第十二話 全部できればいい
技能表を机の上に広げた。
黄ばんだ紙に滲んだ文字が並んでいる。回復基礎。支援強化。聖壁応用。前衛補助。攻撃術式基礎。
俺の指は一つの項目で止まらなかった。端から端まで全部をなぞった。
机の上には道具が並んでいる。安い革手袋。古傷三本の小盾。支給の支援杖。薄い術式紙。それと、登録所で安く借りた魔力測定石。握ると残りの魔力に合わせて淡く光る石だ。今はまだ明るい。
ミドリが横から覗き込んだ。
「全部やるの?」
「全部できれば、誰も傷つかない」
技能表から目を離さずに俺は答えた。前を止めて、後ろも見て、傷も塞いで、足も支えて、邪魔なら焼く。穴がなければ誰も裂かれない。
ミドリはそれ以上何も言わなかった。少し後ろで、アオイが包帯の腕をそっと袖の中に隠すのが見えた。
あの傷を二度と見ないために、俺は全部を取る。そのつもりだった。つもりの話ばかりしている気がするが、当時の俺は本気だった。
練習用の術式紙を三枚使い切って、攻撃術式基礎をどうにか形にした。手のひらから細い白い光が飛ぶ。的にした木箱を焦がすのが精一杯だった。それでも焦げ跡を見た夜は、少し眠りが良かった。
次の仕事は、資材搬出の護衛だった。
旧搬送路の資材搬出口周り。昔の業者が置き捨てた資材を回収して運び出す、地味な依頼だ。危険度は深部連絡区画より低い。ただ、集まった人数が少なかった。前衛が一人。荷物持ちが二人。採取補助のアオイ。スカウトのミドリ。それに支援兼前衛補助の俺。
役割の数に人が足りていない。誰かが二役やるしかない編成だった。
俺には都合がよかった。
搬出口の周りは、資材箱と壊れた台車が積み重なって見通しが悪かった。床には古いレール。青白い魔石灯。ミドリが要所要所に白い線を引いていく。チョークが石を擦る音が通路に細く響いた。
先頭に前衛。中央に荷物持ちとアオイ。後方寄りにミドリ。俺はその間を行き来できる、半端な位置に立っていた。
俺は前と後ろを交互に見た。前衛の背中。荷物持ちの手元。アオイのしゃがむ位置。横穴の影。忙しかった。視線が回るぶん、ミドリの線を見る時間は確かに減っていた。減っていることに、その時の俺は気づいていない。
エルは今も、俺の知らない高レベルの探索者と組んで奥にいる。追いつくには回復だけじゃ足りない。あいつがどこから撃っても、どこでも支えられる。それくらい便利じゃなきゃ隣には届かない。そう思っていた。
小さな綻びは、資材袋を担いで戻る途中で続けて起きた。
まず、先頭の前衛の足が滑った。レールの継ぎ目に残った油だ。体勢が崩れ、正面から来た小型の甲虫に押し込まれかける。
「足!」
俺は薄いバフを飛ばした。前衛の足首に淡い光が灯る。強化なんて呼べるほどの効果はない。それでも崩れた一歩を踏み直すくらいの支えにはなった。前衛は踏みとどまり、甲虫を斬り伏せる。
直後、後ろで荷物持ちが声を上げた。資材袋の紐が、壊れた台車の角に引っかかっていた。荷物持ちの肩が後ろへ引かれ、袋が床に落ちる。その音に釣られて、資材箱の陰から別の小型の甲虫が飛びかかった。
考える前に左腕が出ていた。小盾を割り込ませる。金具が鳴って、腕の芯まで痺れた。弾かれた甲虫は体勢を崩し、資材箱の陰へ逃げ込んでいく。
荷物持ちの手の甲が、擦り剥けて血が滲んでいた。浅い。俺は右手をかざした。ヒールの光が滲むように灯る。前より少しだけ早い。それでも傷が塞がりきるまで、荷物持ちはじっと俺の顔を見ていた。待たせる長さだった。
「右、来る」
ミドリの声。横穴だ。
俺は聖壁を通路に対して斜めに置いた。薄い。正面から受けたら割れる。だが、まっすぐ突っ込んでくる甲虫の鼻先を逸らすだけなら足りた。進路のずれた甲虫を、前衛が待ち構えて仕留める。
最後の一匹は退路側にいた。
搬出口へ向かう全員の背中側だ。距離がある。前衛を呼び戻せば、その間に隊列が乱れる。
俺は右手を向けた。攻撃術式基礎。
細い白い光が指の間から飛んだ。一瞬だけ小さな十字の形に広がって、甲虫の背を焼く。派手さはない。倒しきれたかどうかも怪しい。ただ、そいつは焦げた背中のまま横穴の奥へ逃げていった。
退路は空いた。
気づけば、手も目も足りなくなっていた。
前衛の足元に消えかけのバフ。左腕に下がりかけた小盾。右手に癒しの光の名残。足元に揺れる聖壁の残光。指先に攻撃術式の焦げた匂い。
どれも薄い。どれも足りない。それでも今日は、足りてしまった。
肩で息をしていた。腰の魔力測定石を握ると、光は半分どころか、底の方で弱く灯っているだけだった。
壁のチョーク線が視界の隅で白く続いていた。今日、俺はあの線を何度見ただろう。数えるまでもないくらい少なかった。
ミドリがこっちを見ていた。俺ではなく、壁に続く白い線を見ていた。何も言わなかった。
全員、無事に地上へ出た。資材も揃った。誰の袖も裂けなかった。
登録所で報酬袋が掌に落ちた。硬貨の鈍い音。前より少し重い。二役ぶん、色をつけてくれたらしい。
「便利だったよ、支援の兄ちゃん」
前衛が笑った。
「一人で穴を埋められる支援は助かる。また来てくれ」
「攻撃までできるんなら、なおさらな」
荷物持ちも言った。
深い評価じゃない。その場かぎりの、軽い褒め言葉だ。今なら分かる。
だが、あの日の俺はそれを深く受け取った。袋の重さごと飲み込んだ。
「レイさん、攻撃もできるんですね。すごいです」
アオイが目を輝かせた。それから、少し声を落とす。
「……でも、顔色悪いですよ。無理してませんか」
「平気だ」
ミドリは黙っていた。登録所を出る間際に、一言だけ。
「……まあ、今日は助かったけど。それ、全部見えるって意味じゃないよ」
聞いているようで、俺は聞いていなかった。掌の報酬袋と、体に残る疲れと、便利だと言われた声。頭の中で差し引きして、勝った気になっていた。
帰り道、武具店の前で足が止まった。
壁に、弓が一張、掛かっていた。
古道具屋の、埃をかぶったやつとは違う。磨かれた木目が店の灯りを拾って、鈍く光っている。弦は張りたてでまっすぐだ。値札を見て、掌の報酬袋の重さを思い出した。今日のを何十回重ねても届かない額だった。
店の奥で、店主が試しに別の弓の弦を軽く弾いた。
乾いた、綺麗な音がした。
遠くから、好きな場所を狙える得物。
エルに似合うと思った。
隣で、ミドリが口を開いた。
「それ、誰の――」
言いかけて、やめた。いつものように。
俺は弓から目を離さないまま、報酬袋を握り直した。硬貨が、掌の中で鈍く鳴った。
買えるわけがない。まだ。
その「まだ」が、それから長いこと、俺の中に居座ることになる。
その夜から、俺は募集紙を見る時、行き先より先に報酬欄を探すようになった。




