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第9話 月の姫、神殿に逆らう

王都ルネリアの空気は、たった数日で一変していた。


「傲慢な月の姫が、神殿の尊い奉仕活動を邪魔したそうだ」

「女神リュナの慈悲を蔑ろにするなんて、なんて罰当たりな令嬢なんだ」

「所詮は恵まれた公爵家の我儘娘だろう。神域を冒すなど許されない!」


公爵邸の門前には、連日のように神殿の熱心な信徒たちが集まり、私に対する抗議の声を上げていた。時折、門扉に向かって小石が投げつけられる乾いた音が響いてくる。

王国の民衆にとって、月神殿は絶対的な信仰の対象であり、貧しい者へ施しを与える慈善の象徴だ。その神殿に盾突いた私は、今や「王国を乱す不敬な悪女」として、完全に悪役の扱いを受けていた。


「お嬢様……お怪我はありませんか。外は危ないですから、窓から離れてください」


自室の窓辺に立つ私を気遣い、侍女のナナが不安そうに声をかけてきた。

彼女はあの日、孤児院で怯える子どもたちを目の当たりにしている。だからこそ、神殿を盲信する民衆の怒りの矛先が私に向かっている現状に、誰よりも心を痛めていた。


「心配いらないわ、ナナ。ただ、少し不思議に思っていただけよ」


私は分厚いカーテンを少しだけめくり、門前で祈りの言葉を叫ぶ民衆を見下ろした。


「彼らは、自分たちの納めた浄財が正しく使われていると信じ切っている。神殿が創り上げた『美しく慈悲深い組織』という幻想を、疑うことすら知らないのね」


孤児院のひび割れた壁や、薄着で凍える子どもたちの姿。そして、真っ白な馬車に押し込まれそうになっていた小さな命。

私がその目で見た現実は、民衆が信じる神殿の姿とはあまりにもかけ離れていた。


「……ミオラ様。神殿より、使者が参りました」


部屋の扉がノックされ、沈痛な面持ちの家令が告げた。

応接室へ向かうと、そこには白銀の法衣を纏った高位の神官が、尊大な態度でソファに腰を下ろしていた。


「ミオラ・ルナシア公爵令嬢。本日はセザン大神官猊下より、慈悲深きお言葉をお預かりしております」


神官は立ち上がりもしないまま、巻紙を広げて仰々しく読み上げ始めた。


「『そなたの若き血の迷いによる神域侵犯は、神殿に対する重大な反逆である。しかし、女神リュナは寛大であられる。三日後、大聖堂前の広場にて民衆に向けて公開謝罪を行い、自ら神殿に身を捧げて祈りの日々を送ることを誓うのであれば、今回の過ちを特別に許そう』……とのことです」


要するに、すべての非を認めて私の口から謝罪し、神殿の都合の良い飾り物になれ、という要求だ。

「慈悲」という名の、醜悪な脅迫である。

神官は、私が恐怖に震えて頷くのを待っているかのように、薄ら笑いを浮かべていた。


「……お断りいたします」


私の静かな、しかし確かな拒絶に、神官の笑みがピタリと凍りついた。


「な、何だと……? 今、何と仰った?」

「言葉の通りですわ。私は、何も間違ったことはしておりません。孤児たちを不当に売り飛ばそうとしていたのは神殿の方です。嘘に膝を折るつもりはありませんし、誰かの自由を奪うような組織に、身を捧げるつもりもありませんと、セザン大神官にお伝えください」


「き、貴様! 自分がどれほど恐ろしいことを口にしているか分かっているのか! 民衆は既に我々の味方だ。このままでは、公爵家そのものが異端として裁かれることになるぞ!」


