第28話 カナト・エルゼン、罷免
砂海帝国の特使ライハ・サフィールが公爵邸を去った翌日。
建国記念の式典、すなわち私と王太子殿下との強制的な婚約発表が明日に迫る中、王都の空気はピンと張り詰めていた。
王妃イザナの張り巡らせた包囲網を突破するには、彼女自身が神殿や貴族院の腐敗を黙認し、利用していたという決定的な証拠が必要だ。
カナト様は昨日から宰相府に籠り、特使が残した「別の形での関与」という言葉の手掛かりを探るべく、王妃周辺の過去の外交記録や特秘文書の洗い出しを極秘裏に進めていた。
「お嬢様。少し、お休みなさってください。昨日からずっと書類をご覧になったままです」
ナナが心配そうに温かい紅茶を差し出してくれた。
「ありがとう、ナナ。でも、休んでいる暇はないわ」
私は紅茶を一口だけ口に含み、すぐに視線を卓上の資料に戻した。
「王妃様は、私たちが次にどう動くか完全に読んでいるはず。カナト様が宰相府で動いていることも、すでに察知されているかもしれない。彼に危険が及ぶ前に、こちらでも手札を揃えておかなければ……」
胸の奥が、嫌な予感でざわついていた。
国家の最高権力者である王妃が、自分の不正を嗅ぎ回る役人をただ放置しておくはずがない。
その予感は、最悪の形で現実のものとなった。
「ミオラ様! 大変でございます!」
昼下がり、公爵邸の家令が血相を変えて執務室に駆け込んできた。
その手には、宰相府の印章が押された一枚の通達書が握られている。
「どうしましたの?」
「宰相府より、緊急の通達です。……カナト・エルゼン補佐官が、本日付けで宰相府を『罷免』されたとのことです!」
「……なんですって?」
私は手から羽ペンを取り落とした。
「表向きの理由は、先の貴族院裁判において、特級保管庫から無断で書類を持ち出した職務違反とされています。ですが、実態は……」
「王妃様が、圧力をかけたのね」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
貴族院裁判での書類持ち出しは、確かに越権行為だった。だが、あの場では宰相府の権限として黙認されていたはずだ。それを今になって持ち出し、即日罷免という強硬手段に出たのは、カナト様が王妃自身の不正に直接踏み込もうとしたからに他ならない。
宰相府も、王妃の怒りを買ってまで一介の補佐官を守ることはできず、トカゲの尻尾切りのように彼を切り捨てたのだ。
「彼は……カナト様は今、どこに?」
「それが、宰相府からそのまま姿を消されたようで、行方が……」
心臓が早鐘のように打った。
まさか、罷免されただけでなく、口封じのために拘束されたのではないか。
私が彼を、この危険な戦いに引き込んでしまったから。私が「本当の味方だけを選ぶ」などと宣い、彼の実務能力に頼り切っていたから。
「探して。すぐに、彼を探し出して!」
私が立ち上がり、家令に命じようとした、その時だった。
「その必要はありません」
開け放たれた執務室の扉に、見慣れた姿があった。
黒に近い青髪に、感情の読めない灰色の瞳。
仕立ての良い地味な礼服を着たカナト様が、そこに立っていた。
いつも小脇に抱えていた宰相府の膨大な書類の束はなく、代わりに私物の入った小ぶりな鞄を一つだけ提げている。
「カナト様……!」
私は弾かれたように駆け寄った。
彼の姿を見た安堵と、彼からすべてを奪ってしまったという強烈な自責の念が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「無事だったのですね……。ですが、宰相府から罷免されたと……」
「ええ。王妃の私的財産の流れを探っていたところ、宰相から直接の呼び出しを受けました。『これ以上、王家の聖域に踏み込むなら、命の保証はない』と。即刻、補佐官のバッジを没収されました」
カナト様は淡々と、まるで他人のことのように報告した。
「私のせいです……」
私はギュッと両手を握りしめ、深く頭を下げた。
「私があなたを巻き込んだせいで、あなたの職が、積み上げてきた地位が……。あなたは私を守るために、ご自分のすべてを失ってしまった。……申し訳ありません」
私は、愛の言葉を囁く男たちを軽蔑してきた。
だからこそ、行動で示してくれたカナト様だけを信頼した。
しかし、その結果がこれだ。私の正義を通すために、彼に一方的な犠牲を強いてしまった。これでは、私を利用しようとする王妃や貴族たちと何ら変わりないではないか。
私の手が微かに震える。
だが、そんな私の手の上に、黒い手袋をしたカナト様の手が、そっと重ねられた。
「ミオラ様。顔を上げてください」
静かで、深く響く声。
私がゆっくりと顔を上げると、カナト様は灰色の瞳で私を真っ直ぐに見据えていた。
「私の判断を、あなたの罪にしないでください」
「え……」
「私はあなたに強要されたわけでも、同情したわけでもありません。私自身の意志で、事実を隠蔽しようとする組織を見限り、真実を明らかにする道を選んだ。それだけです」
カナト様は、重ねた手を離し、姿勢を正した。
「職を失っただけです。判断は失っていません」
その言葉は、甘い愛の囁きなどよりもずっと、深く私の心に突き刺さった。
地位や権力という後ろ盾を失っても、彼は少しも揺らいでいない。
彼が武器としているのは宰相府という肩書きではなく、彼自身の中にある「証拠と事実を重んじる」という確固たる信念なのだ。
「カナト様……」
「それに、ただ黙って追い出されるほど、私は行儀の良い役人ではありません」
カナト様はふっと、わずかに、本当にわずかにだが口角を上げた。
そして、持参していた私物の鞄を開け、中から厳重に封印された一枚の書類を取り出した。
「罷免を言い渡される直前、王妃の特秘文書の保管庫から、これだけは持ち出しておきました」
「これは……?」
「王妃イザナ様の直筆署名と、王家の封蝋が押された『密命書』です」
カナト様がテーブルに置いたその書類を見て、私は息を呑んだ。
「神殿のセザン大神官に宛てたものです。孤児院の横領と人身売買の事実を王家が『把握している』と明記した上で、その利益の三割を王妃の裏口座へ納めることを条件に、不正を黙認し、保護を与えるという内容が記されています」
「王妃様が、神殿の腐敗を知りながら……いえ、自ら共犯となって私腹を肥やしていた証拠……!」
「ええ。この一枚があれば、王妃がただの『国の安定を願う支配者』ではなく、自ら法を犯す犯罪者であることを立証できます」
カナト様は、もはや宰相府の補佐官ではない。
地位を持たないただの一人の青年として、それでもなお、最強の実務という剣を携えて私の隣に立っている。
「証拠は、揃いました」
カナト様は灰色の瞳に、冷たい炎を宿して言った。
明日は、建国記念の式典。王妃が私とレオルド殿下の婚約を強行する舞台。
「これで、王妃の檻を内側から食い破ることができますわね」
私は彼の提示した『政治的爆弾』を手に取り、決意に満ちた笑みを浮かべた。
失うものは何もない。
私たちは、世界で一番確かな「証拠」を武器に、反逆の狼煙を上げる。




