いでもらった。俺のヒールじゃ最後まで足りなかった。
ただ、誰がどこを通れば生きて帰れるのかを、初めて考えた。
ダンジョンで一番怖いのは、奥へ進むことじゃない。帰る道が、いつの間にかなくなっていることだ。
二十年後まで続く癖は、たぶんその日、その帰り道で始まった。
報酬を受け取って登録所へ戻った時、募集紙を貼り替えていた職員が、ふと思い出したように言った。
「そういや、エルって子を探してるんだったな」
俺は顔を上げた。
「旧搬送路の奥で見たって話がある。外縁じゃない。もう一段、奥だ」
その一言で、俺は今日死にかけたばかりの坑道をもう一度見てしまった。
俺はまだ、エルの背中にも追いついていなかった。




