第4話 最初に脱落した求婚者
「……そんな、嘘よ。何かの間違いですわ」
エリシア様は後ずさり、血の気の引いた唇を震わせた。
「間違いではありません。カナト様、この香油は非常に高価なもの。特注品ですね?」
私が問うと、宰相補佐官のカナト様は手元の書類を素早く確認し、無表情のまま頷いた。
「はい。ヴェルカ侯爵家が懇意にしている南方の商会から、特別に取り寄せている『夜咲き薔薇』の香油です。非常に希少で、ルネリア王国内でこれを愛用しているのは、エリシア様をおいて他にいません」
決定的な証拠だった。
すれ違いざまにナナが盗んだのなら、ブローチだけが箱に入っているはず。香油の匂いまで移る理由がない。
エリシア様自身が、自分の控室から持ち出した直後にナナの箱へ無理やり隠したからこそ、彼女の指先やブローチに付着していた香油の匂いが移ったのだ。
「あ、ああ……」
言い逃れができないと悟ったのか、エリシア様はその場にへたり込み、両手で顔を覆った。
完全な沈黙が広間を支配する。
先ほどまでナナを泥棒扱いし、エリシア様に同調していた令嬢たちも、今は気まずそうに扇で顔を隠し、後ずさっている。
しかし、ここで終わるほどこの国の貴族社会は甘くない。
「……まあ、そのあたりにしておいてはいかがかな、ミオラ嬢」
ざわめきの中、一人の年配の貴族が進み出た。ヴェルカ侯爵派の重鎮だろう。
「確かにエリシア嬢の早とちりだったようだが、若い令嬢のちょっとした悪戯のようなもの。これ以上追及するのは、侯爵家の名誉に関わる。お互い、この辺りで水に流すのが貴族の作法というものでしょう」
悪戯。
人の一生を左右しかねない冤罪を、彼らはそう呼ぶのだ。
私が冷ややかな視線を向けた時、背後から甘い香水と、気障な声が近づいてきた。
「ミオラ様。彼の言う通りです」
声をかけてきたのは、先ほどナナを「捨てればいい」と言い放った名門伯爵家の令息だった。
彼は私の耳元に顔を寄せ、親しげに囁いた。
「君の正しさは見事に証明された。あの小娘の嘘を暴いた君の知性は素晴らしい。だが、君のためにも、ここは許してあげた方が美しい。月の姫たる者、慈悲深くあるべきだ。そうすれば、君の評判はさらに高まる。私は君の味方だからこそ、こうして忠告しているのです」
一見すると、私を気遣うような優しい言葉。
しかし、私の目の奥で月光が瞬き、『月鏡』が発動する。
男の周囲――その甘く微笑む口元から、どす黒い染みが滲み出ているのがはっきりと見えた。
彼の言葉は矛盾している。
私の味方だと言いながら、本心ではヴェルカ侯爵家に恩を売り、面倒事を穏便に済ませたいだけ。弱い者を踏み躙った罪を、私の「慈悲」という便利な言葉で覆い隠そうとしているのだ。
「……味方、ですか」
私は小さく息を吐き、男から一歩距離を取った。
そして、広間中の誰もが聞こえるようにはっきりと告げた。
「一人目、脱落です」
「……え?」
呆然とする伯爵令息に向かって、私はにっこりと微笑んだ。
「慈悲とは、己の罪を認め、心から謝罪した者に与えるものです。自己の保身のために事実を歪め、弱い者に責任を押し付けようとする者を許すことは、慈悲ではなくただの『共犯』です。私は、あなたの美しい言葉に頷く気は一切ありません」
「なっ……」
男は屈辱に顔を赤くし、周囲の貴族たちも息を呑んだ。
愛の言葉を囁いていた男の仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。
「そこまでだ!」
怒声が広間に響き渡る。
人垣をかき分けて現れたのは、恰幅の良い壮年の男性――エリシア様の父親である、ヴェルカ侯爵その人だった。
「父様……っ!」
「エリシア、立て。見苦しいぞ」
侯爵は泣き崩れる娘を強引に立たせると、私とカナト様を鋭く睨みつけた。
「我が娘が、夜会の疲れから少々錯乱していたようだ。ご迷惑をおかけしたな。今日は娘の体調が優れぬゆえ、これで失礼させてもらう」
謝罪の言葉を口にしながらも、その態度は傲慢そのものだった。
侯爵という強大な権力を盾に、逃げ切るつもりだ。
周囲の貴族たちも、レオルド殿下でさえも、侯爵の強引な幕引きを止めることはできなかった。
「お待ちください、侯爵」
その空気を切り裂いたのは、カナト様の淡々とした声だった。
「本件に関する証拠と記録は、宰相府の権限において全て保全いたしました。エリシア様の窃盗未遂および虚偽の告発については、後日、正式な手続きを経て監査対象とさせていただきます」
「……小癪な役人が」
侯爵は忌々しそうに吐き捨てると、娘を引きずるようにして広間を去っていった。
完全な断罪には至らなかった。今はまだ、侯爵家という巨大な壁を崩すだけの材料が足りない。
しかし、ナナの冤罪は晴れた。
「お嬢様……っ、ありがとうございます。本当に……」
侯爵たちが去った後、ナナはボロボロと涙をこぼしながら私の前に跪いた。
「顔を上げて、ナナ。あなたは何も悪いことはしていないのだから」
私がハンカチで彼女の涙を拭うと、ナナは何度も頷いた。
「カナト様。あなたにも、感謝いたします」
私が振り返って礼を言うと、カナト様は手元の書類を整えながら、やはり顔色一つ変えずに答えた。
「感謝される筋合いはありません。私はただ、記録が泣いているのを見過ごせなかっただけです。それに……」
彼は灰色の瞳で私を真っ直ぐに見た。
「あなたが引かなかったから、証拠が意味を持ったのです」
甘い台詞など一つもない。
けれど、その実務的で重みのある言葉は、どんな求婚者の囁きよりも私の心を少しだけ軽くした。
*
数日後。
ナナの冤罪事件は、社交界で大きな噂となっていた。
月の姫である私が、侯爵家を相手に一歩も引かず、証拠をもって侍女を救ったという話。
それにより、甘い言葉で私に取り入ろうとしていた求婚者たちの何人かが、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。二人目、三人目――もはや数える気にもならないほど、呆気なく。
彼らは理解したのだ。私が、ただ愛想よく微笑むだけの飾り物ではないと。
「お嬢様、お茶が入りました」
自室のテラスで本を読んでいると、ナナが温かい紅茶を運んできてくれた。
彼女の手はもう震えていない。
「ありがとう。……平穏な朝ね」
「はい。お嬢様のおかげです」
私たちが穏やかな時間を過ごしていた、その時だった。
「ミオラ様」
部屋の扉がノックされ、公爵家の家令が恭しく入室してきた。
その手には、白銀の封蝋が押された立派な封筒が乗せられた銀盆がある。
「どうしたの?」
「神殿より、使いの者が参りました。ミオラ様へ、書状をお持ちです」
嫌な予感がした。
この国において、王族と同等かそれ以上の権力を持つ月神殿。
私は銀盆から書状を受け取り、封を切った。
中に入っていたのは、一枚の豪奢な招待状だった。
『月の姫認定式へのお知らせ』
そこには、流麗な文字でそう書かれていた。
神殿が、私を正式に「月の姫」として囲い込もうと動き出したのだ。
「……次から次へと、休ませてはくれないようね」
私は招待状をテーブルに置き、冷たく光る月光石の空を見上げた。




