第6話 王太子殿下、穏便とは誰のためですか
「……神殿が、孤児院への寄付金を横領していると?」
王宮の奥深くにある王太子の執務室。
分厚いマホガニーの執務机の向こう側で、レオルド殿下は信じられないものを見るような目で、提出された帳簿の写しを見つめていた。
机の上には他にも多数の書類が積み上げられており、彼が日頃から政務に真面目に取り組んでいることが窺える。
「はい。正確には、帳簿上では孤児院に金が流れたことになっていますが、実際の孤児院の運営状況や物資の購入履歴とまったく噛み合いません。神殿の装飾費や別の用途に流用された可能性が極めて高いです」
カナト様が、いつものように抑揚のない声で事実だけを述べた。
レオルド殿下は眉間を揉み、深く息を吐き出した。
金髪に青い瞳の完璧な王子様。彼が善人であり、国を良くしたいと願っていることは事実だろう。
だが、彼が背負っている「王国」という枠組みが、彼の判断をひどく鈍重なものにしていた。
「……カナト。君の言うことは分かった。しかし、これはあまりにも事重大だ。月神殿は民の信仰の拠り所であり、国家の安寧を支える柱の一つ。確固たる裏付けがないままこの疑惑を公にすれば、民衆は動揺し、国が根底から揺らぐことになる」
「裏付けなら、ここにある帳簿の矛盾が――」
「それだけでは弱い!」
殿下が珍しく語気を強めた。
「もし神殿が『書類の記載ミスだ』と言い張れば、それまでだ。神殿と王家の間に亀裂が入れば、他国につけ入る隙を与えることにもなる。今、神殿を揺らせば民が不安になるんだ」
殿下は立ち上がり、私の方へと歩み寄った。
そして、私を庇うような、ひどく甘く優しい声で言った。
「ミオラ嬢。君が正義感から動いてくれたことは感謝する。だが、これ以上、君が危険なことに首を突っ込むのは見過ごせない。この件は私が引き取り、極秘裏に調査を進めよう。だから君はもう、この件から手を引いて、私の傍で微笑んでいてほしい。私はいつだって、君の味方なのだから」
私は、静かに息を吐いた。
「……殿下」
私は、彼の伸ばしてきた手を静かに避けた。
殿下の青い瞳が、傷ついたように揺れる。
「殿下の仰る『穏便』とは、一体誰のためのものでしょうか」
「え……?」
「国が揺らぐ、民が不安になる。それは確かに一理あるかもしれません。ですが、今この瞬間も、本来受け取れるはずだった支援を絶たれ、飢えや寒さに苦しんでいる孤児たちがいるのです。神殿の体面を守るための『穏便』は、彼らを見殺しにすることと同じです」
「それは……! 見殺しになどしない。だから私が調査を……」
「いつですか? 一年後ですか? それとも神殿と『穏便』な裏取引が完了した時ですか?」
私の厳しい追及に、殿下は言葉を失った。
彼は完全な無能ではない。私の言っていることが正しいと、頭のどこかでは理解しているのだろう。
だからこそ、正しさと王国の安定の板挟みになり、苦しげに顔を歪めている。
「……申し訳ありません、殿下。私には、あなたの言う『味方』という言葉が、ただの逃げ道にしか聞こえません」
私は深く一礼すると、それ以上彼を見ることはせず、執務室を後にした。
*
「……少し、感情的になりすぎましたわね」
王宮の長い回廊を歩きながら、私は小さく息を吐いた。
隣を歩くカナト様は、いつもと変わらない無表情のまま前を見据えている。
「いいえ。あなたが怒るのも無理はありません。王太子殿下の判断は、政治的には間違っていませんが、目の前の不正をただすという点においては致命的に遅い」
カナト様の言葉は容赦がなかった。
「殿下のことは、どう思われましたか?」
私の問いに、カナト様は立ち止まり、灰色の瞳で私を見下ろした。
「王太子殿下は、敵ではありません。ただ、あなたの味方でもない」
その簡潔な評価は、あまりにも的確だった。
悪意があるわけではない。ただ、守るべき「枠組み」が違うのだ。
「権力者は、往々にして既存の秩序を守ろうとします。それが腐敗を温床にしていると分かっていても」
カナト様は手袋をした指先で、抱えている書類の束を軽く叩いた。
「本来、この国には、王族と神殿を中立の立場で監査し、裁くための機関が必要です。それがなければ、誰も証拠を守れない」
独立した監査機関。
彼の口から出たその言葉は、今のルネリア王国には存在しない、しかし絶対に必要不可欠なものだった。
「……カナト様は、それを作りたいのですか?」
「私がしたいのは、証拠が正しく機能する世界にすることだけです」
彼はそれ以上語らず、再び歩き出した。
「さて、ミオラ様。殿下が動かないのであれば、我々で『言い逃れのできない証拠』をさらに積み上げるしかありません。宰相府の私の執務室へ。ナナもそこで待機させています」
「ええ、分かりましたわ」
*
カナト様の執務室は、王城の華やかさとは無縁の、書類の山に囲まれた無機質な部屋だった。
部屋の隅の小さな机で、ナナが一生懸命に別の書類を書き写す手伝いをしてくれている。
「帳簿だけでは、神殿に『記載ミス』だと言い逃れされる可能性があります。そこで、神殿が提出していた孤児院の在籍名簿と、過去に宰相府が独自に行った人口調査の記録を照合してみました」
カナト様が長机に広げた二つの名簿。
彼はペン先で、ある一つの行を指し示した。
「……これは?」
「三ヶ月前の神殿の名簿には、七歳の男児が一名、確かに在籍しています。しかし、今月提出された最新の名簿からは、その男児の名前が不自然に消えている」
私は目を凝らした。
「死亡や、どこかに引き取られたという記録は?」
「一切ありません。病死であれば死亡記録が、奉公に出たのであれば雇用契約書が存在するはずですが、どちらの記録にも該当の男児の名前はない。まるで、最初から存在しなかったかのように、文字通り『消えて』いるのです」
背筋に冷たいものが走った。
帳簿から消えた多額の金。
そして、名簿から消えた一人の子ども。
「……まさか」
「ええ。単なる横領以上の、もっと悪質な何かが行われている可能性があります」
カナト様の灰色の瞳が、鋭く冷ややかな光を帯びた。
神殿の闇は、私が想像していたよりもずっと深く、そして悍ましいものなのかもしれない。
「カナト様、孤児院へ行きましょう。明日、すぐにでも」
「証拠を掴むためには、現場の確認が不可欠ですね」
私は消えた子どもの名簿をじっと見つめた。
私はこの消えた子どもの手掛かりを探す。
今、必要なのは祈りでも愛の言葉でもなく、消された名前を取り戻すための記録だった。




