第二話 生存率九十二パーセント
坑道の外は、まだ騒がしかった。
地上に張られた臨時救護所では、青いシートの天井の下に担架が並び、治療班が走り回っていた。探索者ギルドの職員は端末を握りしめ、生存者の誰かが声を殺して泣いている。砕けた装備が地面に転がっていた。さっきまで最新合金と呼ばれていたものが、ただの鉄くずになって。
俺はその隅に座っていた。
誰も俺には話しかけてこない。それでよかった。
目の前の担架には、速水が寝かされていた。
息はある。命は残った。だが右腕がひどい。肘から先が魔物の爪に裂かれ、治療班が止血し、治癒術式を重ねても傷の塞がりが遅い。初期型の坑道で受けた傷は、地上に出ても、しばらく尾を引く。俺はそれを知っている。
問題は腕だけじゃなかった。
魔力回路が焼け切れていた。アタッカーの命綱だ。これが戻らなければ、こいつはもう前には立てない。
命だけは残した。
だが、元に戻せたわけじゃない。
いつものことだ。
「レイさん」
声に顔を上げると、若いヒーラーが立っていた。坑道で、俺が聖壁を差し込んだ娘だ。水瀬ミオ。白い支援コートの裾には、坑道の泥と誰かの血がこびりついている。
彼女は両手で缶を持っていた。あたたかい、ほうじ茶か何かの缶だった。それを俺に差し出してくる手が、まだ少し震えていた。
「これ……あの、よかったら」
俺は受け取った。手のひらにぬるい熱が伝わる。礼を言うべきなのは、たぶんこっちの方じゃない。
「ありがとう」
ミオは座らなかった。立ったまま、缶を握る俺の手を見て、それから思い切ったように口を開いた。
「レイさん。さっき、ずっと見てました」
声が少し掠れている。
「レイさん、倒れた人を起こそうとしてませんでした。普通なら最優先で回復する人を見てたのに、そこへ行かなかった」
「ああ」
「なのに……死ぬ人の数が減っていって。途中から、新しく倒れる人が少なくなって。あたし、回復職なのに、何が起きてるのか全然分かんなくて」
彼女は自分の手のひらを見下ろした。聖壁が砕けて、それでも生き残った、その手を。
「あれは……何なんですか」
俺は缶のプルタブを起こした。あたたかい湯気が少しだけ立つ。
「撤退支援だ」
「てったい……」
「昔は、ああしないと誰も帰れなかった。それだけだ」
それ以上は言わなかった。説明したところで、今のマニュアルには載っていない。
ミオは何か言いたそうに口を開きかけて、結局、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。あたし、たぶん死んでました」
その背中が治療班の方へ戻っていく。
俺は缶を一口だけ飲んだ。あたたかかった。ただ、それだけだった。
助けた数より、間に合わなかった顔の方が先に浮かぶ。
退路の手前で力尽きた速水。聖壁が一秒届かなかった背中。坑道の奥で、声の届かなかった何人もの顔。
支援職ってのは、たぶんそういう仕事だ。何人救っても、最後に頭へ残るのは、救えなかった一人の顔だ。
だから俺は、救った数を数えられない。
担架の上で、速水の指がわずかに動いた。
俺はそれを見ないふりをした。見てしまえば、まだ救えた気になってしまうからだ。
俺が地上の救護所でそんなことを考えている頃、そこから少し離れたギルドの建物の中では、まったく別の話が始まっていた。
*
探索者ギルド、緊急事故検証会議。
長机の並んだ会議室は、重い空気で満ちていた。『青羽坑道』攻略中の大規模事故。死者二十七名、行方不明十一名、重傷六十四名。原因の特定が急がれていた。
壁のモニターには、各支援線の被害状況が映し出されている。
第一支援線、戦闘継続不能。第二支援線、半壊。数字が読み上げられるたび、委員たちの表情は暗くなっていった。
そして、第三支援線。
「……第三支援線の管理区域。生存率、九十二パーセント」
報告者がその数字を口にした瞬間、会議室が静まった。
誰かが聞き返す。
「もう一度、いいですか」
「第三支援線の管理区域。生存率、九十二パーセントです」
ざわめきが広がった。他が壊滅に近い中で、その区域だけが明らかにおかしい。
報告者が資料をめくる。
「なお、事故発生時点の第三支援線管理区域における予測生存率は、二十三パーセントでした」
「二十三?」
「はい。自動救命術式の停止、撤退ゲートの閉鎖、支援職への集中攻撃を前提にした予測値です」
「実測は?」
「九十二パーセントです」
会議室の空気がまた変わった。
異常値。
その言葉が、誰の口からも出ないまま共有された。
「第三支援線の管理区域では、回復魔法の使用回数が全部隊平均の三割以下でした」
「三割?」
現行支援理論の委員が眉をひそめる。
「回復を減らして、それで生存率が上がったと?」
「はい」
「そんな支援理論は、現行マニュアルにはありません」
報告者は構わず続けた。
「代わりに、防御支援と退避誘導のログが異常値を示しています。個人による防御支援の発動回数、三百七十二回」
会議室がざわついた。
「三百七十二? 一人で?」
「指揮を執っていた一名の探索者によるものです。回復ではなく、倒れる前に一撃を防ぐ支援。退路そのものを守る支援。現行の支援端末は、こういう動きを推奨していません」
「待ってくれ」
別の委員が口を挟む。
「うちの端末は、危険度の高い対象から優先表示する。回復すべき相手を自動で示すんだ。なのに」
報告者がうなずいた。
