第五話 赤表示は餌
翌朝の青羽坑道は、ひどく静かだった。
俺たちは五人で青羽坑道に入った。少人数で潜る。それが初期型ダンジョンのセオリーだ。
俺は先頭を歩かなかった。隊列の中ほどに位置を取り、前衛二人の背中と退路の幅を見ていた。前を固めるのは盾役の九条。その横で黒瀬が前衛として警戒している。腕は確かだ。ただ、その背中はまだ俺に納得していない。ミオは俺の少し後ろで、俺の立ち位置と足元の床を交互に見ている。天城は端末と記録装置を確認しながら、最後尾近くを進んでいた。
耳元の通信が軽く鳴った。本部の牧野だ。
『全員、帰ってこいよ。特にレイ。お前がまた変な顔で帰ってくると、こっちの胃が痛い』
「善処します」
軽口の奥に緊張があるのはわかっていた。牧野も、この坑道が普通じゃないことを知っている。
しばらく何も起きなかった。
坑道は静かだった。端末は正常に動いている。危険度の表示も穏やかで、魔物の反応もぽつぽつとしか出ない。湧いてきた小型の個体は、九条の盾と黒瀬の一撃で難なく片付いた。
黒瀬の警戒がわずかに緩むのが背中越しに伝わってきた。口には出さない。優秀な男だから油断しきってはいない。だが内心では思っているはずだ。今回は端末が機能している。前回はたまたま悪い条件が重なっただけだ、と。
俺は逆だった。この静けさが嫌いだった。
冷気が浅い。前回、肺の底まで沈んできたあの古い冷たさが、今日は表面をなぞるだけだ。壁の鉱石の光も前回より弱い。足音の返り方がどこか遠い。そして端末の表示が、正常すぎる。
何も起きていない、という顔をしすぎている。
初期型の坑道は、こんなに行儀よくない。何かがこっちの様子をうかがっている気がした。だが、まだ何も言わなかった。確証はない。隊を不安にさせるだけだ。
異変が出たのは、三層目に入ってすぐだった。
天城の端末が短い警告音を上げた。続けて、黒瀬のも九条のも鳴る。
「赤、出ました。最優先救護対象、前方四十メートル」
天城が言った。
横道の奥、崩れた岩の陰に装備の残骸が転がっていた。前回の事故でここまで逃げて、力尽きた誰かのもの。その装備の真ん中で、かすかな光点が点滅していた。生命反応のような、何か。
端末の表示が畳みかけてくる。最優先救護対象。救援推奨。危険度、赤。即時支援推奨。
「生きてるかもしれない。前回はぐれた誰かだ。行きます」
黒瀬の声が硬くなった。
「行くな」
黒瀬が振り返る。その目には、怒りより先に迷いがあった。
「見捨てるんですか。赤が出てるんです」
「それは餌だ」
それ以上は言わなかった。
黒瀬は突っ走らなかった。命令は頭で分かっている。だが倒れた装備と点滅する光点を見て、体が半歩だけ前に出た。助けたいという気持ちが足を動かしたんだろう。たぶん、速水のことが頭にあった。守れなかった後輩のことが。
その半歩で坑道が目を覚ました。
端末が示していた誘導ラインが途切れる。壁面の青い羽根状の鉱石が一斉に光る。倒れた装備の光点が、すっと位置をずらした。生きているものなどそこにはいない。最初から餌だ。
端末が一瞬、ざっと潰れたノイズを吐いた。黒瀬と隊列の間に薄い歪みが滲み出す。同時に、俺たちの背後、来た道の壁から魔物の気配が湧いた。
黒瀬を前に誘い出し、退路を後ろから塞ぐ。
そういう罠だ。
俺は慌てなかった。湧き方も光り方も、半歩前から嫌な予感として読んでいた。
勘じゃない。
二十年前、嫌というほど見た手口だ。
黒瀬に聖壁は張らない。強化なんて必要ない。俺が守るのは黒瀬じゃなく、黒瀬が戻ってくる道だ。
「前へ出るな! 黒瀬の戻る線を空けろ!」
