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第3話 月鏡は、嘘ではなく矛盾を見る

「あなたのその手袋から、証拠を紡ぎ出させていただきますわ」


私の静かな宣言が広間に響くと、エリシア様は一瞬ぎょっとしたように目を見開いたが、すぐに扇で口元を隠して鼻で笑った。


「手袋ですって? 何を馬鹿なことを。ただの言いがかりですわ」


彼女の取り巻きの令嬢たちも、「月の姫ともあろうお方が、見苦しい」「泥棒の侍女を庇うために必死なのね」と囁き合う。


だが、私の目にははっきりと見えていた。

エリシア様が扇を持つ右手の先――精緻な金糸の刺繍が施された美しいシルクの手袋から、どす黒いインクのような染みがじわじわと滲み出ているのを。


私の持つ『月鏡』という能力は、相手の心を読む魔法でも、都合よく真実を暴く嘘発見器でもない。

相手の「言葉」と「行動」に矛盾がある時、そのズレを視覚的な黒い染みとして見せるだけの力だ。

つまり、この黒い染みがあるからといって、彼女を即座に断罪することはできない。

カナト様が言った通り、誰の目にも明らかな客観的な「証拠」が必要なのだ。


「エリシア様、右手の薬指をご覧ください」


私は冷静な声で指摘した。


「手袋の金糸の刺繍が、わずかにほつれ、切れていますね。どこかに引っ掛けたのではありませんか?」

「……っ!」


エリシア様は弾かれたように右手を背後に隠した。


「こ、これは……夜会の前に、壁の装飾に擦ってしまっただけよ! それが泥棒と何の関係があるというの!」

「いいえ。装飾ではありません」


声を荒らげる彼女に対し、私は冷ややかに首を振る。


「それは、私の侍女であるナナの荷物箱を、無理やり開けようとした時に引っ掛けたのでしょう」

「なっ……!?」


広間が再び大きなどよめきに包まれた。


「失礼」


そこに、淡々とした声が割り込んだ。

宰相補佐官のカナト様が、小脇に抱えていた分厚い書類の束から、一枚の紙を抜き出したのだ。


「夜会における、侍女控室の出入り記録です」


彼は一切の感情を交えない、事務的な声でその書類を読み上げる。


「夜会中、侍女たちの控室の出入りは防犯のために厳格に記録されています。確認したところ、ナナ・リネットがこの時間帯に控室に戻った記録はありません。しかし――」


カナト様は、手元の書類からスッと視線を上げ、灰色の瞳でエリシア様を射抜いた。


「エリシア様。あなたご自身が中座し、記帳もせずに侍女控室の周辺に立ち入っていたという、警備兵の報告があります」

「そ、それは……お化粧直しに行っただけよ! 私の控室はそのすぐ近くなのだから、通りかかっても不自然ではないでしょう!」

「なるほど。では、推測ではなく物理的な事実で確認しましょう」


カナト様は背後に控えていた衛兵に合図を送った。


「ナナ・リネットの荷物箱と、エリシア様の控室にある宝石箱を、直ちにここへ持ち込みなさい」


数分後。

広間の中心に、粗末な木製の小箱と、豪奢な装飾が施された宝石箱が並べられた。

夜会の参加者たちが、何事かと固唾を呑んで見守っている。


カナト様は黒い手袋をした手で、ナナの粗末な荷物箱の留め具を指し示した。


「皆様、ご覧ください。この箱の金具の部分に、金色の絹糸が絡まっています」

「え……」


エリシア様の顔から、さらに血の気が引く。

カナト様は容赦なく事実を積み上げていく。


「先ほど専門の者に確認させましたが、この糸の材質と染料は、エリシア様の手袋の刺繍糸と完全に一致します。特注品の最高級シルクですね」

「……!」

「あなたが広間でナナとすれ違った際にブローチを盗まれたという主張が事実だとしても。夜会中、一度も広間に持ち込まれていないこの箱に、なぜあなたの手袋の糸が絡まっているのでしょうか?」


矛盾。

私の月鏡が示した黒い染みの正体は、これだ。

彼女の「ナナが広間で盗んだ」という言葉と、「自分が控室でナナの箱に細工をした」という行動の完全なズレ。


エリシア様は肩で息をし、焦乱したように叫んだ。


「だ、騙されないで! そんな糸屑、この女が後から巻き付けたに決まっているわ! 私を陥れるために!」


彼女は私と床に座り込むナナを交互に睨みつけ、最後に周囲の貴族たちへ助けを求めるように叫んだ。


「皆様、お考えになって! 薄汚い使用人と、侯爵令嬢の私。どちらの言葉を信じるというの!?」


血筋と身分。

それがこの国における絶対の価値基準だ。

彼女の叫びに、周囲の貴族たちが同調するようにざわめき始めた。


「そうですとも、侯爵令嬢を疑うなどあり得ない」

「ただの糸屑でしょう。証拠には弱すぎる」


レオルド殿下でさえ、気まずそうに目を伏せて口を開く。


「ミオラ嬢、やはりこれ以上は……エリシア嬢の言う通り、証言の重さが違う」


アスカル様も苦虫を噛み潰したような顔で沈黙している。

権力と身分で事実をねじ伏せようとする、この国の縮図。


だからこそ、私は絶対に引かない。

床で震えるナナを背中で庇い、毅然と顔を上げた。


「どちらも信じません」


私の凛とした声が、広間の空気を切り裂いた。


「使用人の言葉だから疑うわけでも、侯爵令嬢の言葉だから信じるわけでもありません。私は――記録を信じます」


その瞬間。

隣に立っていたカナト様が、わずかに目を丸くしたのが見えた。

実務と証拠だけを重んじる彼と同じ思想を、私が口にしたからだろうか。

しかし、彼はすぐにいつもの無表情に戻り、エリシア様の宝石箱に手をかけた。


「では、記録と事実の確認を続けましょう。エリシア様、この宝石箱の鍵を開けてください」

「……開ければいいんでしょう! ブローチなんて入っていないわ!」


エリシア様がひったくるように鍵を開ける。

パカッと開いた箱の中には、確かに月光石のブローチは入っていなかった。


「ほ、ほら見なさい! やっぱりあの女が盗んだのよ! 私の宝石箱にブローチがないのが何よりの証拠じゃない!」


勝ち誇ったように叫ぶエリシア様。

周囲の貴族たちも「やはりミオラ様の言いがかりだったか」と安堵の息を漏らす。


しかし、私は落ち着いていた。

開かれた宝石箱から漂ってきた、微かな香りに気づいたからだ。


「……カナト様。この箱の中を」


私が促すと、カナト様は箱の中に顔を近づけ、小さく頷いた。


「……なるほど。そういうことですか」


私はにっこりと微笑み、エリシア様を見据えた。


「エリシア様。ブローチ自体は、発覚を恐れてすでに別の場所に隠したのかもしれませんわね。ですが――」


私は、ナナの荷物箱を指差した。


「この宝石箱に残っている、あなたのご愛用である『夜咲き薔薇』の高級な香油の匂い。どうして、一度も開けていないはずのナナの荷物箱の中からも、全く同じ香りがするのでしょうか?」


エリシア様の表情が、完全に凍りついた。

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