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時代遅れと笑われた古参ヒーラー、二十年前の撤退支援で全滅確定の戦場を支配する  作者: 青柳 玲夜(れーやん)


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第十話 お姫様扱いするな

 登録所の並びにある酒場は、その日も湿気っていた。


 黄ばんだ灯りの下で、壁の募集紙が反り返っている。掲示板に貼りきれない紙が、こっちの壁まで流れてくるのだ。俺は隅の席で薄い茶をすすりながら、その紙を端から眺めていた。


 隣の机では、先客が矢の羽根を整えていた。安物の矢が木の机に置かれるたび、乾いた音がした。


 その向こうに、誰かの食い残した弁当が置き去りになっていた。冷めた米。潰れた卵焼き。半分だけ食って、飽きたらしい。


 潰れた卵焼き。


 それを見た瞬間、記憶が勝手に開いた。


 一度だけ、エルが弁当を作ってきたことがある。


 まだあいつがダンジョンに深入りする前だ。休みの日に、包みを提げて俺の部屋へやってきた。


「ねえ、そのゲーム、私もやっていい?」


 エルが俺のオンラインゲームに付き合ったのは、後にも先にもその一度だけだった。新しくキャラを作らせると、あいつは一覧を眺めて、迷わず弓使いを選んだ。


「なんで弓?」


「遠くから、好きな場所を狙えるから」


 二人でペア狩りに出た。俺は支援寄りの立ち回りで、弓が撃ちやすいように敵との間へ入った。守っているつもりだった。


「前に出るな。俺の後ろから撃て。囲まれたら、こっちで受ける」


「はいはい」


 最初のうちは、エルも笑って従っていた。だが狩りが終わる頃には、返事が減っていた。画面の中の弓使いは、俺の背中の陰で窮屈そうに矢を放っていた。


 弁当を開いたのは、その後だ。


 形の崩れた握り飯と、潰れた卵焼き。うまくも、まずくもなかった。俺はうまいうまいと食った。半分くらいは、本当にそう思っていた。


「ねえ、レイ」


 エルは、卵焼きを箸でつついたまま俺を見なかった。


「私ね、お姫様扱いされるの、好きじゃない」


「……何の話だ」


「さっきの。ゲームの中でまで後ろに置かれると、息が詰まる」


 箸の先で、潰れた卵焼きがさらに崩れた。


「撃つ場所くらい、自分で決めたい」


「危ないだろ、前は」


「ゲームだよ? 死んでも、戻れるのに」


 エルは笑わなかった。


「レイはさ。たぶん、現実でもそうなんだろうね」


 箸が、弁当の縁に置かれる。


 その言葉の意味を、当時の俺は分かっていなかった。守って何が悪い。本気でそう思っていた。箸の置かれた小さな音だけが、妙に長く耳に残った。


 酒場のざわめきが戻ってくる。


 隣の机で、また矢が置かれた。乾いた音。


 弓か、と思った。


 ゲームでは迷わず弓を選んだくせに、現実のダンジョンでは、あいつは剣を持ちたがった。


 たぶん、俺の後ろから撃つのが嫌だったんだろう。守られる側じゃなく、前に立つ側になりたかったのだと思う。


 それなのに今は、また弓だという。


 あの犬の一件の帰り道、アオイはもう一つ、余計なことを教えてくれていた。


「エルさんって、弓に替えてから強くなったらしいですよ。噂ですけど。前は別の得物で、パッとしなかったのにって」


 弓。遠くから、好きな場所を狙える得物。あいつは現実のダンジョンで、ゲームの続きを選んだわけだ。俺の後ろじゃない、自分の好きな場所から撃つために。


 なら、前には誰が立っている。


 今、エルの前に立っているのは、俺の知らない高レベルの探索者だ。


 あいつの前に、誰かがいる。


 なら、俺がそこに立てばいい。


 思いついてしまえば、単純な話に見えた。ヒーラーのままでいい。前に立てるヒーラーになれば、あいつの前に、俺の場所ができる。


 壁の募集紙の中に、その文字はあった。


『前衛補助可・支援職募集』


 視線が吸い付いて、離れなかった。


「レイ」


 ミドリが、俺の顔と紙とを見比べた。


「それ……」


 言いかけて、やめた。


「……なんでもない」


 翌日から、俺は妙な努力を始めた。


 ヒールの練習。相変わらず、塞がるのは遅い。聖壁の練習。相変わらず、薄い。それでも前衛の半歩後ろで張れるように、出す位置と速さだけを繰り返し体に入れた。


 古道具屋で、安い革手袋を買った。紐を締めると、それらしい音がした。それだけで、少し強くなった気がした。今思えば、笑える話だ。


 店の奥に、中古の小盾が立てかけてあった。古傷だらけの、誰かのお下がり。値札を見て、その日は買わなかった。買わなかったが、帰り道、何度も思い出した。


 次の旧搬送路行きは、数日後だった。


 前衛が二人、後衛が一人。それに俺とミドリ、採取補助のアオイ。アオイは犬の一件以来、妙に俺の近くを歩きたがる。ミドリは今日も後方寄りで、青白い魔石灯の下、分岐のたびに白いチョークで線を引いていた。


