第26話 王太子殿下、今度こそ選んでください
建国記念の式典まで、あと二日。
公爵邸に届けられたのは、王家が特別に仕立てさせたという純白のドレスだった。
「見事な絹と月光石の刺繍ですね。これを着て微笑めば、誰もが『国を救った月の姫と、美しき王太子の完璧な結びつき』を疑わないでしょう」
カナト様が、トルソーに飾られたドレスを冷ややかな灰色の瞳で見つめながら言った。
それは祝福の衣装ではない。私を王家の都合の良い飾りにするための、美しく頑丈な拘束具だった。
「ええ。王妃様は、民衆の熱狂という波を乗りこなすのが本当にお上手ですわ。私が神殿や貴族院の腐敗を暴いたことで生まれた『正義の姫』という熱狂を、王家に取り込むことで体制の安定を図る。……反吐が出ますわ」
私が冷たく吐き捨てると、カナト様は書類の束から視線を上げずに頷いた。
「式典で異議を申し立てるための政治的爆弾……王妃の不正を裏付ける決定的な証拠の収集は、私が宰相府の権限の網の目を縫って進めています。ですが、一つ懸念があります」
「懸念、ですか?」
「王太子、レオルド殿下です」
カナト様の言葉に、私はわずかに目を伏せた。
「殿下は、王妃の強行的な手口に心を痛めながらも、最終的には『王国の安定』を理由にそれを受け入れています。式典の場であなたが王妃を告発すれば、殿下は王太子として、あなたを抑え込まざるを得なくなる。彼をどうするおつもりですか」
「……」
レオルド殿下は、善人だ。
権力に溺れるガーラン子爵やセザン大神官とは違う。彼は本気で民を思い、そして私のことも好ましく思ってくれている。
ただ、彼の正義は「王国の枠組み」を守るという大前提の上にしか成り立っていない。だからこそ、一番弱い者が切り捨てられる現実に目をつぶってしまう。
「私が直接、問いただします」
私は静かに告げた。
「式典の前に、彼自身に選ばせなければなりません。私を縛り付ける王国の歯車のままでいるのか、それとも……」
*
その日の午後。
私はレオルド殿下を、公爵邸の庭園に面した私室へと招いた。
「ミオラ嬢。急な呼び出しだったが、顔を見られて嬉しいよ」
現れた殿下は、少しやつれた顔に無理に微笑みを浮かべていた。
王妃の強引な婚約発表の後ろめたさが、彼の中に重くのしかかっているのが痛いほど伝わってくる。
「母上のやり方は、確かに強引だったと思う。君が怒るのも無理はない。だが、信じてほしい」
殿下は私の向かいのソファに座り、縋るような青い瞳で私を見つめた。
「君をこれ以上、危険な真似はさせたくないんだ。神殿や貴族院を敵に回した君を、最も安全に守れる場所は王家しかない。王太子妃となれば、誰も君に手出しはできない。君の求める正義も、王家の中から、少しずつ時間をかけて実現していけばいい」
「……時間をかけて、ですか」
「ああ。国を変えるには順序がある。波風を立てず、穏便に。……私は君を愛している。世界中が敵になっても、私は君の味方だ。だから、どうか私の庇護下に入ってくれ」
愛と、庇護と、穏便な改革。
それが、彼が提示できる最大限の誠意なのだろう。
あの夜会でこの言葉を聞いていれば、あるいは絆された令嬢もいたかもしれない。
だが、私は冷え切った目で彼を見据えた。
「レオルド殿下。一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「何だい?」
「あなたは、私を守りたいのですか。……それとも、私を使って、王国を守りたいのですか」
私の静かな、しかし鋭い刃のような問いかけに、殿下は息を呑んで固まった。
「何を……言っているんだ。私は君を……」
「お分かりのはずです。今の王家は、神殿と貴族院の不正が明るみに出たことで、民衆からの不満の矛先が自分たちに向くことを恐れている。だから、民衆から英雄のように持て囃されている私を王家に組み込み、不満を逸らすための『盾』にしようとしている」
「ちが……っ」
「違わないはずです。私が王家に入れば、私は二度と王国の腐敗を暴くことはできなくなる。王家の威信を傷つけるような告発は、王太子妃という立場が許さないからです。……つまり、殿下の仰る『安全な庇護』とは、私から声を奪い、無害な飾りにすることと同義です」
