第29話 月の姫は、婚約式で異議を唱える
建国記念の式典当日。
王宮の最も巨大な大広間は、足の踏み場もないほどの人々で埋め尽くされていた。
バルコニーの下には数万の民衆が集い、広間の中には王侯貴族、諸外国の特使、そして王妃の裏工作によって復権した神殿の残党たちが、それぞれの思惑を隠した顔で居並んでいる。
「これより、第一王子レオルド殿下と、ミオラ・ルナシア公爵令嬢の婚約式を執り行う!」
豪奢な礼装に身を包んだ式典長の声が響くと、広間は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
私は、王家が用意したあの重苦しい純白のドレスを身に纏い、壇上へと進み出た。私の隣には、青白い顔をしたレオルド殿下が立っている。
「ミオラ嬢……」
殿下が、すがるような視線を向けてくる。
彼がまだ、私が大人しくこの状況を受け入れるのではないかと、どこかで期待しているのが分かった。彼にとって、それが一番「誰も血を流さずに済む」解決策だからだ。
一段高い玉座には、国王と、そして優雅な笑みを浮かべた王妃イザナの姿があった。
彼女の目は、私を『見事な装飾品』として眺めている。逃げ場のないこの状況で、まさか私が反逆するとは微塵も思っていないのだろう。
「ミオラ・ルナシアよ」
王妃イザナが、柔らかく、しかし絶対的な権力を伴った声で語りかけた。
「あなたは神殿と貴族院の腐敗を暴き、王国の民に正義を示しました。その清らかな心と美貌は、まさに王太子妃にふさわしい。さあ、レオルドの手を取り、誓いの言葉を」
広間が静まり返り、すべての視線が私に集まる。
神殿の残党たちは、私が王家に取り込まれ、自分たちへの追及が終わることを確信して薄ら笑いを浮かべている。
私は、ゆっくりとレオルド殿下に向き直った。
彼は差し出された私の手を取ろうと、安堵の息を吐きながら自分の手を伸ばしてきた。
――その手を、私は静かに、だが明確な拒絶の意志を持って、扇で払いのけた。
「……え?」
殿下が間抜けな声を漏らし、広間の空気が一瞬で凍りついた。
「ミ、ミオラ嬢? 何を……」
私は殿下を一瞥しただけで、すぐに視線を真っ直ぐに玉座の王妃イザナへと向けた。
そして、数万の民衆にも聞こえるよう、よく通る凛とした声で宣言した。
「この婚約に、私の意思はありません」
そのたった一言が、広間に落とされた爆弾だった。
「な、なんだと!?」
「月の姫が、婚約を拒絶したぞ!」
「王妃様に向かって、なんという不敬を……!」
広間が蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれる。
バルコニーの下にいる民衆たちにも、そのどよめきは瞬時に伝わっていった。
「ミオラ・ルナシア。……今、何と言いましたか?」
王妃イザナの顔から、完璧な笑みが剥がれ落ちた。
その瞳には、自分の敷いたレールを外れた小娘への、氷のような冷たい怒りが宿っていた。
「私の言葉通りですわ、王妃様。私は、あなた方が用意したこの豪奢な檻に入るつもりは毛頭ありません。そもそも、本人不在のまま勝手に発表された婚約に、何の正当性があるというのですか」
「黙りなさい!」
王妃が玉座の肘掛けを強く叩いた。
「あなたは王国の宝です! 宝に個人の意思など必要ありません。神殿を乱し、貴族院を糾弾したあなたを、王家が寛大にも保護してやろうというのです。それを拒むというのなら……あなたはただの、王国を害する反逆者です!」
王妃が合図を送ると、広間の壁際に控えていた王家の近衛兵たちが、一斉に槍を構えて私を取り囲んだ。
同時に、神殿の残党たちも「そうだ! 神の教えに逆らう魔女め!」と声を上げ、私を糾弾し始める。
圧倒的な武力と、国家権力による同調圧力。
しかし、私は一歩も引かなかった。
私の背後には、罷免されてなお私と共に戦うと決めた、カナト様がいるのだから。
「王妃様。私を反逆者と呼ぶのなら、あなたはどうなのですか?」
「……何?」
「あなたが神殿のセザン大神官と交わした、密命書の写しです」
私は、カナト様から預かっていた書類を高く掲げた。
「孤児院の横領と人身売買の事実を知りながら、その利益の三割を受け取ることを条件に、不正を黙認していた。……この国を一番深くから腐らせていたのは、あなたではありませんか!」
その言葉に、広間は先ほど以上のパニックに陥った。
王妃の顔が、今度こそ完全に青ざめる。
「で、でたらめだ! そのような偽造文書で私を陥れようとするとは! 近衛、直ちにその小娘を不敬罪で拘束しなさい! 口を塞ぐのです!」
王妃のヒステリックな命令を受け、近衛兵たちが私に向かって踏み込んできた。
私が扇を構え、カナト様が護身用の短剣に手をかけようとした、その瞬間。
「――待て!!」
割れんばかりの叫び声が、近衛兵たちの動きをピタリと止めた。
それは、ずっと私の隣で青ざめ、震えていた男。
レオルド王太子殿下だった。
彼は両手を広げ、近衛兵たちの槍と、私の間に立ち塞がった。
「で、殿下……!?」
「レオルド! 何をしているのです、退きなさい!」
王妃が金切り声を上げるが、レオルド殿下は退かなかった。
彼は肩で激しく息をしながら、王妃を――自分の母親を、真っ直ぐに睨み返したのだ。




