第七話 スキルリセットはない
俺はヒーラーになると決めた。
ただ、その決め方はゲームの職業選択とはまるで違っていた。
ゲームなら、ビルドを間違えてもリセットがある。振り直しがある。気に入らなければ、別のキャラを作り直せばいい。
現実は違う。
覚えた術式は頭から消えない。体に通した魔力の癖も、訓練に使った時間も、はたいて買った装備も、なかったことにはできない。一度進んだ道を引き返す時は、ずっと多くの時間と金がいる。
だから誰も、主流から外れたスキルなんて簡単には取らない。間違えれば、それを背負ったまま生きていくしかないからだ。
そんなことも当時の俺は分かったつもりになっていただけだった。
当時、素人の単独潜行は自殺扱いだった。
しかもダンジョンはもう、何も知らない初心者が一人でふらっと入っていける場所ではなくなりかけていた。募集の読み方も、装備の相場も、どの言葉が危険の合図なのかも分からない。
俺一人で聞けることなんて、たぶんなかった。
だから誰かを巻き込むしかなかった。
声をかけたのはミドリだった。一緒にオンラインゲームをやっていた女友達だ。物好きで肝が据わっていて、こういう無茶に乗ってきそうなのはこいつくらいしかいなかった。
事情を話すと、ミドリは缶コーヒーを片手ににやりとした。
「つまり、逃げた彼女を追いかけるためにリアルダンジョンへ行きたいと」
「逃げたとは言ってない」
「連絡切られて、居場所がダンジョン。だいたい逃げてるでしょ、それ」
言い返せなかった。ミドリは笑っていたが、その目はこっちの傷の深さをちゃんと測っていた。茶化しているようで、必要以上には踏み込んでこない。そういう距離の取り方をする女だった。
「で、勝算は?」
「ない」
「正直でよろしい」
ミドリは缶を呷った。
「まあ、いいよ。付き合う。どうせ私も、一回くらい本物に潜ってみたかったし」
その声が、冗談にしては少し軽すぎた。
今なら分かる。ミドリも、画面の外に何かを求めていた。
その何かが何だったのか、俺は最後まで聞くことはなかった。
翌週、俺たちは探索者の登録所へ行った。
今のギルド本部みたいな立派なものじゃない。雑居ビルの一室に、募集の貼り紙が所狭しと並んでいるだけの場所だ。人の出入りは多いが、空気はどこか剣呑だった。
貼り紙を端から眺めていく。
『前衛募集、要防具一式』
『火力募集、術具持ち優先』
『中級向け、初心者お断り』
どれも俺には縁のないものばかりだった。
前衛になるには防具がいる。安物では一撃で死ぬ。アタッカーには武器と、それを振るう訓練がいる。魔法火力はもっと遠い。術具は高く、術式を読み解く知識もいる。付け焼き刃でどうにかなるものではなかった。
そして何より、初心者は信用されない。素人を一人連れて入るのは、パーティにとってただのお荷物だ。下手をすれば足を引っ張って全員死ぬ。
受付の男に、初心者でも入れる枠はないかと聞いた。男は面倒くさそうに壁の隅を指さした。
『支援できる人、装備不問』
『回復役急募、初心者可。ただし自己責任』
支援職の募集だけが明らかに毛色が違っていた。装備不問。初心者可。
「人気ないんですか、支援」
「人気? あるわけねえだろ。敵を殴れない役だぞ。それでも回復薬は高いし品薄だ。支援できる奴がいれば助かる。だから募集はある。やりたがる奴がいないだけだ」
受付の男は鼻で笑った。
「ほら見な、レイ」ミドリが貼り紙を顎で示した。「前衛は無理。魔法火力も無理。装備もない。じゃあ、支援でしょ」
「……だろうな」
ゲームでもよくやった役回りだ。前衛の後ろで回復を回し、要所を支える。役割分担の感覚なら俺にもある。
ただ、と思った瞬間、ミドリが先に言った。
「でもこれ、ゲームじゃないからね」
その時だけミドリは少し真顔になった。
