第10話 帳簿は祈らない
「神殿には、浮かせた莫大な差額を管理するための二重帳簿が必ず存在しています。それを見つけ出せば、彼らの首を取れます」
カナト様が告げたその冷徹な推測は、薄暗い応接室の中に重く響き渡った。
表向きの公式帳簿では、孤児院や貧民救済に多額の金が使われていることになっている。しかし、実際の商会側の取引額とは大きなズレがあった。
問題は、その宙に浮いた「差額」がどこへ消えたのかだ。
「カナト様。その消えた金が、神殿のどこに流れたのかを証明する手立てはありますの?」
私が尋ねると、カナト様は手元の書類の束から、別の分厚い束を引き抜いた。
「宰相府の権限で、先ほどの商会とは別の、王都の高級織物商と宝石商の帳簿も押さえておきました。それらと照らし合わせれば、自ずと答えは出ます」
彼は無表情のまま、猛烈な速度で数字を追い始めた。私もそれに倣い、数字の羅列に目を凝らす。
やがて、点と点が繋がり、おぞましい一つの線が浮かび上がってきた。
「……ミオラ様。この三つの取引記録を見てください」
カナト様が指し示したのは、『大聖堂祈りの間の祭壇改修費』『大神官猊下の儀礼用法衣の新調』『特別祈祷用月光石の仕入れ』という名目の支出だった。
「この支出が記録されている日付は、孤児院への『架空の寄付金』が計上された日付と、完全に一致しています」
「……金額も、ぴったり同じですわね」
私は怒りで手が震えそうになるのを必死に抑え込んだ。
孤児たちが食べるはずだったパン。冬の寒さを凌ぐための薪。そして、不当に売られた子どもたちの涙。
それらがすべて、あのセザン大神官が身に纏っていた見事な金糸の法衣や、神殿を煌びやかに飾り立てる月光石に化けていたというのか。
「神は貧しき者を救うと説きながら、自分たちは孤児の命から搾り取った金で着飾っている……。彼らは祈ってなどいません。ただ、私欲を貪っているだけです」
私が吐き捨てるように言うと、カナト様は静かに頷いた。
「帳簿は祈りません。ただ、冷酷に事実だけを記録し続ける。これが神殿の真実です」
「お嬢様、カナト様」
不意に、隣で黙々と羽ペンを走らせていたナナが声を上げた。
「私に、その差額の推移をまとめさせてください」
彼女はそう言うと、震えのない、まっすぐな目で私たちを見つめた。
あの夜会で、濡れ衣を着せられて床に這いつくばり、ただ泣くことしかできなかった少女の姿はもうない。彼女は今、自分の手で不正を暴くための戦いに加わろうとしていた。
「数字の羅列だけでは、後で誰かに言い逃れされるかもしれません。ですから、孤児院の予算がいつ、どのくらい削られ、その分が神殿の何に使われたのか。日付順に、誰が見ても一目で分かる一覧表を作成します。私の字なら、お役に立てるはずです」
カナト様はナナの提案に、少しだけ目を丸くした。
「……素晴らしい判断です。記録は整理されて初めて、決定的な『証拠』という武器になります。頼めますか、ナナ・リネット」
「はい!」
ナナは力強く頷き、新しい羊皮紙に向かって丁寧かつ素早い手つきで文字を書き込み始めた。
その姿を見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。私が守った小さな命が、今度は私を支える力になってくれている。
その時だった。
「ミオラ様! 大変です!」
ノックの音と共に、家令が血相を変えて飛び込んできた。
「王太子殿下が……レオルド殿下が、お忍びで裏門からお見えになりました!」
「殿下が?」
私が怪訝に思って立ち上がると、すでに開かれた扉の向こうに、マントを深く被ったレオルド殿下の姿があった。
彼はひどく疲労した顔で応接室に入ってくると、カナト様がいることに少し驚いたようだったが、すぐに私に向き直った。
「ミオラ嬢、無事か。門前に暴徒が集まっていると聞いて、居ても立っても居られなくてな……」
彼は私の手を取ろうとしたが、私は自然な動作で一歩下がり、距離を置いた。
「ご心配には及びませんわ、殿下。ただの小石が飛んできているだけです」
「ただの小石じゃない! 神殿が君を正式に異端として糾弾する準備を進めている。彼らは民衆の信仰心を盾にして、君を社会的に抹殺するつもりだ!」
殿下の青い瞳には、本物の焦りと不安が浮かんでいた。彼が私を好ましく思い、本気で案じていることは分かる。
しかし、彼が次に口にした言葉は、私を芯から失望させるものだった。
「ミオラ嬢、頼む。今は時期が悪い。一時的でいいから、神殿の要求を飲んで、謝罪し、沈黙してくれないか」
「……沈黙、ですか?」
私の声が、スッと冷たくなる。
「そうだ。私が水面下でセザン大神官と交渉し、君の身の安全だけは絶対に保障させる。その代わり、孤児院の件や神殿の不正追及は、一旦白紙に戻すんだ。今は波風を立てるべきじゃない」
殿下は身を乗り出し、必死に説得を試みる。
「いいか、ミオラ嬢。私は君を守りたいんだ。君が危険に晒されるのを黙って見てはいられない。だが、神殿と正面から対立すれば、民衆の暴動が起き、王国そのものが崩壊しかねない。国を統べる者として、それだけは避けねばならないんだ。分かってくれ」
穏便に。波風を立てず。一時的な沈黙を。
彼が守ろうとしているのは、私ではない。「神殿と王家が共存する、これまでの王国の秩序」だ。その秩序の維持のために、孤児たちの命を切り捨てろと言っているのだ。
「殿下」
私は、ナナが書き上げたばかりの、神殿の不正をまとめた一覧表を手に取り、殿下の胸元に突きつけた。
「これをご覧ください。孤児たちが飢えに苦しむ中で、神殿が着服した金の記録です。彼らは子どもを売り、その金で自らを飾り立てている。これが、殿下が『波風を立てない』ために見逃そうとしている現実です」
殿下は書類に視線を落としたが、すぐに苦しげに顔を背けた。
「……現実がどうであれ、今は動けない。政治には妥協が必要なんだ。私は君を愛している。だからこそ、今は引いてくれ」
善人でありながら、強大な不正を前にして動けない男。正しさを知っていながら、安定を優先して目をつぶる男。
その弱さが、どれほど多くの弱者を踏み躙ってきたか、彼は分かっていない。
私は書類をテーブルに戻し、静かに、けれど逃げ場のない視線で彼を射抜いた。
「レオルド殿下」
彼が王太子として、そして一人の人間として、決定的な選択を間違えようとしている。
「あなたは何を守りたいのですか?」