「その第三支援線は、端末の優先表示を切っていました」
沈黙。
「優先表示を切った部隊が、一番生き残っていると?」
誰も答えられなかった。
「もう一点」報告者が付け加えた。「今回の事故では、坑道全域で自動救命術式が起動していません。致命傷を受けた探索者の生命反応を三十秒だけ保たせる仕組みが、最初から最後まで沈黙していました」
委員の何人かがうなずく。それが今回の死者数を増やした最大の原因だった。
「その状況で、第三支援線だけが九十二パーセント。これは人の手だけで出した数字です」
会議室が、もう一度静まり返った。
その隅に、一人の若いヒーラーが呼ばれて座っていた。水瀬ミオ。第三支援線の生存者だ。簡易聴取のため、救護所から呼ばれていた。
委員の一人が、彼女に尋ねる。
「現場で、何が起きたか。あなたの言葉で、話してくれますか」
ミオは膝の上で手を握り、それからゆっくりと話し始めた。
「あの人は……倒れた人を回復するなって言いました。まだ立ってる人を、死なせるなって」
委員たちが顔を見合わせる。
「あたし、最初、意味が分からなくて。回復職なのに、回復するなって言われて。でも、あの人は退路の上に、聖域みたいなものを敷いて。端末が『回復しろ』って示す場所とは、全然違うところに支援を置いていって」
彼女の声が、少しずつ熱を帯びていく。
「あの人の指示が入ってから、新しく倒れる人が減ったんです。あの人、敵を一体も倒してません。火力なんて出してない。なのに、戦場の形が変わったんです」
会議室の空気が変わった。
数字だけだったものに、現場の温度が乗った瞬間だった。現行理論の委員が、口を閉じたままモニターの「九十二パーセント」を見つめていた。
「つまり彼は、倒れた者を見捨てたのか」
誰かが低く言った。
ミオの肩が、ぴくりと動く。
「違います」
思ったより強い声だった。自分でも驚いたように、ミオは一度息を吸う。それでも、顔を上げたまま続けた。
「レイさんが見ていたのは、まだ死んでいない人たちでした。あの人が倒れた人のところへ行っていたら、もっと多くの人が死んでました」
会議室が静まり返る。
「あたしも、その一人です」
それ以上、誰も彼女を問い詰めなかった。
その間、ずっと黙っている男がいた。
会議室の上座。特別顧問の席。白髪の、痩せた老人だった。彼は報告にも、ミオの証言にも口を挟まなかった。ただ目を閉じて、聞いていた。
報告が一段落したところで、その男が初めて口を開く。
「術式ログを。第三支援線の防御支援の術式ログを出せ」
モニターに複雑な術式の記録が映し出される。委員の一人がそれを見て、首をかしげた。
「これは……見慣れない構成ですね。今の聖属性支援とは、組み方が違う」
「当然だ」老人が静かに言った。「二十年、誰も使っていない」
会議室がざわついた。
「二十年前の撤退支援だ。現行の理論では説明がつかんだろう。理論ができる前の術式なんだからな」
彼は立ち上がり、職員に低く命じた。
「古い事故記録を持ってこい。二十年前のだ。『白鯨坑道』」
その名前に、何人かの委員が反応した。年配の数人が息を呑む。若い委員たちは誰も知らない顔をしていた。
ほどなく、古い記録が運ばれてくる。黄ばんだ紙のファイル。電子化される前の事故記録だ。
老人は、運ばれてきたファイルの端を親指でそっとなぞった。その一冊だけ、何度も開かれたように背が傷んでいた。
彼はある一ページで手を止める。
そこには、『白鯨坑道遭難事故』という事件名と、一人の探索者の名前が記されていた。
蓮見レイジ。
「あの男は」老人がファイルを見たまま呟いた。「二十年前にも、同じことをした」
誰かが尋ねる。
「同じこと……生存率を上げた、ということですか」
「ああ。あの時も、あの男のいた場所だけ、人が生き残った」
老人はファイルを静かに閉じた。
「ただし、あの時は誰も、その判断を功績とは認めなかった」
それ以上は語らなかった。何があったのか。なぜ認められなかったのか。古い委員たちも、口を閉ざしたままだった。
老人が顔を上げる。白い眉の下の目に、二十年ぶりの何かが宿っていた。
「蓮見レイジを呼べ」
声は静かだったが、会議室の全員に届いた。
「今回の坑道が、なぜあんな動きをしたのか。あの男にしか説明できん」
*
救護所の缶は、もうすっかり冷めていた。
俺がそれを地面に置こうとしたとき、足音が近づいてきた。顔を上げると、さっきのヒーラー、水瀬ミオが息を切らして立っていた。会議室に呼ばれていたとは、俺はまだ知らない。
「レイさん」
その後ろから、ギルドの職員が二人。明らかに俺を探していた顔だった。
ミオが戸惑ったように言った。
「レイさん……ギルド本部から呼び出しです。特別顧問が、直接お話ししたいって」
特別顧問。
その言葉に、俺の指先がわずかに冷えた。
覚えのある立場だ。二十年前、あの坑道のあとも、俺を呼びつけた人間がいた。
職員の一人が一歩進み出て、言った。
「蓮見レイジさん。『白鯨坑道』について、お話があるそうです」
その名前を地上で他人の口から聞くのは、二十年ぶりだった。
俺は、冷めた缶を握り直して立ち上がった。
白鯨坑道。あの場所で、俺が何をして、何を救いきれなかったのか。それを今さら蒸し返そうという人間がいる。
行けば、またあの頃の俺に会うことになる。
それでも、呼ばれたなら行くしかない。
俺は、まだ生きている。あいにくとな。




