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第24話 月の姫は、倒れても黙らない

視界を埋め尽くすほどの、どす黒いインクの濁流。

法廷にいるほぼすべての人間が抱える「嘘」と「保身」の矛盾が、私の『月鏡』の許容量を完全に突破させ、脳天を焼くような激痛を引き起こした。


「ああ……っ!」


立っていられず、冷たい大理石の床へと崩れ落ちそうになった私の体を、黒い手袋をした両手がしっかりと抱き留めた。


「ミオラ様、目を閉じてください。もう、見なくていい」


カナト様だった。

彼は私をそっと被告人席の椅子に座らせると、痛みに顔を歪める私の目元を、その手で静かに覆い隠した。


「……カナト、様。だめです、まだ、裁判長が……彼らの嘘を、暴かなければ……」


私は震える手で彼の手首を掴み、立ち上がろうとした。

ここで私が倒れれば、貴族院は強引に裁判を打ち切り、すべての証拠を握り潰してしまう。孤児たちは再び暗い鉱山へ送られ、アスカル様や下級騎士たちも反逆者として処刑されてしまう。


私がやらなければ。

私が、この能力で彼らの矛盾を暴き、証拠と結びつけなければ。


しかし、カナト様は私を制止し、静かに、けれど揺るぎない声で告げた。


「月鏡を使わないでください」


「……え?」


「あなたの目がなくても、証拠は残っています。あなたが這いつくばって集めたものは、もう私が読めます。だから……今度は、私が読みます」


その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

彼は私の「月の姫」としての異能など、最初から当てにしていなかった。彼が信じているのは、私が泥に塗れながら集め、ナナが必死に書き留め、そして彼と共に夜を徹して読み合わせた「記録」そのものなのだ。


能力抜きで、私という人間の歩んできた軌跡を、誰よりも信じてくれている。

その事実が、痛みに苛まれていた私の心を、温かく、力強く包み込んだ。


「……はい。お任せ、いたします」


私が力を抜いて目を閉じると、カナト様は静かに立ち上がり、再び裁判長と貴族たちに向き直った。


「裁判長。被告人は体調不良につき、これより特別補佐人である私がすべての反証と告発を引き継ぎます」


「ふ、ふざけるな! 被告人が倒れたのなら、本裁判はこれにて閉廷――」


「閉廷はさせません。……アスカル団長」


カナト様が視線を向けると、証言台に立つアスカル様が、抜き放った聖剣を床に突き立てたまま、鋭い眼光で裁判長を睨み据えた。その背後では、下級騎士たちが法廷の出入り口を完全に封鎖している。


「我々聖騎士団は、この神聖なる法廷が『真実』を明らかにするまで、何人たりとも外へは逃がさん」


物理的な武力による、退路の遮断。

裁判長も貴族たちも、完全に顔面蒼白となっていた。


「では、続けましょうか」


カナト様は、鞄の底から最後の、そして最大の証拠を取り出した。

それは、エリシア様から提供された、ヴェルカ侯爵家の裏帳簿だった。


「これは、貴族院の重鎮であるヴェルカ侯爵の私的な裏帳簿です。この中には、神殿から流れてきた人身売買の利益を、どの貴族がどれだけ受け取り、その対価として騎士団上層部へいくらの賄賂を渡したか……そのすべての『大元の金の流れ』が、日付と署名付きで記録されています」


「なっ……! なぜ、お前がそれを……!」


傍聴席にいた貴族の一人が、思わず悲鳴のような声を上げた。


「もちろん、この帳簿の暗号化された記述は、すでに宰相府の専門官によって完全に解読済みです。……ガーラン子爵の違法な奴隷契約を承認した見返りとして、王宮書記官には金貨三百枚、騎士団総監には金貨千枚が支払われている。あなた方は、孤児の命を金貨に換算し、組織の維持費として山分けしていたのです」


カナト様の無機質で冷徹な声が、法廷に死刑宣告のように響き渡る。


「これらの記録と、先ほどアスカル団長が提出した騎士団内部の受領記録は、完全に一致します。もはや、名誉毀損などという言い逃れは通用しない。あなた方貴族院と騎士団上層部は、国家反逆にも等しい大規模な組織犯罪に手を染めていたのです」


