第8話 では本当に、世界を敵に回します
閉ざされた白い馬車の中から聞こえた、絶望に満ちた小さな泣き声。
私は神殿騎士たちの制止を振り切り、馬車の扉の掛け金に手を伸ばした。
「おい、離れろ! いくら月の姫でも、これ以上の神域侵犯は許されんぞ!」
神殿騎士の一人が槍の柄で私を突き飛ばそうとした、その瞬間。
「宰相府監査官代理の権限において通達する」
氷のように冷たく、一切の感情を排した声が響いた。
カナト様が私の前に歩み出て、神殿騎士たちを灰色の瞳で冷酷に見据えた。
「現在、当孤児院における違法な人身売買の疑いで、内偵調査が進行中である。この馬車および内部の者は、重要な『証拠』として直ちに宰相府が差し押さえる。これ以上の妨害は、神殿ではなく国家に対する公務執行妨害とみなす。剣を抜け、近衛!」
カナト様の背後から、彼が密かに手配していた宰相府直属の衛兵たちが一斉に姿を現し、神殿騎士たちを取り囲んだ。
圧倒的な「法」と「手続き」の圧力を前に、神殿騎士たちは顔を引き攣らせ、後退するしかなかった。
私は無言で馬車の扉を開け放った。
「お兄ちゃん!」
「ユミ……っ!」
薄暗い馬車の中に縮こまっていた小さな男の子が、駆け寄ってきた妹を抱きしめ、声を上げて泣き出した。名簿から消え、貴族の『奉仕先』という名の地獄へ売られようとしていた命が、今、確かに繋ぎ止められたのだ。
「ナナ。今の状況と、子どもたちの証言をすべて記録しなさい」
「はいっ……! すぐにお書きします!」
私の指示に、ナナは涙を拭いながら、震える手で必死に羽ペンを走らせた。
*
翌日。
月神殿は私、ミオラ・ルナシア公爵令嬢を「神域侵犯および神殿業務の不当な妨害」で公式に非難する声明を出した。
孤児院での一件は神殿の正当な教化活動であり、私と宰相府の越権行為であると主張したのだ。
王宮のサロンは、その話題で持ちきりになっていた。
「だから言ったじゃないか、ミオラ嬢! 穏便に済ませるべきだったと!」
私を呼び出したレオルド王太子殿下は、頭を抱えて声を荒らげた。
「神殿が本気で怒っている。このままでは国論が二分され、取り返しのつかないことになる。今ならまだ間に合う。私が間に入ってセザン大神官に謝罪しよう。孤児の件は、ほとぼりが冷めてから私が何とかするから……!」
「ほとぼりが冷めるまで、あの子たちはどうなるのですか?」
「それは……っ」
殿下はまた言葉に詰まる。彼の言う「何とかする」は、何もしないことと同義だ。
「申し訳ない、ミオラ様……」
殿下の隣で、アスカル様が苦しげに顔を伏せていた。
「騎士団としては、正式な神域への不法侵入とみなされれば、あなたを庇うことはできない。騎士団を動かすには、神殿の許可が必要なのだ……」
あれほど「あなたの剣になる」と熱弁していた彼も、結局は組織の枠組みの中でしか動けない。
そして、周囲を取り囲んでいた他の令息たち――かつて私に熱烈な求婚を繰り返していた男たちも、潮が引くように距離を置いていた。
「神殿を敵に回すなんて正気の沙汰じゃない」「関われば我が家まで破滅する」「月の姫とはいえ、あまりに身の程知らずだ」という囁きが、ひそひそと聞こえてくる。
誰もが、自分の安全圏から出ようとしない。
私の美貌や「月の姫」という肩書きに群がっていただけの男たち。彼らの愛の言葉は、自分の身に火の粉が降りかかると分かった瞬間、灰のように崩れ去った。
私は冷ややかな目で、逃げ腰になった男たちを見渡した。
「……ミオラ様」
その沈黙を破り、足音が近づいてきた。
現れたのは、黒い手袋の手に分厚い書類の束を抱えたカナト様だった。
彼は周囲の冷ややかな視線など全く気にする様子もなく、私の隣に立った。
「神殿の馬車の運行記録と、裏口座への入金記録の裏付けが取れました。また、ナナ・リネットが書き留めた現場の記録も、正式な調書として受理しています。これで、いつでも動けます」
彼の声は相変わらず淡々としていて、何の感情もこもっていない。
しかし、その実務的な報告は、今この場にあるどんな言葉よりも重く、確かなものだった。
私は、彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……カナト様。あなたは、私の味方ですか?」
私が問うと、カナト様は手元の書類をトントンと揃え、一拍置いて答えた。
「違います。あなたが守ろうとした侍女の証言が、踏みにじられないようにしているだけです」
その言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
彼は、私という「月の姫」を特別扱いして守っているわけではない。
エリシア様に罪を着せられそうになった時、私が守り抜いたナナ。そのナナが今、記録係として必死に書き留めた「孤児たちの声」という弱者の証言を、権力に握り潰されないように法と手続きで守っているのだ。
(この人は、私ではなく……私が守ろうとしたものを見ている)
甘い言葉など、一つもない。
愛を囁くことも、剣を捧げることもしない。
ただ、証拠を守り、私の正しさを証明するために、実務という武器で共に戦ってくれている。
その事実が、私の胸の奥に、初めて温かい火を灯した。
私はゆっくりと振り返り、王太子殿下、聖騎士団長、そして遠巻きに私を非難する求婚者たちを見据えた。
背筋を伸ばし、最高に優雅な笑みを浮かべる。
「世界中が敵になっても味方だと、皆様おっしゃいましたね?」
私の問いかけに、男たちは気まずそうに目を逸らし、沈黙した。
誰も、私の手を取ろうとはしない。
「では今日から、本当にそうします」
私の静かで、けれど決意に満ちた宣言が、サロンに響き渡った。
愛の言葉はいらない。
私は帳簿と証言と契約書で、この腐った王国を裁く。




