第39話 月の姫は、世界を味方に変える
「カナト様。まずは、神殿の残党たちが座るあの席から参りましょうか」
私は、枷をはめられた両手で、傍聴席の一角を静かに指し示した。
私の瞳に宿った『月鏡』の力。それはもう、私を振り回す制御不能な異能ではない。
視界に広がる無数の「黒い染み」の濃淡。それはすなわち、彼らが吐いている嘘と保身の大きさだ。私はその染みが最も濃く、矛盾が最も大きい箇所から順に、カナト様へと証拠の提示を指示していった。
「承知しました」
カナト様は私の意図を即座に理解し、手元の証拠束から一枚の書類を抜き出した。
「まずは神殿の裏帳簿です。セザン大神官の失脚後も、残党たちが貴族院への違法な資金提供を続けていた記録。……そして次に、貴族院の重鎮たちがその資金を使って、ガーラン子爵のような末端に違法な雇用契約を結ばせていた契約書の束」
カナト様の無駄のない実務的な声が、法廷に響き渡る。
能力と実務が完全に噛み合った、完璧な反撃だった。
「ひっ……!」
「ば、馬鹿な、なぜその記録が……!」
神殿の残党たちと貴族院の重鎮たちが、次々と顔面を蒼白にして立ち上がる。
だが、カナト様の手は止まらない。
「さらに、彼らが不正を隠蔽するために騎士団上層部へ渡した莫大な賄賂の受領書。……そして最後に、それらすべての腐敗を黙認し、対価として砂海帝国から裏金を受け取っていた王妃イザナ様の、署名入り密命書と外交文書です」
神殿、貴族院、騎士団、そして王家。
バラバラに見えていた王国の腐敗が、私が指示した順序で証拠を突きつけられたことにより、一つの巨大な、そしておぞましい怪物としての全貌を現した。
もはや、誰一人として言い逃れはできなかった。
証拠の提示順序が完璧すぎるがゆえに、互いが互いの罪を裏付ける強固な鎖となって、彼ら自身を縛り上げたのだ。
「あ、あああ……っ」
玉座に座る王妃イザナの体から、これまでで最も色濃い、絶望と敗北の黒い染みが噴き出した。
王国の安定のためと言い張り、私を理不尽な檻に閉じ込めようとした絶対的な支配者。彼女が守ろうとしていた「完璧な盤面」は、私たちが泥臭く這いつくばって集めた紙切れの束によって、完全に粉砕された。
「……王妃イザナ。ならびに、不正に関与したすべての者たちへ」
静まり返る広場に、レオルド殿下の声が響いた。
次期国王たる彼は、国王の名代として、冷厳な声で裁きを下した。
「王家の名において、王妃イザナのすべての政治権限を直ちに剥奪し、離宮への軟禁を命じる。また、神殿の解体および再編、貴族院の全面的な監査、騎士団上層部の更迭をここに布告する!」
その宣言が下された瞬間。
「おおおおおおっ!!」
バルコニーの下を埋め尽くしていた数万の民衆から、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「月の姫様、万歳!!」
「真実を、俺たちの声を守ってくれてありがとう!」
「月の姫様!!」
最初に声を上げたのは、孤児院から救い出された少年だった。
「月の姫様は、俺たちの名前を覚えてくれた!」
続いて、広場の端にいた女が、震える声で叫んだ。
「うちの子も、神殿に連れて行かれるところでした。あの方が止めてくださらなければ、今ごろ……!」
ざわめきが、怒号ではなく、別の熱を帯び始める。
「王国を壊したのは、月の姫じゃない!」
「子どもを売った者たちだ!」
「証言した者を脅した者たちだ!」
誰かがそう叫んだ瞬間、広場の空気が変わった。
民衆たちは、情報操作による洗脳から完全に目を覚ましていた。
誰が自分たちを搾取し、誰が身を呈して自分たちの命と生活を守ろうとしてくれたのか。目の前で突きつけられた圧倒的な証拠の連鎖が、彼らに真実を悟らせたのだ。
