第27話 国を買えても、私の選択は買えません
建国記念の式典を明日に控え、王都ルネリアはかつてないほどの物々しい空気に包まれていた。
「砂海帝国サフィールより、特使が到着しました」
公爵邸の執務室で、カナト様が持ち込んできた報告は、私たちの包囲網がさらに一段狭まったことを意味していた。
砂海帝国サフィール。ルネリア王国の隣に位置し、広大な領土と強大な軍事力を誇る大国だ。
「神殿と貴族院の不正が立て続けに暴露されたことで、ルネリアの国力が一時的に低下しているのは他国から見ても明らかです。帝国は、その隙を突いて外交的な圧力をかけるために特使を送り込んできたのでしょう」
カナト様が広げた外交資料には、帝国の要求とルネリア側の対応が記されていた。
「問題は、王妃イザナ様がこの状況を利用したことです。王妃は『帝国に王国の揺らぎを悟らせないため、そして強固な結束を示すために、王太子と月の姫の婚約発表が急務である』と主張し、式典での発表を国家の最重要課題として正当化しました」
「……なるほど。帝国の圧力を、私を縛り付けるための完璧な口実にしたというわけですか」
私は小さくため息をついた。
神殿の残党だけでなく、隣国の脅威すらも自身の盤面操作の駒として使う。王妃の政治的手腕には、もはや感嘆すら覚える。
「ミオラ様、お客様がお見えです。……砂海帝国の特使様だと名乗られております」
家令の震える声に、私とカナト様は視線を交わした。
噂をすれば、なんとやらだ。
「お通しして」
執務室に現れたのは、豪奢な異国の絹を纏い、褐色の肌に鋭い金色の瞳を持った長身の青年だった。
彼の身のこなしには隙がなく、王国の貴族たちのような虚飾に満ちた愛想笑いもない。ただ、獲物を値踏みするような冷徹な眼差しだけがあった。
「突然の訪問を許していただきたい、月の姫。私は砂海帝国の特使、ライハ・サフィール。王宮の退屈な歓迎行事を抜け出して、あなたの顔を見に来た」
ライハ特使はそう言うと、私の正面のソファに悠然と腰を下ろした。
「ご丁寧なご挨拶、恐れ入ります。ですが、帝国の特使様が、私のような一介の令嬢に何の御用でしょうか」
「一介の令嬢、とはご謙遜を。あの貴族院の裁判記録、我が国の密偵から読ませてもらったが……実に見事な手際だった。腐敗した権力を証拠と論理で切り捨てるその知性、我が帝国でも大いに評価されている」
ライハ特使は楽しげに目を細めた。
「だが、このままではあなたは王妃に潰される。明日の式典で婚約を強制されれば、あなたは王家の美しい飾りに成り下がる。神殿の残党も王妃に付き、あなたの逃げ場はどこにもない」
彼の言葉は、カナト様が分析した状況と完全に一致していた。
外部の人間だからこそ、この王国の歪な構造と、私の置かれた絶望的な立場を正確に把握しているのだ。
「そこで、私から一つ提案がある」
ライハ特使は身を乗り出し、甘く、そして蠱惑的な声を響かせた。
「私と共に、帝国へ来ないか」
「……帝国へ?」
「ああ。あなたが望むなら、特使としての私の権限で、あなたを我が国へ亡命させよう。我が帝国は実力主義だ。あなたほどの美貌と知性があれば、政治的に完全な自由と、高い地位を保証する。窮屈な檻の中で王家の所有物になるくらいなら、私の国であなたのその才能を存分に振るってはどうだ?」
それは、現状を打開するための「完璧な逃げ道」だった。
帝国という強大な後ろ盾を得れば、王妃も容易には手を出せない。私は自由になり、これ以上命を狙われることもなくなる。
今までの求婚者たちのような「僕が君を守るよ」という無責任な言葉ではない。国家権力を背景にした、極めて現実的で実務的な取引の提示だ。
だが、私の目の奥で『月鏡』がわずかに瞬いた。
彼の周囲に、薄い灰色の染みが漂っている。
彼の言葉に嘘はない。だが、彼の目的は私を「救う」ことではなく、私の能力を帝国の国益のために「利用する」ことなのだ。
私は、隣で静かに控えているカナト様を一瞥した。
彼は何も言わない。私がどう決断するのか、ただ黙って私の意思を尊重しようとしている。
私は視線をライハ特使に戻し、静かに、だがはっきりと告げた。
「……魅力的なご提案ですが、お断りいたしますわ」
「ほう。なぜだ? ここに残れば、あなたは自由を失うのだぞ」
ライハ特使が意外そうに眉を上げる。
私は背筋を伸ばし、彼を真っ直ぐに見据えた。
「確かに、帝国へ行けば私は政治的に自由になれるかもしれません。ですが、それは私一人の安全を買うというだけの話です。……私がここで逃げれば、保護院の子どもたちはどうなりますか? 声を奪われた聖女候補は? 私のために記録を取り続けてくれる侍女は? そして、私の正しさを証明するために職を賭してくれたこの方は?」
私は、傍らのカナト様を手で示した。
ライハ特使の金色の瞳が、微かに見開かれる。
「特使様。あなたは私に『自由を与える』と仰いました。ですが、守ると言いながら、今私が守るべき人々を見捨てさせ、私の選択の自由を奪うのなら……あなたも、私を所有物として檻に入れようとするこの国と同じですわ」
「……」
「逃げることと、救うことは違います。国を買えるほどの力があっても、私の選択は買えません。私は私の足で、この国で証拠を積み上げます」
私の決然とした言葉に、執務室は深い沈黙に包まれた。
ライハ特使はしばらく私の目を見つめ返していたが、やがてフッと息を吐き、静かに立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの値踏みするような色はなく、純粋な敬意が浮かんでいた。
「……見事だ。ただの美しい姫君かと思っていたが、これほどまでの覚悟を持っているとは。帝国が欲しがるのも頷ける。……もっとも、我が国がこの国に求めるものは、あなただけではないがな。月神殿が生み出す『力』も、昔から我らの垂涎の的だ」
彼は私に向かって、帝国式の深い礼をとった。
「あなたの意思は尊重しよう。だが、ルネリアの王妃は手強いぞ。丸腰で勝てる相手ではない」
「ご忠告、感謝いたしますわ」
「……ならば帝国は、別の形で関与させてもらうとしよう」
ライハ特使は、意味深な言葉を口にした。
「あなたのその覚悟への、私なりの敬意だ。明日の式典、王妃の足元がどう崩れるか、見物させてもらう」
彼はそれだけを言い残し、足早に執務室を去っていった。
残された私とカナト様は、静かに視線を交わした。
「別の形の関与、ですか」
「特使が残した言葉……王妃の不正を裏付ける『外交文書』と繋がるかもしれませんね」
カナト様が手元の書類をトントンと揃え、灰色の瞳に冷たい闘志を宿した。
明日は、ついに建国記念の式典。
王妃が用意した最大の檻を、私たちが完全に破壊する日だ。




