第40話 愛の言葉より、証拠を
「……その機関の名前を、『月鏡法院』と名付けようと思っている。ミオラ嬢、君には、その初代長官に就任してほしいんだ」
レオルド殿下の口から出た真っ直ぐな提案に、私は隣に立つカナト様と静かに視線を交わした。
王族や神殿といったいかなる権力にも属さず、純粋に『証拠』と『法』のみに基づいて王国全体を監査する独立機関。
それはかつて、私が孤児院の不正を暴き出そうとした時、カナト様が「本来、この国には王族と神殿を監査する機関が必要だ」と口にしていた、まさに理想の形だった。
「王太子妃という、美しいだけの鳥籠にはもう誰も君を閉じ込めない。……君は、王国の飾りではなく、王国を正しく導くための羅針盤になってほしい」
殿下の青い瞳には、かつての「波風を立てず、穏便に済ませたい」と願っていた気弱な青年の面影はない。
自らの母である王妃を裁き、王国の負の遺産をすべて背負って立つ、次期国王としての確かな覚悟が宿っていた。
「……お受けいたしますわ、殿下」
私は、深く、優雅な礼をとった。
「月の姫としてではなく、一人の人間として。この国の不正を許さず、証拠をもって真実を明らかにする責務を、謹んでお引き受けいたします」
私の答えを聞いて、レオルド殿下はふっと、どこか寂しげで、けれど晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。……これで本当に、私の初恋は終わりだね」
殿下はぽつりと呟き、私の隣に立つカナト様を見た。
「エルゼン。彼女の集めた証拠を、一番近くで信じ抜いたのは君だ。……私は君に、色々な意味で負けたよ。だから、これからも彼女の傍で、その剣となって支えてやってくれ」
「私は剣ではありませんよ、殿下。ただの、しがない書類係です。……ですが、彼女の正しさを証明するためならば、どのような労も惜しまないつもりです」
カナト様が淡々と、しかし揺るぎない敬意を込めて一礼すると、殿下は満足そうに頷き、王宮の執務室へと帰っていった。
王妃の政治権限を剥奪し、彼自身の手で王家の改革を始めるために。
*
それから、半年が過ぎた。
季節が巡り、王都ルネリアの空気は驚くほど澄み切っていた。
王宮の敷地外、民衆の街と貴族街のちょうど境界に位置する場所に、新設された『月鏡法院』の白亜の庁舎が完成していた。
「長官。本日の監査報告書と、各方面からの定期連絡が届いております」
執務室の重厚なデスクに向かっていた私の前に、膨大な書類の束が置かれる。
声をかけてきたのは、月鏡法院の正式な記録官の制服に身を包んだナナだった。
「ありがとう、ナナ。いつも助かるわ」
「とんでもありません! 私の字が、こうしてお嬢様……いえ、長官のお役に立てるのが、嬉しくて仕方ないのです」
ナナは誇らしげに胸を張った。
あの夜会で、濡れ衣を着せられてただ震えていたあの気弱な少女はもういない。彼女は今、王国で最も厳格な監査機関の筆頭記録官として、私の仕事を完璧に支えてくれている。
「各方面の様子は、どうかしら」
私が尋ねると、ナナは嬉しそうに報告書を読み上げた。
「はい! アスカル団長が再編した新生騎士団は、貴族の護衛よりも街の治安維持を優先し、民衆から絶大な支持を得ているとのことです。ユイナ様が責任者を務める保護制度も軌道に乗り、孤児院の子どもたちも元気に字の読み書きを学んでいるそうです」
「そう。良いことね」
「それから、砂海帝国のライハ特使からは、新たな同盟窓口に関する実務的な外交文書が届いております。……あ、エリシア様からも定期報告が。侯爵家から離れ、証人保護の下で新しい仕事を始められたそうですが、相変わらずプライドが高くて周囲とぶつかっているとか……」
