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第11話 揺らぐ王国と、沈む子ども

「あなたは何を守りたいのですか?」


私の問いかけに、レオルド殿下は弾かれたように顔を上げ、言葉を詰まらせた。

公爵邸の一室。薄暗い応接室の中で、殿下はまるで裁きを待つ罪人のような痛切な表情を浮かべていた。


「……私は、この国に生きるすべての民を守りたい。無論、君のこともだ、ミオラ嬢」


絞り出すような声には、彼なりの誠実さが滲んでいた。

王太子として国を安寧に導き、同時に愛する女も守り抜く。それが彼の理想とする「完璧な王子様」の姿なのだろう。


「すべての民、ですか」


私は、ナナが書き上げたばかりの不正の証拠――孤児院から搾取された金額の一覧表を指差した。


「殿下の仰る『すべて』の中に、この帳簿から消された孤児たちは入っていないのですね」

「違う! 見捨てるわけではない!」


殿下は身を乗り出し、テーブルに両手をついた。


「ただ、順番の問題だ。月神殿はこのルネリア王国の精神的な支柱だ。もし神殿の腐敗を今、大々的に公表すれば、民衆の信仰は裏切られ、王都は暴動の渦に巻き込まれる。神殿と結託している貴族たちが反乱を起こせば、内戦になるかもしれないんだぞ!」


彼の青い瞳が、苦悶に揺れる。


「内戦になれば、数え切れないほどの血が流れる。何千、何万という民が死ぬんだ。数人の孤児を救うために、何万という民を危険に晒すことが、王族の……上に立つ者の責任だと言えるのか?」


それは、彼が王太子として受けた教育の成果であり、国を治める者としての残酷な「正論」だった。

多数を生かすために、少数に目をつぶる。

王国の安定という巨大な天秤の前に、名もなき孤児の命はあまりにも軽かった。


だが、一つだけは分かる。

犠牲を前提にした組織は、必ず次の犠牲者を探し始める。


「殿下」


私は冷ややかな声で、その天秤を切り捨てた。


「弱い者の骨の上に築かれた平穏など、ただの幻想です。今は数人の孤児でも、神殿の腐敗を放置すれば、次は数十人、数百人と犠牲は増えていく。この国が『切り捨ててもいい命』を容認するのなら、いずれその刃は、殿下が守りたいと願う何万の民にも向かいます」


「……っ」


「それに」


私は一歩、殿下へと歩み寄った。


「一番弱い者を切り捨てることでしか守れない『平和』に、何の価値があるのですか。そんな国を、私は少しも美しいとは思いません」


殿下は唇を噛み締め、ギリッと拳を握り込んだ。

彼は悪人ではない。私の言葉が正論であり、自分のやっていることがただの「見て見ぬふり」であると、彼の良心が一番よく理解しているのだ。

だからこそ、反論できずに内心で血を流している。


「……ミオラ様のおっしゃる通りです、殿下」


それまで沈黙を守っていたカナト様が、淡々とした声で口を開いた。


「殿下が『時期を待つ』と言っている間にも、神殿は証拠隠滅のために動いています。現に、孤児院の子どもたちは真っ白な馬車でどこかへ運ばれようとしていました。殿下の穏便な対応は、彼らに死の猶予を与えているに過ぎません」


カナト様の容赦のない実務的な指摘が、殿下に止めを刺した。


「……時間を、くれ」


殿下は、力なくそう呟いた。

完璧な王太子としての威厳はそこにはなく、ただ苦悩する一人の青年が立っていた。


「必ず、国も、君も、孤児たちも救う道を見つけ出す。だから……それまでは」

「お待ちするお約束はできません。私は私のやり方で、証拠を積み上げます」


私の冷たい宣告に、殿下はひどく傷ついたような顔をして、ゆっくりと踵を返した。

逃げるように応接室を出ていく彼の背中は、ひどく小さく見えた。


「……王太子殿下には、少々酷だったかもしれませんね」


殿下の足音が完全に消えた後、カナト様が帳簿を整理しながら呟いた。


「同情なさるの?」

「いいえ。上に立つ者が決断を先送りにすれば、下にしわ寄せがいくのは当然の理です。彼は王太子として、あの痛みを引き受けなければならない」


カナト様は灰色の瞳を私に向けた。


「ですが、あなたのあの決絶した態度は、味方を失うことになりかねませんよ」

「構いませんわ。言葉だけの味方なら、最初からいないのと同じです」


私がきっぱりと言い切ると、カナト様は「そうですか」とだけ返し、再び書類の山へと向き直った。

その無愛想な横顔に、私は不思議なほどの安堵を覚えていた。彼は私を甘やかさない。だからこそ、その行動のすべてが信用できた。


「さて、ミオラ様。感傷に浸っている暇はありません。神殿の公開審問に持ち込むには、彼らが孤児を売買していたという動かぬ証拠――神殿が秘密裏に交わした『裏の契約書』か『指示書』が必要です」