退路の上に聖域を敷く。黒瀬の背後、隊列から遠い側に聖壁を一枚立てて、歪みに飲ませない。九条の盾が踏むべき位置を床に光で示す。それからミオに言った。
「黒瀬を見るな。帰ってくる道を見ろ」
ミオは最初、黒瀬本人に手を伸ばしかけていた。回復を飛ばそうとした。倒れる前の反射だ。だが、俺の声で踏みとどまった。
彼女の聖属性が向きを変える。黒瀬の足元ではなく、黒瀬が退いてくるその先へ。小さな聖壁を置き、九条の盾の後ろに薄い聖域を重ねる。黒瀬と隊列の間に滲んだ歪みを、ほんの一瞬だけ塞いだ。回復じゃない。戻る線を先に作る支援だ。
ミオの聖壁は薄かった。すぐにひびが入った。完璧には程遠い。それでも、黒瀬が退くための一瞬を作った。
黒瀬はその一瞬を逃さなかった。歪みが閉じている隙に身を翻し、九条の盾の内側へ飛び込む。
戻ってきた黒瀬が、ミオを見た。
「今の……お前が?」
「レイさんの指示です」
ミオは震えていた。膝が笑っている。それでも倒れず、立ったまま聖壁を保ち続けていた。
黒瀬は何か言いかけて、結局何も言わなかった。礼を言うには悔しく、否定するには助けられすぎていた。
来た道の壁から湧いた魔物が、退路を塞ごうと突っ込んでくる。
九条は床の光を迷わず踏んだ。俺が示した聖域の境目だ。そこに盾を据える。
「ここですね」
「ああ。そこから一歩も出るな」
九条に説明は要らなかった。
盾の底が聖域の縁を噛む。突進してきた魔物の肩が盾にぶつかり、衝撃だけが横へ流れた。九条の足は一歩も下がらない。
聖域に乗った盾は、初期型の坑道でもちゃんと意味を持つ。
最後尾で天城が端末の画面を食い入るように見ていた。画面の中で、赤表示はまだ点滅し続けている。最優先救護対象。即時支援推奨。端末は一貫して、あの装備の場所を指していた。
「端末は……間違ってない。あの場所は本当に危険だ。救護対象に見える反応も出てる。なのに、この表示を追ったら全員死ぬ」
天城が低く言った。
「正しい情報なのに、使えば死ぬ。……悔しいですね」
端末が正しくて、それでも負ける。その光景を、現代システム側の人間が初めて自分の目で見ていた。
歪みが薄れ、背後に湧いた魔物の気配も散り始めた。危機はいったん抜けた。俺は隊列を立て直させた。
黒瀬はしばらく肩で息をしていた。それから、誰にともなく呟いた。
「……今の、端末は間違ってなかった」
「間違ってない。だから厄介なんだ」
黒瀬が俺を見た。
「赤の場所は本当に危険だった。生きてるかもしれない反応も出てた。だったら助けに行くのが正しいはずだ」
俺はうなずいた。
「正しい。だから助けに行った奴から隊列の外に出される」
黒瀬の顔が歪む。
「赤表示は助ける場所を教えてるんじゃない。人を誘い出す場所を教えてるんだ。初期型の坑道は、お前らの善意を餌に使う」
黒瀬は何も言い返さなかった。崇拝するような目でも、納得しきった目でもない。ただ、反論する言葉を失った目だった。それで十分だった。
隊列が落ち着いてから、ミオがまだ少し震える声で聞いてきた。
「レイさん。……どうして、わかったんですか。赤が餌だって」
黒瀬も、同じことを聞きたそうな顔でこっちを見ていた。
俺はすぐには答えなかった。
「前にも見たからだ。同じ手口を」
それ以上は言わなかった。
坑道の奥から、冷たい風が流れてきた。前回より浅い、けれど確かに覚えのある冷気だ。その匂いが、二十年前を連れてくる。
……立派な理由で、ヒーラーになったわけじゃない。
俺を置いていった女を一人、探すためだった。
誰も何も聞かなかった。
あの女を追いかけた、最初のダンジョンの匂いがした。




