第7話 消えた子どもと、白い馬車
王都の東区、少し寂れた通りに建つ月神殿付属の孤児院。
本来ならば、神殿からの潤沢な寄付金によって、子どもたちが健やかに暮らしているはずの場所だ。
「ミオラ様、このような治安の悪い場所へわざわざ足を運ばれるとは。ですが、どうかご安心ください」
私の隣を歩く赤銅色の髪の青年――聖騎士団長のアスカル様は、胸に手を当てて力強く宣言した。
「このアスカル・ヴェイン、何があろうとあなたをお守りいたします。世界中が敵になっても、私の剣はあなたの味方です」
彼が私の外出護衛に志願した理由は、おそらく純粋な正義感と、私への好意からだろう。
その真っ直ぐな琥珀色の瞳には、一切の翳りがない。
だが、その「正義」が誰のためのものなのかを、私はまだ信用していなかった。
「心強いお言葉、ありがとうございます」
私は表面上だけ微笑んで返し、孤児院の鉄門をくぐった。
背後には、記録係として同行しているナナと、無表情で書類の束を抱えた宰相補佐官のカナト様が続いている。
出迎えてくれたのは、神殿から派遣されている恰幅の良い孤児院長だった。
「おお、月の姫であられるミオラ様! よくぞこのようなむさ苦しい場所へ。神殿からの手厚いご加護により、子どもたちも皆、幸せに暮らしておりますよ」
愛想よく揉み手をする院長。
しかし、私の目に映る孤児院の現実は、彼の言葉とはまるで違っていた。
建物の壁には無数のひびが入り、庭で遊んでいる子どもたちの服は薄汚れ、冬の寒さに肩を震わせている。昨日の帳簿に記されていた莫大な「修繕費」や「被服費」が、ここには一銭も使われていないことは誰の目にも明らかだった。
さらに、私の『月鏡』が容赦なく真実を告げていた。
「子どもたちは幸せだ」と笑う院長の口元から、どす黒い染みがポタポタと零れ落ちていたのだ。
「院長。単刀直入に伺います」
カナト様が、感情の読めない声で切り出した。
「三日前に提出された最新の在籍名簿から、七歳の男児が一名消えています。彼の行方は?」
「あ、ああ! あの子ですね」
院長は一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに大げさな笑顔を作った。
「あの子なら、神殿の斡旋で、ある貴族の家へ『奉仕』に出たのです。孤児が立派なお屋敷で働けるなど、神殿の慈悲以外の何物でもありません。あの子も泣いて喜んでおりましたよ」
「奉仕、ですか」
カナト様は手元の書類を一枚抜き出し、院長の目の前に突きつけた。
「私が確認した神殿の移送記録には、受け入れ先であるはずの貴族家の署名が一切ありません。その代わり、男児が孤児院を出た日と全く同じ日付で、神殿の別口座に身元不明の莫大な寄付金が振り込まれています。これは『奉仕』ではなく、実質的な児童の『売買』ではありませんか?」
「なっ……!」
院長の顔から、一気に血の気が引いた。
「め、滅茶苦茶な言いがかりだ! 神殿への不敬であるぞ! 我々はただ、神の御心に従って子どもたちを導いているだけで――」
院長が顔を真っ赤にして喚き散らそうとした、その時だった。
「いやだあっ! 行きたくないっ!」
孤児院の裏庭の方から、子どもの鋭い悲鳴が響き渡った。
「っ……今のは!」
ナナがいち早く反応し、悲鳴のした方へ駆け出す。私たちもすぐにその後を追った。
裏庭の隅、人目につかない通用口の前に、窓が一つもない真っ白な馬車が停まっていた。
その扉の前に、白銀の鎧を着た神殿騎士が三人立っており、怯えて泣き叫ぶ小さな女の子の腕を無理やり掴んで、馬車の中に引きずり込もうとしている。
「やめて! お兄ちゃんを返して! 私もどこかに連れて行かれるの!?」
「大人しくしろ! これも女神への奉仕だ!」
「あの子、この孤児院の子です! 名簿から消えたという男の子の妹です!」
ナナが叫んだ。
先ほど院長が「泣いて喜んでいた」と言った男児は、やはり売られたのだ。そして今度は、口封じのためか、その妹まで連れ去られようとしている。
「アスカル様! あの子を助けて!」
私が振り返って叫ぶと、アスカル様は「おのれ、神を騙り幼子を攫うとは!」と激昂し、神殿騎士たちのもとへ駆け寄った。
「そこまでだ! 聖騎士団長アスカル・ヴェインの名において命ずる。その子を放せ!」
アスカル様が腰の剣の柄に手をかけ、鋭く言い放つ。
神殿騎士たちは一瞬怯んだものの、すぐに三人がかりで槍を交差させ、アスカル様の前に立ち塞がった。
「聖騎士団長殿。これは月神殿の正式な管轄業務である。騎士団が介入する権限はないはずだ」
「何が業務だ! あのように幼い子が泣いて嫌がっているではないか!」
「口を慎まれよ! 我々は神の代理たるセザン大神官の命で動いている! ここで我々に剣を向ければ、それは神殿への反逆であり、騎士団と神殿の不可侵条約を破ることになるぞ!」
その言葉に、アスカル様の動きがピタリと止まった。
彼は正義感が強い。民を守りたいという心は本物だろう。
しかし、彼はそれ以上に「聖騎士団」という組織に忠誠を誓っている。
上官の命令もなしに神殿騎士に剣を抜けば、騎士団全体の面子を泥で塗り潰し、国家の秩序を揺るがす国際問題になりかねない。
「……くっ……」
アスカル様は剣の柄を握る手を震わせ、ギリッと歯を食いしばった。
「アスカル様?」
私が問いかけると、彼は苦悶の表情を浮かべ、ゆっくりと私の方を振り返った。
「……ミオラ様。彼らの言う通り、これは神殿の管轄です。我々が今ここで力尽くで介入すれば、騎士団の立場が危うくなる。ここは一度、騎士団本部へ持ち帰り、正式な手続きを経て抗議を……」
私は、氷のように冷たい視線で彼を見つめた。
つい先ほど、「何があろうとお守りする」「世界中が敵になっても味方だ」と熱弁していた男の姿は、そこにはなかった。
正義を語る彼の剣は、自分の所属する組織の面子と、命令系統の壁を前にして、あっけなく鞘に収まってしまったのだ。
私は、この場で待つ選択が、あの子を見捨てることだと理解した。
「……もう、結構です」
私はアスカル様を見限り、自ら神殿騎士たちの方へ歩み出た。
私の横を、カナト様が音もなくすり抜けて並走する。彼もまた、アスカル様の判断を待つつもりは最初からなかったのだろう。
「ミオラ様! 危険です!」
アスカル様の制止の声を背中で聞き流しながら、私は白い馬車の前に立った。
閉ざされた馬車の分厚い扉の奥から、微かに、けれどはっきりと聞こえた。
「……たすけて……」
消えた男の子の、絶望に満ちた小さな泣き声だった。