「心当たりはありますの?」

「神殿の書庫です。宰相府の権限で差し押さえの手続きに入っていますが、神殿側も必死に抵抗しており、書類の保全が急務です」


「分かりました。ナナ、先ほどの表を――」


私が振り返ると、テーブルの端で懸命にペンを走らせていたナナが、ふうっと額の汗を拭っているところだった。


「お嬢様、カナト様。先ほどの孤児院の支出と、神殿の装飾費の照合表、完成いたしました」

「ありがとう、ナナ。素晴らしい速さね」

「この表は、宰相府の公式な調書として私が引き取ります」


カナト様はナナの作成した表を受け取り、素早く目を通すと、わずかに満足げに頷いた。


「ナナ・リネット。君の書く文字は癖がなく、非常に正確だ。記録官としての適性があります」

「ほ、本当ですか……!? ありがとうございます!」


実務に厳しいカナト様に褒められ、ナナはパッと顔を輝かせた。

彼女が自分に自信を持ち始めていることが、私も自分のことのように嬉しかった。


「カナト様、この資料の清書がもう数枚必要でしたよね。私、少し筆記用のインクと新しい羊皮紙を、別室へ取りに行ってまいります!」


ナナはやる気に満ちた足取りで、応接室を出て行った。

私が神殿を敵に回したことで、公爵邸の中もどこかピリピリとした空気が漂っているが、彼女の存在がそれを和らげてくれている。


しかし、私たちはまだ、神殿という組織の「執念」を甘く見ていた。



一方その頃。

公爵邸の薄暗い廊下を、ナナは小走りで進んでいた。


(私でも、お嬢様の味方になれる。お嬢様の役に立てるんだ)


胸の内でその事実を反芻するだけで、足取りが軽くなる。

書庫から新しいインク瓶と羊皮紙の束を抱え、応接室へ戻ろうと角を曲がった、その時だった。


「――おっと」


ドン、と誰かの胸にぶつかり、ナナは小さく悲鳴を上げて尻餅をついた。

抱えていた羊皮紙が床に散らばる。


「も、申し訳ありません! 前をよく見ていなくて……」


慌てて謝罪しながら顔を上げたナナは、息を呑んだ。

そこに立っていたのは、公爵家の使用人ではない。

白銀の法衣を纏った、神殿から派遣されてきている数人の神官たちだった。


「……構いませんよ、小さな迷える子羊よ」


先頭に立つ神官が、冷ややかな笑みを浮かべてナナを見下ろしていた。


「ところで、そなたはミオラ・ルナシア様の専属侍女ですね?」

「は、はい……そうですが……」


神官たちは顔を見合わせ、まるで獲物を見つけた狩人のような目でナナを取り囲んだ。


「ちょうど良かった。実は、神殿の書庫から『神聖なる儀式の記録文書』が紛失しましてね。どうやら、我が神殿を敵視する者が、卑劣な窃盗を働いたようなのです」


「え……?」


ナナが戸惑う中、神官の一人が、床に散らばった羊皮紙の束の中に、見慣れない立派な装丁の書類を一つ、滑り込ませた。


「おや。あなたが落としたその書類の束の中に……神殿の紋章が刻まれた文書が紛れ込んでいるようですが?」


「えっ? そ、そんなはずはありません! 私はただの新しい羊皮紙を……!」


「黙りなさい、泥棒猫」


神官の声が、氷のように低く響いた。


「神殿の文書を窃盗した大罪人として、直ちに神殿へ連行する。月の姫の侍女ならば、主の罪を雪ぐためにも、神殿の地下牢でたっぷりと『懺悔』してもらいましょうか」


ナナの小さな腕が、無情にも神官の手によって乱暴に掴み上げられた。

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