第十一話 後ろが見えない
登録所の片隅の机に、あの紙は置いてあった。
『前衛補助可・支援職募集』
『行き先、旧搬送路・深部連絡区画』
紙の端には、壁から剥がした時の癖が残っていた。湿気を吸って少し丸まっている。
俺は安い革手袋の紐を締め直していた。革はまだ硬い。指先が少し余る。安物だから俺の手に合わせてはくれない。俺の方が慣れるしかなかった。
結局、あの小盾も買っていた。古傷が斜めに三本走った、誰かのお下がりだ。腕に通すと、思ったより重心が外にある。体にはまだ馴染んでいない。
エルの前に立つなら、これくらい扱えなきゃいけない。そう思っていた。
向かいでミドリが白いチョークを小刀で削っていた。硬い音がして、削り粉が膝に落ちる。先を尖らせるのは、狭い場所でも細い線を引くためらしい。
アオイは俺の近くで採取用の装備を確かめていた。犬の一件と、この前の突進の一件で俺に助けられたと思っているらしい。だからか今日も、俺のそばにいることを少し嬉しそうにしていた。
「レイさん、今日も前に出るんですか」
「出ないと、届かないから」
「……なんか、前衛みたいですね」
悪気のない声だった。俺はそれを褒め言葉として受け取った。受け取って、しまった。
三人とも別のものを見ていた。俺は募集紙の「前衛補助」の文字を。ミドリは削ったチョークの先を。アオイは、俺を。
あとから思えば事故の配置は、もうこの時点でできていた。
深部連絡区画は、前に潜った区画よりさらに狭かった。
床には古いレールが残り、踏むたび靴音が鈍く響く。壁際には壊れた台車が寄せられ、その陰が黒い。横穴が多く、魔石灯の青白い光はどの穴の奥にも届かなかった。
隊列は前衛が二人。その半歩後ろに俺。前衛補助という名目で、自分からそこへ寄っていった。俺のすぐ後ろにアオイ。後方寄りにミドリ。
二度助けられた人間は、助けた人間の背中を安全地帯だと思う。アオイは横穴より、俺の小盾の方を見ていた。俺の背中に目なんてついていないのに。
分岐のたび、ミドリが壁に白い線を引く。チョークが石を擦る音がした。俺は一瞬だけそれを見て、すぐ前へ視線を戻した。線はミドリが見てくれている。俺は前を見る。そういう分担のつもりだった。
つもり、だった。
正面に出たのは、硬い殻の虫型だった。
骨みたいな脚を鳴らして、通路の幅いっぱいに詰めてくる。強敵じゃない。ただ、正面からの押しは重い。
前衛二人が構える。俺は半歩、前へ出た。
薄い聖壁を、通路の幅に置く。
この数日、出す位置と速さだけは繰り返してきた。壁は震えたが、この前よりは安定していた。虫型の突進が正面からぶつかる。鈍い音。薄い光がたわみ、それでも突進は止まった。
前衛の槍が、動きの止まった殻の継ぎ目へ入る。
「お。保ったな」
前衛の一人が言った。
止めた。また、止めた。革手袋の中で掌が熱くなる。前に出れば守れる。やはりそうだ、と思った。
その時、背中の側で砂の落ちる音がした。
「後ろ!」
ミドリの声だった。
振り返る。遅い。
レールの下を、黒い紐みたいなものが滑った。細長い、鼬みたいな影。それが横穴から低く走り抜け、アオイの腕をかすめて台車の陰へ消える。
布の裂ける音がした。
アオイの袖が、二の腕のところから裂けていた。浅い傷。血が滲んで、数滴、床へ落ちる。
白いチョーク線の上に、赤がひとつ、乗った。
「アオイ!」
俺は手をかざした。ヒール。光は集まる。集まるのが遅い。滲むように灯って、傷口へ届くまでに一拍かかる。
その一拍の間に、前衛の一人が布を出してアオイの腕を押さえていた。
「浅い。牙じゃなく爪だ。運がいい」
「だ、大丈夫です。全然、平気です」
アオイが笑おうとした。布を押さえる指が震えていた。
俺の遅いヒールが、ようやく傷へ届く。血は止まった。裂けた袖は戻らない。
ミドリは俺を見ていなかった。床の白い線に落ちた赤をじっと見ていた。
影はもう出てこなかった。臆病な魔物だったらしい。通りすがりに一番柔らかい獲物を一撫でして逃げた。それだけだ。
それだけで済んだ。今回は。
撤収の途中、ミドリが言った。
「前に出たら、後ろ見えないじゃん」
責める声じゃなかった。ただの事実を置くような静かな言い方だった。
「前を止めないと、抜けられてた」
「うん。前は、止まってた」
それ以上、ミドリは言わなかった。前は止まっていた。後ろが裂かれた。言葉にすればそれだけの話だった。
前衛のリーダー格が、すれ違いざまに短く言った。
「止めたのはいい。だが、後ろを空けるな」
言い返す言葉はなかった。
俺は敵に負けたんじゃない。虫型は止めた。影にも誰も殺されてはいない。
負けたのは、立ち位置だった。
登録所へ戻ると、アオイの腕には包帯が巻かれていた。端に薄く血が滲んでいる。
「大丈夫です。浅いですから」
アオイは包帯を隠すように袖を引っ張った。
「あの、レイさんのせいじゃ……」
言葉が途中で切れた。痛みか、気まずさか。たぶん両方だった。
「……悪かった」
俺はそれだけ言った。アオイは首を振ったが、その先の言葉は二人とも見つからなかった。
壁際で、ミドリが短くなったチョークを削っていた。今日一日でずいぶん減った白い棒を、小刀でまた尖らせている。削り粉が指について白い。
俺はそのチョークを見なかった。アオイの包帯も直視できなかった。
代わりに、自分の革手袋を見た。
甲のところに擦れ跡が残っていた。正面の虫型を止めた時のものだ。前は、守れた。その証拠だけが手の甲にあった。後ろを裂かれた証拠は、俺の体のどこにもない。あるのはアオイの袖と、白い線の上の赤だけだ。
だから俺は、間違いを正しく数えられなかった。
机の隅に、古い技能表が置いてあった。登録所が配っている色褪せた一枚だ。黄ばんだ灯りの下で文字が少し見づらい。
回復基礎。支援強化。聖壁応用。前衛補助。攻撃術式基礎。
視線が一つの項目に止まらなかった。
前に出るだけじゃ足りない。それは今日、思い知った。前を止めても、後ろで誰かが裂かれるなら意味がない。
なら――全部だ。
前に出る。後ろも見る。傷も塞ぐ。敵も止める。
回復も、支援も、聖壁も、前衛も、いっそ攻撃も。全部できれば、誰も俺の近くで傷つかない。
そんな馬鹿な答えが、その時の俺には正解に見えた。
視界が少しだけ明るくなった気がした。
それが次の遠回りの入口だと、あの日の俺は知らない。
俺は技能表を折り畳もうとして、手を止めた。
指先が最後の項目に触れていた。
攻撃術式基礎。
壁際では、ミドリが短くなったチョークを削っている。
削りたてのチョークの先が、ミドリの指先で白く尖っていた。
俺はそれを見ないまま、技能表を懐へ入れた。




