第三話 白鯨坑道の生存者
臨時救護所からギルド本部までは、車で十五分ほどだった。
俺は後部座席で、窓の外を眺めていた。隣には水瀬ミオが座っている。案内役を買って出たというより、職員に頼まれて断れなかった顔をしていた。
呼び出しは面倒だった。事故の後始末で説明することなど山ほどある。それをいちいち上の人間に話すのは、骨が折れる。
ただ、今回はそれだけじゃなかった。
白鯨坑道。
その名前を、地上で聞いてしまった。二十年、誰の口にも上らなかった名前だ。胸の奥で、塞いだはずの何かが少しだけ軋んだ。
俺は何も言わなかった。ミオも何も聞いてこなかった。それでよかった。
探索者ギルド本部は、ガラス張りの馬鹿でかいビルだった。二十年前は、雑居ビルの一室だったのにな。
ロビーに入ると、空気がひりついていた。事故対応の職員が端末を片手に走り回り、壁の大型モニターには『青羽坑道』の攻略マップと死傷者の数字が映っている。別の画面では、報道向けの声明文が流れていた。救護班が担架を押して、奥へ消えていく。
最新装備の若い探索者が数人、ロビーの隅にいた。彼らは俺の方をちらりと見たが、すぐに興味をなくした。古い杖を持った、しけた中年。それ以上の情報は、彼らの中にない。
それでいい。俺はもう、そういう人間だ。
「うわ。レイじゃねえか」
ロビーの奥から声が飛んできた。
でっぷりした初老の男だった。職員証を首から下げ、缶コーヒーを片手に、にやにやしながら近づいてくる。顔に見覚えがあった。
「……牧野さん」
「生きてたのかよ! いや、ほんとに。風の便りで、どっか田舎で野垂れ死んだって聞いてたぞ」
「誰がそんな噂を」
「俺が流した」
牧野徹。現場上がりの古参職員だ。昔から、こういう男だった。重い場所ほど、軽口を叩く。
「相変わらず顔が葬式みたいだな」牧野は無遠慮に俺の顔を覗き込んだ。「いや、今日は本当に葬式みたいなもんか。悪い悪い」
「牧野さんも、まだいたんですか」
「お互い様だろ」
牧野の視線が、俺の手元で止まった。にやにやが少しだけ引っ込む。
「……おい。まだそれ使ってんのか。その杖」
俺の手の中の、塗装の剥げた聖印の杖。
「白鯨の時の支給品だろ。初期型の救護杖。物持ちがいいにも程があるだろ」
牧野が、声を少し落とした。
「今どき使ってる奴なんて、ほとんどいねえぞ。普通は捨てる。縁起でもない」
「捨てる理由がなかったので」
「……まあ。お前は、捨てないよな」
俺は答えなかった。
捨てたら、間に合わなかったことまで無かったことになりそうで。
そう思っているとは、言わなかった。
近くにいた若い職員が、不思議そうにこっちを見ていた。牧野がその肩を軽く叩く。
「おい、お前。この人、知らねえだろ。この人な、昔はけっこう――」
牧野はそこで言葉を切った。
「……いや。昔、いろいろあった人なんだよ」
それ以上は言わなかった。若い職員は、よく分からない顔で頭を下げ、去っていった。
牧野が缶コーヒーを俺に一本押しつけてくる。あたたかかった。
「飲め。上の階、長くなるぞ。梶原顧問が待ってる」
*
小会議室には、三人いた。
現行支援理論の委員らしき男が二人。そして上座に、白髪の老人。梶原顧問。
二十年ぶりだった。痩せて、白くなって、それでも目だけはあの頃と同じだった。俺の顔を見て、梶原は何の感慨もない声で言った。
「座れ」
俺は座った。あたたかい缶を、机の上に置いた。
最初に口を開いたのは、梶原ではなかった。現行理論の若い委員だ。
「蓮見さん。単刀直入に伺います」
彼は端末を見ながら言った。
「あなたは現場で支援端末の優先表示を切り、回復対象の自動指示を無視した。これは現行マニュアルの明確な違反です。端末を切るのは危険だとは思わなかったんですか」
「危険でしたよ」
俺は遮った。
「だが、端末の指示通りに動いていたら、第三支援線も全滅していました」
委員が言葉に詰まる。
そこで、梶原が静かに口を開いた。
「危険だったのはな」
老人の声は低かった。
「初期型ダンジョンに、現行マニュアルだけで入ったことだ」
委員たちが黙る。
「自動救命術式を信じすぎた。端末の優先表示を信じすぎた。それが沈黙したとき、お前たちは何もできなかった」
梶原は、淡々と続けた。
「この男は、できた。それだけの話だ」
梶原が俺を見た。
「あの時と同じだな」
二十年前を言っているのだと分かった。
俺は首を振った。
「違います」
静かに返す。
「今回は、少しだけ間に合いました」
梶原はしばらく俺を見ていた。それから、机の上に一枚の書類を滑らせた。
『青羽坑道再調査隊・撤退支援指揮』
