第六話 女を探してヒーラーになった
罠を抜けても、安全になったわけじゃなかった。
退路側の魔物は散ったが、坑道の気配はまだこっちをうかがっている。俺は横道の手前まで隊を下げ、岩の窪みに聖域を敷き直した。前後を一枚ずつ、聖壁で区切る。完全じゃない。だが五分くらいは保つ。
「一度、立て直しませんか」九条が盾を背に回しながら言った。実務的な判断だ。全員、息が上がっている。
俺は周囲をもう一度見て、短く許可した。
「五分だけだ。聖域の外に出るな」
九条が盾を下ろし、天城が記録装置のログを巻き戻して確認を始める。黒瀬は壁に背を預けたまま、まだ何か考え込んでいた。ミオはその場にしゃがんで、ようやく長い息を吐いた。膝の震えがまだ残っている。
しばらくして、ミオが自分の端末を開いた。技能欄を指でなぞっている。
「……これ。聖壁とか聖域って、普通の支援職は取らないんですね」ミオがぽつりと言った。
「気づいたか」
「てっきり、支援職なら普通に取るものだと思ってました。回復の次くらいに」
さっき初めて聖壁を張った人間の言葉だ。少し興奮しているのが声に出ていた。だが同時に、まだ怖がってもいる。当然だ。あの聖壁は薄くてすぐ割れた。たまたま間に合っただけだ。それをこいつも分かっている。
ログを見ていた天城が顔を上げた。
「今はほとんど取りません。支援職の主流はヒールとバフです。聖域と聖壁を取るのは、グランドクルス系の前提として通過する人がいるくらいで、防御に使う人はまず見ません」
「グランドクルスって、攻撃魔法の?」ミオが聞いた。
「はい。一時期、聖属性の攻撃職がそれでかなり活躍しました。聖域と聖壁を反転させて攻撃に転用する系統です。今はグランドクルスまで進まず、レイ系の単発術式へ寄せる人の方が多いですね」
俺は岩に背を預けたまま聞いていた。
「だから、誰も守る方では鍛えない」
ミオがこっちを見た。
「でも、さっきはこれがなかったら黒瀬さんは戻れませんでした」
「弱いヒールで傷を塞げないなら、傷を受ける前に一撃ずらすしかない。昔はそういう場所ばかりだった。回復が間に合う前提が、そもそもなかったんだ」
ミオが、まだ何か聞きたそうにこちらを見た。俺は先に言っておくことにした。
「言っておくが、俺はヒールもバフも上手くない。普通以下だ」
「えっ」
「傷を塞ぐのも、力を底上げするのも下手だった。だから傷を負う前に一撃をずらす方へ逃げた」
万能のヒーラーを期待していたなら、悪いが人違いだ。俺にできるのは、逃げ場を残すことだけだった。退路と足場と、戻る線を消さないこと。
「私、聖壁系、ちゃんと取ります」
ミオは端末を握ったまま言った。
「やめとけ。今の主流じゃない」
「でも、さっき黒瀬さんは、それで戻れました」
壁際で、黒瀬がわずかに顔を上げた。
「……あれは、攻撃魔法の前段階なんかじゃなかった」
それだけ言ってまた黙る。
さっきまでなら、絶対に出なかった言葉だった。
ミオがちらりと俺を見た。何か別のことを聞きたそうな目だった。
たぶん、さっき俺が漏らした言葉のことだ。俺を置いていった女を探すために潜った、という。黒瀬も聞こえていたはずだ。壁際でわずかにこっちを気にしている。
だが誰も聞いてはこなかった。聞ける空気じゃない、と思ったんだろう。
俺も何も言わなかった。言うつもりもなかった。
九条が各自に携行食を配った。発熱パックのついた、温かいやつだ。引き紐を抜くと、数十秒で中身が湯気を立てる。スープと、片手で食える米のバー。栄養も味もきちんと計算されている。
聖壁の外側で、何かが一度だけ爪を立てた。まだ破れない。俺はそう判断して、湯気の立つスープへ視線を戻した。
「今の探索者は、ダンジョンの中で温かい飯が食えるのか」
気づいたら、口に出していた。
「昔は違ったんですか」ミオが聞いた。
「昔は、飯を食う場所まで生きて戻れるかも分からなかった」
温かいスープを一口飲む。それだけのことで、ふいに二十年前の味が戻ってきた。
うまくも、まずくもない。少し潰れた卵焼きと、冷めた米の味だ。
「……一度だけ、弁当を作ってもらったことがある」