顔を真っ赤にして喚き散らす神官を、私は冷ややかに見据えた。

正論風の圧力が通じないと見るや、すぐに感情的な脅しに切り替える。その底の浅さに、心底呆れ果てる。


「お引き取りください。これ以上は、時間の無駄ですわ」


私が背を向けると、神官は「後悔するぞ!」と捨て台詞を吐き、足音を荒立てて屋敷から出て行った。



使者が去った後の応接室で、私は小さく息を吐いた。

強気に出たものの、状況が圧倒的に不利なのは事実だ。神殿という巨大な権力と、彼らに扇動された民衆の感情。これらを覆すには、生半可な手段では足りない。


「……見事な啖呵でした。ですが、感情で相手を突っぱねるだけでは、勝つことはできませんよ」


ふいに、開け放たれた扉の向こうから、聞き慣れた淡々とした声が響いた。

黒に近い青髪に、無機質な灰色の瞳。黒い手袋をはめた手には、今日も抱えきれないほどの書類の束を持っている。

宰相補佐官のカナト様だ。


「カナト様。このような渦中の公爵邸に、よく堂々と来られましたね」


「私は宰相府の人間ですから、監査対象の参考人に接触する正当な理由があります。それに……」


カナト様は応接室のテーブルに、ドン、と重々しい音を立てて書類の束を置いた。


「勝つには、感情ではなく『帳簿』です。あなたが孤児たちを守るために啖呵を切ったのなら、私はその言葉を現実のものにするための実務を進めるだけです」


甘い言葉など一切ない。けれど、彼が持ってきてくれたその書類の束が、今私にとって世界で一番頼もしい武器に見えた。


「これは……神殿の財務記録ですか?」


「はい。宰相府の権限を最大限に行使し、過去数年分の神殿の取引記録と、関連する商会の帳簿を全て取り寄せました。神殿は民衆の信仰という『感情』を盾にしています。ならばこちらは、動かざる事実である『数字』で殴り倒すしかありません」


カナト様は椅子を引き、私に座るよう促した。

すぐにナナも筆記用具を抱えて小走りでやってきて、私たちの隣に控えた。彼女もまた、ただ怯えるだけの侍女ではなく、記録係として戦う覚悟を決めているのだ。


「ナナ、カナト様が読み上げる数字のズレを、書き留めていってちょうだい」

「はい、お嬢様!」


私たちはテーブルを囲み、果てしない数字の海へと潜り込んだ。

神殿の帳簿は非常に巧妙に作られていた。寄付金の収入、孤児院や修道院への支出、祭壇の修繕費。一見すると辻褄が合っているように見える。


しかし、数時間にも及ぶ照合作業の末、カナト様の手がピタリと止まった。


「……ミオラ様。ここを見てください」


カナト様が指し示したのは、王都でも有数の大商会が宰相府に提出した、建材の納品記録だった。


「この商会は、神殿の装飾に使われる大理石や月光石を納入しています。商会側の記録によれば、神殿からの支払い額は『金貨五千枚』です」


「ええ。確かにそう書かれていますわね」


「ですが、こちらを見てください。神殿が国に提出した公式の寄付帳簿の同じ日付の欄です」


カナト様が別の帳簿を開く。

そこには、大理石や月光石の購入費として、『金貨一万枚』が支出されたと記載されていた。


「支払額が、倍になっていますわ……!?」


私は思わず声を上げた。


「これだけではありません」


カナト様は灰色の瞳を鋭く細め、次々と別の記録を突き合わせた。

孤児院への食料費、修道服の生地代、祭具の補修費。そのどれもが、神殿の公式帳簿の支出額と、実際に商会が受け取った金額とで、大きく異なっていたのだ。


そして、その差額はすべて、行き先が分からないまま帳簿の海に消えている。


「つまり、神殿が国に提出しているこの寄付帳簿は、表向きの偽造品ということです」


カナト様は冷徹な事実を口にした。


「神殿には、浮かせた莫大な差額を管理するための『真の帳簿』――二重帳簿が必ず存在しています。それを見つけ出せば、彼らの首を取れます」

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