殿下の顔から、サッと血の気が引いていく。
青い瞳が激しく揺れ、彼はギリッと唇を噛み締めた。
「私は……そんなつもりじゃ……っ」
「殿下は善人です。ですが、あなたのその『誰も傷つけたくない』という甘い優しさが、結果として一番残酷な檻を作っていることに気づいてください。あなたは私を愛していると言いながら、私が命を懸けて守ろうとした正義を、王国の安定という名目で握り潰そうとしているのです」
完全に逃げ場のない正論。
言い訳の余地すら与えない徹底的な追及。
普通の男なら、ここで逆上して怒鳴り散らすか、あるいは「君のためを思って言っているのに!」と責任を転嫁して逃げ出すだろう。
しかし。
「……っ、ああ……」
殿下は、逃げなかった。
顔を両手で覆い、ソファに深く沈み込み、震える声で呻いた。
「君の言う通りだ……私は、君を盾にしようとしている。母上のやり方が間違っていると分かりながら、王国が荒れるのを恐れて、君の自由を犠牲にして国をまとめようとしている……。自分が、どれほど卑怯なことをしているか……分かっているのに……っ」
彼は自分の弱さと偽善から目を逸らさず、真っ向から打ちのめされて苦しんでいた。
王太子として刷り込まれてきた「国を守る」という絶対の義務と、一人の人間としての「ミオラを尊重したい」という想い。
その板挟みになって、彼は血を流すように葛藤している。
「殿下」
私は立ち上がり、彼を冷たく見下ろした。
「婚約式は明後日です。私が王家の飾りに成り下がることは、絶対にありません。私が動いた時、あなたがどちら側に立つのか。……今度こそ、ご自身で選んでください」
私はそれだけを言い残し、背を向けて部屋を出た。
*
「……王太子殿下は、お帰りになりましたか」
別の執務室に戻ると、カナト様が書類の山から顔を上げた。
「ええ。徹底的に追い込んで差し上げましたわ」
「彼を切り捨てるのではなく、あえて選択を迫ったのですね。残酷なことをする」
カナト様はそう言いながらも、どこかレオルド殿下のことを評価しているようにも見えた。
逃げずに己の罪に向き合って苦しむことができるのなら、彼はまだ、本当の王になるための余地が残されている。
「それで、カナト様。政治的爆弾の準備はいかがですか?」
私が話題を切り替えると、カナト様の灰色の瞳が、スッと冷たい光を帯びた。
「王妃を直接叩くための外交文書の確保に動いていますが、その前に……これを見てください」
カナト様がテーブルの上に滑らせたのは、金色の縁取りがされた分厚い名簿だった。
「明後日の婚約式の、招待客名簿の写しです」
「招待客……?」
私は名簿を手に取り、パラパラとページをめくった。
大貴族や各国の特使、騎士団の幹部など、名だたる権力者たちの名前が連なっている。
だが、ある特定のページで、私の手はピタリと止まった。
「……どういうことですか、これは」
「ええ。王妃の狙いは、単なる『王国の安定』だけではないようです」
私が目を疑ったその欄には。
セザン大神官の失脚後、不正に関与した疑いで謹慎処分を受けていたはずの、月神殿の『残党』たる高位神官たちの名前が、ずらりと並んで記載されていたのだ。
「なぜ、神殿の腐敗派の残党たちが、王家主催の婚約式に主賓扱いで招かれているのです?」
私が声を震わせて問うと、カナト様は無表情のまま、背筋の凍るような事実を告げた。
「王妃イザナ様は、神殿の残党と裏で手を結んだのでしょう。神殿の権威を回復させる見返りに、彼らの持つ資金力と裏のネットワークを王家の完全な支配下に置く。そして……神殿の不正を暴き、民衆の支持を集めるあなたを、式典の場で神殿の残党たちと共に『危険分子』として完全に孤立させ、逃げ場をなくすつもりです」
王国の宝として取り込むだけでなく、水面下で腐敗勢力と結託し、私の牙を完全に抜くための完璧な包囲網。
「……やはり、王妃様は最大の敵ですわね」
私は招待客名簿をテーブルに叩きつけ、冷たく笑った。
望むところだ。
檻に閉じ込められるくらいなら、その檻ごと、この腐った王国を叩き壊してやる。




