第30話 王太子は、母を止める
「――待て!!」
割れんばかりの叫び声が、王宮の大広間に木霊した。
私を不敬罪で捕らえ、その口を塞ごうと殺到してきた近衛兵たちの足が、ピタリと止まる。
無理もない。彼らの前に両手を広げて立ち塞がったのは、この国の次期国王たる第一王子、レオルド殿下その人だったからだ。
白銀の槍の穂先が、殿下の胸元からわずか数センチのところで震えている。
「レオルド……! 何をしているのです、退きなさい!」
玉座から見下ろす王妃イザナが、初めてその完璧な仮面を歪め、金切り声を上げた。
「その小娘は、神聖な婚約の場を台無しにしたばかりか、王家を騙る偽造文書まで持ち出した大罪人です! 次期国王であるあなたが、なぜそのような反逆者を庇うのですか!」
「……偽造文書では、ありません」
レオルド殿下は、近衛兵の槍の壁から視線を外し、ゆっくりと玉座の母を振り返った。
その青い瞳には、これまで彼を縛り付けていた「王太子としての重圧」とは違う、一人の人間としての確かな熱が宿っていた。
「母上。私は、知っていました。神殿が孤児院から資金を横領していたことも、裏で一部の貴族と癒着していたことも。……そして、母上がそれらを知りながら、王国の安定のために利用していたことも」
「なっ……」
広間の空気が、再び凍りついた。
王妃だけでなく、傍聴席にいた神殿の残党たちや、貴族院の重鎮たちの顔から、一気に血の気が引いていく。
王太子自身の口から、王妃の不正を認める発言が飛び出したのだ。
「私はずっと、見て見ぬふりをしてきました。波風を立てず、穏便に済ませることが、上に立つ者の責任だと信じていたから。少しの犠牲に目をつぶれば、大多数の民の平和が守られるのだと、自分に言い聞かせてきました」
殿下は、苦しげに顔を歪め、そして私の方を振り返った。
「だが、彼女は……ミオラ嬢は、決して妥協しなかった」
殿下の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
「自分の身が危険に晒されても、誰の味方も得られなくても。彼女はたった一人の侍女のために立ち上がり、名もなき孤児たちのために、王国の闇にたった一人で挑み続けた。彼女が守ろうとしたのは、私が『国のため』と切り捨てようとした、小さな命だった!」
私は無言のまま、彼を見つめ返した。
彼は善人だ。
だからこそ、自分の「穏便」という偽善が、結果として弱者を踏み躙っていた事実に気づき、誰よりも苦しんでいた。
「母上。ミオラ嬢の言う通りです。弱い者の犠牲の上に成り立つ平和など、ただの欺瞞に過ぎない。このまま彼女の声を塞ぎ、臭いものに蓋をしてやり過ごす国に、果たして何の意味があるというのですか!」
「黙りなさい、レオルド!!」
王妃イザナの怒声が、広間のシャンデリアを震わせた。
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を握りしめながら、実の息子を氷のような目で睨み下ろした。
「国を治めるということは、綺麗な理想論を並べることではありません! 時には泥を被り、非情な決断を下さねばならない。それが王族の義務であり、呪いなのです! あなたにはそれが分からないのですか!」
「分かっています。ですが、私は……彼女の自由を奪い、人形のように傍に置くことで得られる王冠など、欲しくはない」
殿下は、静かに、しかしはっきりと断言した。
「私は王太子としてではなく、一人の人間として、ミオラ嬢の意思を尊重します。彼女を、王家の飾りにすることはさせない」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にわだかまっていた、彼への失望と怒りが、スッと溶けて消えていくのを感じた。
彼は、ついに自分の足で立ったのだ。
王家の枠組みや、母親の敷いたレールから外れ、自分の意志で「正しさ」を選び取った。
彼が私に向ける感情は、もはや盲目的な恋慕や庇護欲ではない。一人の人間としての、純粋な敬意だった。
(……立派になられましたわね、殿下)
彼が私の「本命の相手」になることは、もうない。
私の隣にはすでに、私が倒れそうな時に無言で実務を支えてくれる、不愛想で頼もしい補佐官がいるのだから。
それでも、彼がこの土壇場で己の過ちを認め、私のために盾となってくれたことは、私がこの世界で得た確かな「救い」の一つだった。
「……愚かな」
玉座の王妃が、地を這うような低い声で呟いた。
「そこまでその娘に骨抜きにされたというのなら、もはや次期国王としての資質はありません。レオルド、今すぐそこを退きなさい。退かなければ――」
王妃の冷酷な瞳が、極限まで細められる。
「王妃としての私の全権限をもって、国王陛下に進言します。お前を、王位継承権から永久に除外すると」
「……っ!」
広間中から、悲鳴のような息を呑む音が漏れた。
王位継承権の剥奪。
それは、彼がこれまで生きてきた二十年間のすべてを否定し、王族としての存在価値そのものを奪うという、究極の脅しだった。
彼がどれほど過酷な教育に耐え、民のためにと願って生きてきたか。そのすべてが、水泡に帰すのだ。
「殿下……」
私が思わず声をかけようとした、その時だった。
「脅しには屈しません」
レオルド殿下は、顔を上げ、清々しいほどの笑みを浮かべていた。
そこには、王太子としての重圧から解放された、彼本来の穏やかで真っ直ぐな青年の顔があった。
「私がここで退けば、私は一生、自分自身を許すことができない。地位を失うことよりも、誇りを失うことの方が、私にとっては恐ろしいのです」
殿下は両手を下ろし、背筋を伸ばして玉座の母を見据えた。
「王位継承権から外すというのなら……それでも構いません」
その一言が、広間に静かな、しかし決定的な亀裂を走らせた。
「……っ、この、愚か者がぁぁっ!!」
王妃イザナが、ついに感情を爆発させて絶叫した。
「近衛! 構いません、その愚息ごとミオラ・ルナシアを拘束しなさい! 逆らう者は斬り捨てても構わない! 今すぐ、あの娘の口を塞ぐのです!!」
王妃のヒステリックな命令に、近衛兵たちが戸惑いながらも再び槍を構え直す。
いかに王太子を庇おうとも、王妃の絶対的な命令には逆らえない。彼らの刃が、ついに私たちへ向けられようとしていた。
「……ミオラ様」
その時、私の背後に控えていたカナト様が、音もなく私の横に並び立った。
「殿下があそこまで時間を稼いでくださったおかげで、私の『仕込み』も完了しました」
カナト様は黒い手袋の奥で、カチリと懐中時計の蓋を閉めた。
その瞬間、大広間の分厚い扉が、外側から轟音と共に蹴り破られたのだ。