ミオが顔を上げた。聞きたそうな目で。
俺はもう、現代の坑道を見ていなかった。
*
二十年前。ダンジョンは、まだ知る人ぞ知る存在だった。
今みたいに、ギルドが管理して、攻略法が出回って、クランが旗を立てる場所じゃない。一攫千金を狙う奴。ゲーム好き。サバゲー好き。ただの物好き。そういう連中が面白半分で潜って、そして普通に死んでいた。
攻略法なんてなかった。装備は高く、回復アイテムは数えるほど。ボス級の魔物が管理もされずに奥をうろついていた。敵の強さも湧き方も構造も、誰も分かっていない。ほとんど初見殺しの塊だ。
今の探索者は、ダンジョンを「攻略対象」として見る。データがあって、順序があって、正解がある場所。だが、あの頃のダンジョンはもっと荒れていた。死がすぐ隣にあった。
俺は、ダンジョンなんてまっぴらだった。
危ないからやめろ。何度もそう思っていた。ただ、まったくの門外漢ってわけでもなかった。当時、俺はオンラインゲームにそれなりに入れ込んでいた。役割分担。パーティ。前衛と後衛。支援職。そういう感覚だけは、なんとなく頭にあった。
彼女がダンジョンにのめり込んでいったのは、その頃だ。
「ねえ、今日もぐってきた。怖いんだよ、本気で死ぬかと思った。なのに終わったら、もう一回行きたくなるの」ある日、彼女は目を輝かせてそう言った。
「やめとけよ。死ぬぞ、本当に」
「分かってる。でも、ゲームみたいなのに、ぜんぶ本物なんだよ。あそこにいると、私、変われる気がする。ここにいる私と、違う私になれる」彼女は笑った。
その感覚が、俺には分からなかった。
わざわざ死ぬ場所へ行って、何が楽しいのか。理解できなかった。だが馬鹿にもできなかった。彼女の顔が本当に楽しそうだったからだ。俺の隣にいる時より、ずっと。
それが少しだけ、悔しかったのかもしれない。
彼女からの連絡が、だんだん減った。
最初は忙しいんだろうと思った。だが一週間、二週間と間が空いていく。電話もメッセージも返ってこない。
彼女の友達に、それとなく聞いた。返ってきた答えは軽かった。
「ああ、あの子。最近、ずっとダンジョンにいるらしいよ。なんか、はまっちゃったみたい」
たぶん、ダンジョンにいる。
それだけの情報で、俺の中の何かが決まった。
心配だった。助けたかった。それは本当だ。
だが、それだけじゃなかった。
俺の知らない場所へ、彼女が一人で行ってしまったことが許せなかった。隣にいたはずなのに、置いていかれた。その悔しさが、心配と同じくらい腹の底にあった。
追いかけたかった。確かめたかった。あいつがどんな顔で、どこにいるのか。
立派な理由じゃない。今でもそう思う。
ただ、俺は一人ではダンジョンに潜れなかった。素人がいきなり一人で入って、生きて戻れる場所じゃない。
声をかけたのは、彼女とは別の、ミドリというオンラインゲーム仲間だった。物好きで、肝が据わっていて、こういう無茶に付き合ってくれそうな相手はそいつくらいしかいなかった。
問題は、俺が何の役にも立たない素人だということだった。
当時、初心者がいきなりアタッカーや魔法使いとしてパーティに拾われるのは難しかった。攻撃役には鍛錬がいる。装備がいる。魔法使いには術具と、術式を読み解く頭がいる。武器も術具も、目が飛び出るほど高い。何も持たない素人が、前衛や火力として誰かに必要とされることはまずなかった。
だが、一つだけ抜け道があった。
支援職だ。
当時は回復アイテムが少なかった。ダンジョンの人口も少ない。そして、自分では攻撃できない支援職をわざわざ選ぶ人間は、ほとんどいなかった。だから「支援をやる」と言えば、装備の弱い素人でもパーティに入れてもらえる余地があった。
俺にとって、支援職は理想なんかじゃなかった。
誰かを救いたかったわけでも、人の役に立ちたかったわけでもない。彼女のいるパーティへ、彼女のいる場所へ潜り込むための、一番現実的な手段だった。
それだけだ。
俺はその日、ヒーラーになると決めた。
誰かを救うためじゃない。俺を置いていった女を、一人、探すために。