割れんばかりの歓声の中、アスカル様の聖剣の合図によって近衛兵たちは武装を解除し、王妃や腐敗貴族たちは次々と連行されていく。
「お嬢様……! お嬢様!」
安全が確保された法廷の中央へ、ナナが涙を流しながら駆け寄ってきた。
ユイナも、一時保護院の子どもたちも、下級騎士や薬師たちも、皆が私の周りに集まってくる。エリシア様も、少し離れたところから安堵の表情を見せていた。
「ミオラ様。お怪我はありませんか」
アスカル様が剣を収め、私の手首に嵌められていた重い鉄の枷を、鍵で外してくれた。
「ありがとう、アスカル様。……ええ、私は無事よ、ナナ、みんな」
私は、解放された両手で、泣きじゃくるナナの背中を優しく撫でた。
ふと、顔を上げる。
そこには、大歓声を上げる民衆たちと、私を取り囲んで泣き笑う仲間たちの姿があった。
『世界中が敵になっても、君の味方だよ』
社交界デビューの夜。
着飾った求婚者たちが、私に向かって甘く囁いたあの台詞が、脳裏に蘇る。
あの時、言葉だけで「味方だ」と言った男たちは、私が権力を敵に回した瞬間、誰一人として私の傍には残らなかった。
彼らは保身に走り、目を逸らし、私を厄介者として切り捨てたのだ。
でも、今は違う。
私が自分の足で立ち、帳簿を読み、証言を集め、理不尽な檻に立ち向かった結果。
私の傍には、私が涙を信じた侍女がいる。声を救った聖女候補がいる。命を守った子どもたちがいる。誇りを取り戻した聖騎士がいる。
そして、私の隣には。
「愛している」という甘い言葉の代わりに、職と人生を賭けて、私の正しさを実務で証明してくれた、不愛想な補佐官が立っている。
「ミオラ様」
カナト様が、いつものように静かに私を見つめ返した。
私は、世界を敵に回したわけではなかった。
ただ、偽物の言葉を捨てて、本当の行動を選び続けただけだ。
その結果として、私は「世界の方を、私の味方に変える」ことができたのだ。
「……勝ちましたね、カナト様」
「ええ。私たちの、完全勝利です」
カナト様が、本当に珍しく、はっきりとした微笑みを浮かべた。
広場の熱狂は、いつまでも収まることなく王都の空に響き続けていた。
*
公開裁判から数日後。
王都は、腐敗の膿を出し切ったことで、かつてないほどの活気と再生のエネルギーに満ちていた。
公爵邸の執務室で、久しぶりの平穏なティータイムを楽しんでいた私の元へ、予期せぬ来訪者が現れた。
「ミオラ嬢、少し時間をいただけるだろうか」
訪れたのは、レオルド殿下だった。
彼は王族としての重圧から解放されたような、すっきりとした顔つきをしていた。
「殿下。王宮の事後処理で、お忙しいのではありませんか?」
私が席を勧めると、殿下は首を横に振った。
「その事後処理の件で、君に頼みがあるんだ。……実は今、王家直属の、全く新しい独立機関を設立する計画が進んでいる」
「独立機関、ですか?」
殿下は真剣な表情になり、私と、隣に控えるカナト様を見据えた。
「神殿、貴族院、騎士団……これらの組織が互いに監視し合うことなく癒着したのが、今回の腐敗の原因だ。だからこそ、どの権力にも属さず、純粋に『証拠』と『法』のみに基づいて王国全体を監査する機関が必要だ。……その機関の名前を、『月鏡法院』と名付けようと思っている」
「月鏡……」
私の能力の名前。だが、それはもはや万能の力ではなく、真実を映し出す象徴としての意味を持っていた。
「ミオラ嬢。君には、その月鏡法院の初代長官に就任してほしいんだ。……王国の飾りではなく、王国を正しく導くための、真の羅針盤として」
レオルド殿下の口から出たその思いがけない提案に、私はカナト様と顔を見合わせた。