「今日は変な犬、いませんよね?」


 アオイが小声で言った。


「いたら、触るなよ」


「触りません! もう!」


 奥は、相変わらず狭かった。錆びたレールが分岐で絡み合い、人がすれ違うのがやっとの幅しかない場所もある。一人が立ち位置を間違えるだけで、後ろ全部が詰まる。そういう場所だった。


 その狭さを、俺はまだ危険として見ていなかった。


 人が一人ずつ肩を斜めにして抜けるしかない分岐で、前衛二人が小型の群れと当たった。数はさほどでもない。盾を横にすれば、それだけで後ろが止まる幅だった。


 後続は分岐で足を止め、通過の順番を待つ。アオイはその間、壁際の魔石片をナイフで剥がしていた。採取補助の仕事だ。


 横穴が口を開けたのは、その時だった。


 骨片を撒き散らして、小型の影がアオイへ突っ込んできた。犬じゃない。もっと硬い、猪のような塊だった。


 考える前に、体が前へ出ていた。


 アオイの前。突進の正面。薄い聖壁を、突っ込んでくる鼻先へ置く。


 壁が震えた。頼りない光がたわみ、軋んで――一撃だけ、逸らした。突進の軌道が半歩ずれ、影は壁際の岩へ頭から突っ込む。振り向いた前衛の一人が、そのまま槍で縫い止めた。


「……っは。今の、助かりました」


 アオイが、へたり込みかけて言った。


「薄かったけどな」


「でも、止まりました」


 止まった。確かに、止めた。俺は前に出て、一人を守った。革手袋の中で、掌が汗をかいていた。悪くない汗だった。前に立てる。やれる。そう思った。


 全員が、俺の壁と、縫い止められた影を見ていた。


 ミドリだけが、後ろを見ていた。


 分岐は、俺の体で塞がっていた。


 通路の真ん中。突進の正面に立つには、そこしかなかった。だがそこは同時に、後続が通り抜けるための、唯一の幅でもあった。


 後ろで、荷物が壁に擦れる音がした。誰かの足が、行き場をなくして止まる。ミドリが小さく息を呑むのが聞こえた。俺の背中の向こうで、白いチョーク線が見えなくなっていた。


「レイ、そこに立つと後ろが詰まる」


 ミドリの声は、静かだった。


「前を止めないと、アオイがやられてた」


 俺は前を見たまま言い返した。


「……前だけじゃないでしょ」


 それ以上、ミドリは言わなかった。言う暇もなかった。俺たちが分岐で詰まっている間に、来た道の奥で、別の気配が動き始めていたからだ。


「詰まってんぞ! 道を空けろ、早く!」


 前衛の怒鳴り声が飛ぶ。


 俺が半身になって道を空け、後続が一人ずつ、狭い分岐を抜けていく。一拍。たった一拍だが、撤退はそのぶん遅れた。最後尾が抜けた直後、さっきまで俺たちがいた場所を、横穴から湧いた二匹目の突進が駆け抜けていった。


 誰も死ななかった。かすり傷すら出なかった。


 だから俺は、少しだけ成功した気になっていた。


 地上へ出るなり、前衛のリーダー格が吐き捨てた。


「守ったのはいい。だが、道を塞ぐな」


 誰のことかは、聞かなくても分かった。


 その直後だった。


「レイさん、さっき、ちょっと前衛っぽかったです。すごい、かっこよかったです」


 アオイが、悪気のない顔で言った。


 だから、余計に効いた。


「……そうか」


 その一言が、あの日の俺には、たぶん一番の毒だった。


 褒められた場所が、間違っていた。


 登録所へ戻る途中、ミドリは折れたチョークを布にしまっていた。指先が、白く汚れていた。


 数日後、俺はまた古道具屋にいた。


 古道具屋の壁にも、登録所から回ってきた募集紙が何枚か貼られている。装備を買いに来る探索者の目に留まるからだ。


 茶色く暗い灯りの下で、例の小盾を手に取ってみる。想像より重い。表面には古い傷が斜めに三本、走っていた。誰かがこれで何かを受けた痕だ。受けきれたのかどうかは、分からない。


 革手袋の紐を、締め直す。


 隣に、ミドリが立っていた。指には、まだあの日のチョークの粉が残っている気がした。


「レイ。前に出るのは、悪くないけど……」


 言いかけて、また、やめた。エルの名前が出そうになると、ミドリはいつもそこで止まる。


 俺は返事をしなかった。


 目はもう、小盾ではなく棚の奥へ流れていた。


 棚の奥。灯りの届かない場所に、古い弓が一張、立てかけてあった。埃をかぶって、誰にも買われないまま。


 遠くから、好きな場所を狙える得物。


 俺は小盾を棚に戻し、店の壁に貼られた紙へ手を伸ばした。


『前衛補助可・支援職募集』

『行き先、旧搬送路・深部連絡区画』


 ミドリの指が、紙の端に伸びた。


 けれど俺の方が、少しだけ早かった。


 紙を剥がす乾いた音が、店の暗がりに、妙に大きく響いた。


 ミドリの指先から、白いチョークの粉が少し落ちた。

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