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第5話 月の姫は、神殿のものではありません

王都の中心にそびえ立つ月神殿の大聖堂は、圧倒的な威容と美しさを誇っていた。


純白の大理石で造られた柱には、月の満ち欠けを象徴するレリーフが精緻に刻まれ、天井からは無数の月光石が淡い光を降り注いでいる。足元に敷き詰められた瑠璃色の絨毯は、塵一つなく磨き上げられていた。

ルネリア王国の「表向きの美しさ」を、そのまま形にしたような場所だ。


「ようこそおいでくださいました、ミオラ・ルナシア様」


祭壇の前で私を出迎えたのは、柔和な笑みを浮かべた初老の男性だった。

純白の法衣に、月光石の大きな首飾り。彼が、この国で王族に次ぐ権力を持つとされる月神殿の最高位、セザン大神官だ。


「突然の招待にも関わらず、足を運んでいただき感謝いたします。ああ、やはりあなたは美しい。女神リュナの祝福を一身に受けた、まさしく『月の姫』だ」


セザン大神官は、しわがれた声で芝居がかったように褒め称えた。

彼の背後には、白銀の礼装に身を包んだ神官たちが並び、皆一様に私へ恭しいお辞儀をしている。


しかし、私は内心で冷めた息を吐いていた。

侯爵令嬢との一件から数日しか経っていないこのタイミングでの呼び出し。

神殿の目的は明らかだ。

私が貴族社会で予測不可能な動きをする前に、「月の姫」として神殿の管理下に置き、都合の良い飾り物にしてしまおうという魂胆だろう。


「身に余るお言葉、恐縮いたします。本日は認定式のお話ということで伺いましたが」


私が礼儀正しく微笑み返すと、セザン大神官は満足げに頷いた。


「ええ、そうです。ミオラ様、あなたは王国の宝です。月の姫として神殿に入り、迷える民のために祈る義務があります。あなたのその美しい微笑みと祈りこそが、国を安寧に導くのですから」


王国の宝。民のための祈り。

いかにも高尚で、誰も反対できない正論だ。


「月の姫は、複雑な政争や醜い諍いに関わるべきではありません。ただ、民の前で美しく微笑んでいればよろしいのです。神殿は、あなたをあらゆる煩わしさからお守りいたしますよ」


まるで私を気遣うような、甘く優しい言葉。


その瞬間。

私の目の奥で、チカチカと鈍い痛みが走った。

『月鏡』の能力が発動したのだ。


(……え?)


私は息を呑んだ。

セザン大神官の周囲から黒い染みが滲み出ている……だけではない。

彼の背後にある巨大な祭壇、並んでいる神官たち、さらには大理石の柱に至るまで、私の視界に映る神殿の空間全体から、どす黒いインクのような染みが噴き出しているように見えたのだ。


じわじわと広がる暗黒の染みは、この神殿という組織そのものが抱える、巨大な「矛盾」と「嘘」を視覚的に訴えかけていた。

あまりの光景に、軽い目眩を覚える。


(「民のため」と言いながら……この神殿全体が、真っ黒に染まっている……)


彼らは民のために祈ってなどいない。

この美しい神殿の裏で、何か決定的な不正が行われている。


「……ミオラ様? いかがなさいましたか」


私が一瞬言葉に詰まったのを見て、セザン大神官が怪訝そうに首を傾げた。

私はすぐに表情を取り繕い、真っ向から彼を見据えた。


「素晴らしいお言葉ですね、大神官様。ですが、私はただ微笑むだけの飾りになるつもりはありません。民のために祈るというのなら、私もこの目で、神殿がどのように民を救っているのかを拝見したいのです」


「拝見、とは?」


「たとえば……そうですね。この見事な祭壇の装飾や、皆様の立派な法衣。これらはすべて、民からの浄財で賄われているのですよね? 孤児院や貧民への支援も手厚く行われていると聞いております。その素晴らしい実績を、ぜひ学ばせていただきたいのです」


私がわざとらしく祭壇を褒め称えると、セザン大神官の頬が微かに引きつった。


「そ、それは……ええ、無論です。我々は惜しみなく民へ還元しております」


「それならば、ちょうど良かった」


横から、感情の読めない淡々とした声が割り込んだ。


「宰相府より、認定式の準備に伴う神殿の特別監査に参りました」


声の主は、私の斜め後ろに控えていたカナト様だった。

黒に近い青髪に、灰色の瞳。黒い手袋をした手には、今日も分厚い書類の束が抱えられている。

彼は私の護衛という名目で同行していたが、その実、最初から神殿を調べるための「正当な口実」を持ってきていたのだ。


「宰相府の監査だと? 聞いておらんぞ」


セザン大神官の声が、初めて低く険しいものに変わった。


「事後通達の形を取らせていただきました。神殿が次期『月の姫』を迎え入れるにあたり、財政状況の透明性を証明することは、王国法においても推奨されております」


カナト様は手元の書類をペラリとめくり、大神官に突きつけた。


「何もやましいことがなければ、すぐに終わる確認作業です。神殿の直近三カ月分の会計記録と、孤児院への寄付金の出納帳を提出していただきたい。よろしいですね?」


拒否すれば、やましいことがあると認めるようなもの。

セザン大神官は忌々しそうにカナト様を睨みつけた後、渋々といった様子で部下の神官に書類を持ってくるよう命じた。



数十分後。神殿の奥にある応接室。


カナト様は長机に神殿の分厚い帳簿を広げ、猛烈な速度でページをめくりながら数字を追いかけていた。

私はその向かいに座り、彼の実務的な横顔を静かに見つめていた。


「カナト様。私を神殿の権力から守るために、わざわざ監査の口実を作ってくださったのですか?」


私が尋ねると、カナト様は帳簿から目を離さずに答えた。


「誤解しないでください。あなたを守るためではありません。神殿の不透明な資金の流れは、以前から宰相府でも問題視されていました。あなたが『月の姫』として目をつけられたこの機を利用して、帳簿を開かせただけです」


本当に、甘い言葉を一つも口にしない人だ。

だが、その実務に基づいた冷静な態度は、私にとって何よりも信頼できるものだった。


やがて、カナト様の手がピタリと止まった。


「……ミオラ様。あなたの疑念は正しかったようです」

「矛盾が見つかりましたか?」


カナト様は灰色の瞳を細め、帳簿の一点を指差した。


「神殿が管理する孤児院への寄付金ですが……多額の支出が記録されているにも関わらず、実際には孤児院側へ金が渡った形跡がありません。つまり、孤児院への寄付金は、帳簿の上にしか存在していないということです」

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