「これは処分ではない。依頼だ」
梶原が言った。
「青羽坑道に必要なのは火力ではない。撤退支援だ。お前にしかできん」
俺は書類を見て、押し返した。
「お断りします」
委員たちが、ぎょっとした顔をする。梶原だけは動かなかった。
「俺はもう、前線の人間じゃありません。それに、俺にできるのは勝たせることじゃない。死なせないことだけだ。指揮権なんて言われても困る」
「それが今の青羽坑道に要る」
梶原は即座に返した。
「二十年前、お前の判断を正当に扱った者はいなかった。お前のいた場所だけ人が生き残った。なのに誰一人、それを功績とは認めなかった。……覚えているか」
覚えていた。忘れたことなど、一日もなかった。
「だが今回は、数字が残った。予測生存率、二十三パーセント。実測、九十二パーセント」
梶原は続けた。
「そして、生き残った連中が、お前の支援をその目で見た。もう、お前一人が覚えていれば済む話ではない。そのやり方を、若い連中に遺せ。お前が消えたら、二度と誰も使えなくなるんだぞ」
梶原は立ち上がり、ガラス越しの街を見た。
「それに、青羽坑道はただの新規ダンジョンではない」
俺は顔を上げた。
「二十年前に閉じたはずの何かが、別の口を開けただけだ。あの坑道には、白鯨と同じ匂いがする」
老人は振り返らずに言った。
「現行攻略の通じない坑道が、この先も出るなら、お前のような人間が要る。もう、ほとんど残っていないんだ」
会議室が静かになった。
断れる空気ではなかった。それは分かっていた。
俺はしばらく、机の上の冷め始めた缶を見ていた。それから口を開いた。
「条件があります」
梶原が振り返る。
「現場で俺の指示を無視する人間は、隊に入れないでください。支援を保険扱いする部隊なら、俺はいらない。端末より俺の声を優先させる。それが飲めないなら、この話はなかったことに」
現行理論の委員が、何か言いかけた。
だが、梶原がそれを手で制した。
「いいだろう」
あっさりと、老人は言った。
「現場判断における支援端末の優先表示停止権限。撤退支援の指揮権。お前に預ける。異論がある者は、九十二パーセントを超える生存計画を出せ」
委員たちは、もう何も言わなかった。
二十年。俺の支援を誰も認めなかった、二十年。
その重さが、たった一枚の書類でひっくり返ろうとしていた。素直に嬉しいとは思えなかった。ただ、妙に息がしづらかった。
*
会議室を出ると、廊下でミオが待っていた。
壁に背を預け、俺が出てくるのをずっと待っていた顔で。救護所で缶を差し出してきた時のおどおどした目とは違っていた。
「レイさん」
彼女は、まっすぐこっちを見た。
「速水さん、意識が戻ったそうです。……でも、右腕はまだ分からないって」
「そうか」
俺はそれだけ返した。命は残った。でも、元に戻せたわけじゃない。その事実は何も変わらない。
ミオは少し間を置いて言った。
「私も行きます。青羽坑道の再調査」
「やめとけ」
俺は即答した。
「私に教えてください」
ミオは引かなかった。
「回復じゃなくて……死なせない支援を。あたし、あの坑道で何もできませんでした。回復職なのに、誰も救えなかった。でも、次は見てるだけは嫌です」
「やめとけ」
俺はもう一度言った。
「あれは、人を助ける技術じゃない。助けた数を数える技術でもない。助け損ねた顔を、一生覚える技術だ。お前が覚えなくていいものだ」
ミオは唇を噛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
「それでも」
彼女は言った。
「あたしは、覚えたいです」
俺は答えなかった。
答えられなかった、と言うべきか。その目を、俺は知っている。二十年前、鏡の中にあった目だ。
そこへ、エレベーターの方から牧野がのっそり歩いてきた。手に一枚の紙を持っている。
「おい、レイ。もう回ってきたぞ。仕事が早えな、上は」
牧野が、その紙を突き出した。
『青羽坑道再調査隊・編成表』。
撤退支援指揮の欄に、一人の名前が印字されていた。
蓮見レイジ。
二十年ぶりに、公式の書類の上で自分の名前を見た。時代遅れと笑われ、保険扱いされ、消えたはずの男の名前が、そこに確かに載っていた。
牧野が、にやりと笑う。
「葬式みたいな顔して、ちゃっかり復帰かよ」
俺は笑わなかった。
ただ、紙の端を握る手に少しだけ力が入った。
隣で、ミオがその名前を覗き込んでいる。いつか自分の名前もそこに載るのを待つみたいに。
面倒なことになった。
二十年前に閉じたはずの坑道が、また口を開けて俺を待っている。