「あとで振り直しとか、ないよ。支援で覚悟決めたら、その体のまま生きていくの。気に入らなかったから魔法剣士に転職、なんてできないからね」
分かっている、と言いかけてやめた。分かったつもりになっただけで、本当は何も分かっていなかった。
ただその時の俺には、振り直せるかどうかなんてどうでもよかった。エルのいる場所へ行ける道が一本でもあるなら、それでよかった。後のことなんて何一つ考えていなかった。
ミドリは、スカウト見習いとして登録した。
地図取り、索敵、採取、荷物持ち。戦力というより探索補助だ。
「私も火力とか無理だしね。走って、見て、拾って、逃げる係でしょ」
本人は軽く言ったが、その軽さが少し怖かった。
ミドリの登録が終わると、今度は俺の番だった。
支援しか道はない。
そう決意して、俺は登録用紙の職能欄に支援と書いた。
受付の男は、支援職用の初級技能表を一束机に放った。コピーを重ねた文字は薄く、端には手書きの注記が残っている。
支援職の主流はヒールとバフだった。傷を塞ぐ。仲間の力を底上げする。当時から、支援といえばその二つだ。
登録所の奥では簡単な適性確認も行われていた。
そこで発動させられたヒールは情けないほど弱かった。浅い切り傷を塞ぐだけで魔力が空になる。バフも同じだ。かけても、効果があるんだかないんだか本人にも分からない程度だった。
才能がないのはすぐに分かった。
それでも、支援しか道はない。
技能表を上から下まで眺めていた時だ。主流のずっと下。ほとんど誰も選ばない隅の方に、別の系統がぽつんとあった。
聖域。聖壁。
説明を読んでも、よく分からなかった。傷を塞ぐでも、力を上げるでもない。場所を区切る。何かを逸らす。そういう地味な術式だった。横に小さく注記があった。
聖属性攻撃魔法、グランドクルス系の前段階。
その時は、ふうん、で終わった。
ただ、技能表の隅にあったその二つのスキルだけは、なぜか頭のどこかに残った。
登録所を出る前に、どうしても気になってエルのことをそれとなく聞いて回った。
まず受付の男に聞いた。
エルの名前を出すと、男の顔が少し変わった。ただの初心者相談を処理していた目が、仕事の目になる。
「……あの子を探してるのか」
その言い方だけで、嫌な予感がした。
「あの子なら、最近は初心者向けのとこにはいないよ」
受付の男はそう言った。
「誰か、レベルの高い探索者と組んでるらしい」
壁際で煙草を吸っていた探索者が、煙と一緒に吐いた。
「初心者同士じゃ行けない奥の区画まで入ってるって聞いた」
募集紙を貼り替えていた職員が言った。
胸の奥がざらついた。
心配だった。だが、その下に別の感情がはっきりあった。俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと、エルが奥へ進んでいく。置いていかれたと思った。あの時より、もっと遠くへ。
早くパーティに入らないと、追いつけない。
その焦りだけが、はっきりしていた。
こうして俺はその日、支援職になった。
『支援できる人、装備不問』
その一言が、その時の俺には救いに聞こえた。
誰かを救うためじゃない。立派な志でもない。ただ、エルのいる場所へ潜り込むための一番安い切符。それが支援職だった。
ゲームなら、間違えたら振り直せばよかった。
現実のダンジョンでは、その日選んだ一本道が二十年後まで俺を連れていくことになる。
登録を終えたその日の夕方、登録所の掲示板に新しい募集が貼り出された。
『支援職一名募集。初心者可。行き先、旧搬送路外縁区画。報酬少。帰路保証なし』
ミドリが掲示板を覗き込んで、少しだけ笑うのをやめた。
「……思ったより早いね」
その時の俺には、それがエルへ近づく最初の切符に見えた。