「ふふっ、彼女らしいわね。でも、自分の足で生きようとしているなら、それで十分よ」
私は報告書をめくりながら、窓の外を見上げた。
誰もが、与えられた「飾り」や「所有物」としての役割を捨て、自分の意志で、自分の足で新しい道を歩み始めている。
もう、私の瞳に『月鏡』の黒い染みが見えることはない。
能力がなくても、私は彼らが紡ぐ言葉と、その背後にある確かな行動を、心から信じることができた。
「……ご機嫌ですね、ミオラ様」
ふいに、執務室の扉が開いた。
黒に近い青髪に、いつもの黒手袋。大量の監査資料を抱えたカナト様が、静かな足取りで入ってきた。
彼は今、月鏡法院の補佐官として、私の右腕となりこの国の腐敗を監視する要職に就いている。
「カナト様。ええ、皆が前を向いて歩いている報告を聞いて、少し嬉しくなったのです」
私が微笑むと、カナト様はナナに目配せをした。
ナナは「それでは、私はこれで!」と空気を読み、満面の笑みで一礼すると、そそくさと執務室を退出していった。
静寂が降りた執務室。
夕暮れの柔らかな光が、ステンドグラス越しに室内に差し込んでいる。
カナト様は、抱えていた書類をデスクの端に置くと、いつもならすぐに仕事の話を始めるはずが、なぜか少しの間、無言で私の前に立っていた。
「……カナト様?」
不思議に思って首を傾げると、彼は静かに息を吸い込み、私を真っ直ぐに見つめた。
その灰色の瞳には、かつての法廷で見せたような冷徹な光はなく、ただ深く、静かな熱だけが宿っていた。
「ミオラ様。……あなたの隣に立つ権利を、これから一生かけて証明します」
それは、静謐な空間に落ちた、確かな誓いの言葉だった。
甘く飾り立てられた求婚者たちの「愛している」という台詞とは違う。
彼らしい、実務的で、不器用で、だからこそ絶対に揺らぐことのない重みを持った宣言。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じながら、彼を見つめ返した。
そして、彼が教えてくれた「本当の信頼の形」に則って、挑戦的に、そして最高の信頼を込めて微笑んだ。
「では、最初の証拠を見せてください」
私の問いかけに対し、カナト様は慌てることもなく、懐から一部の書類を取り出した。
指輪の箱ではない。
それは、分厚い羊皮紙に王家の正式な承認印が押された、『月鏡法院の設立許可書』だった。
彼が、罷免されるという最大の危険を冒し、王妃と戦い、私の理想を現実のシステムとして国に認めさせた、何よりの献身の結晶。
カナト様がその許可書をそっとデスクの上に置くと。
その書類の下から、飾り気はないけれど、月光のように美しく澄んだ銀色の輝きを放つ、小さな指輪が現れた。
私は思わず息を呑み、書類と指輪、そして彼を交互に見つめた。
「世界中が敵になっても君の味方だ、とは言いません」
カナト様は、私の手を取り、その冷たくて温かい黒手袋越しに、私の指先にそっと触れた。
「世界の方を、あなたの味方に変えます」
その言葉は、私たちがこの半年間、共に泥に塗れながら成し遂げてきた事実そのものだった。
言葉だけの「味方」は、もういらない。
彼は、行動で、実務で、そしてこの確かな証拠で、世界そのものを作り変えて、私の隣に立つ権利を証明してみせたのだ。
私は、彼の不器用な優しさが詰まったその指輪をそっと見つめ、心の底からの、飾り気のない本心の笑顔を向けた。
「では、これからも証拠を積み上げてください」
私の言葉に、カナト様は初めて、声を出して小さく笑った。
飾り物の姫として転生した私の物語は、これでおしまい。
愛の言葉はいりません。
私はこれからも、隣に立つ彼と共に、帳簿と証言と契約書で、確かな明日を積み上げていく。
(了)