言い逃れのできない、完璧な証拠の連鎖。

カナト様は、私の「月鏡」の力など一切使わず、純粋な法務の実務能力だけで、腐敗した権力者たちを完全に論破してみせた。


「……ぐっ、あああぁっ……!」


裁判長は木槌を取り落とし、頭を抱えて崩れ落ちた。

傍聴席の貴族たちも、ある者は逃げ出そうとして騎士たちに阻まれ、ある者は絶望してその場にへたり込んでいる。


こうして、私を裁くはずだった「月の姫裁判」は、貴族院と騎士団上層部の不正を白日に晒す、彼ら自身の処刑台へと変わったのだった。



数日後。

裁判の結果を受けて、王都は大きく揺れ動いていた。


ガーラン子爵をはじめとする悪徳貴族たちは一斉に拘束され、彼らが結んでいた違法な雇用契約はすべて無効となった。

鉱山で過酷な労働を強いられていた子どもたちは無事に解放され、私たちが設立した一時保護院へと迎え入れられた。ナナとユイナが、泣きながら彼らを抱きしめていた光景は、私の胸に深く焼き付いている。


一方、法廷で真実を告発したアスカル様の処分も下された。


「聖騎士団長職の、一時停止ですか」


公爵邸の執務室を訪れたアスカル様に、私は静かに問いかけた。


「ええ。上官の命令に背き、法廷を武力で封鎖したのですから、当然の報いです。最悪、騎士団からの追放も覚悟していましたが、下級騎士たちが一斉に減刑の嘆願書を提出してくれましてね」


アスカル様は、団長の証であるマントを外した身軽な服装で、しかし晴れやかな笑顔を浮かべていた。


「それに、街を歩けば、民衆たちが私に声をかけてくれるのです。『よくぞ子どもたちを助けてくれた、我々の本当の騎士だ』と。……不思議なものですね。組織の面子を守っていた頃は誰も私を見ていなかったのに、地位を失った今の方が、よほど誇り高く剣を握れる気がします」


彼はもう、迷える青年ではなかった。

自らの正義を自らの意思で選び取った、本物の騎士の顔をしていた。


「アスカル様。あなたは、立派に弱き者を守り抜きましたわ」

「ミオラ様のおかげです。あなたが、私の目を覚まさせてくれた」


アスカル様は深く一礼し、清々しい足取りで帰っていった。

これで、神殿に続き、貴族院と騎士団の腐敗も一部を剥がし取ることができた。

王国の空気は、確実に変わりつつある。


「……終わりましたわね、カナト様」


執務机で書類を整理しているカナト様に声をかけると、彼は手を止めずに答えた。


「いいえ。一番厄介な敵が、まだ残っています」


その時だった。

執務室の扉がノックされ、家令が青ざめた顔で入ってきた。


「ミオラ様……! 王宮より、特使が参りました。王妃イザナ様からの、直接の勅命です!」


「王妃様から……?」


私はカナト様と視線を交わし、手渡された豪奢な封書を受け取った。

そこには、王家の紋章が深く刻まれている。

嫌な予感を覚えながら封を切り、中の書状に目を通した私の指先が、微かに冷たくなった。


「ミオラ様。何と?」


カナト様の問いに、私は感情を押し殺して答えた。


「……三日後の建国記念の式典にて。私、ミオラ・ルナシアと、レオルド王太子殿下の『婚約』を、王家として正式に発表するそうですわ」


「……本人不在のまま、強制的にですか」


カナト様の灰色の瞳が、氷のように冷たく細められた。


神殿と貴族院が崩れかけた今、王国の実権を握る王妃イザナは、私という「月の姫」の人気と影響力を王家に取り込み、強引に国の安定を図ろうとしているのだ。

証拠や理屈ではない。国家の最高権力そのものが、私を「便利な所有物」として檻に閉じ込めようと動き出した。


「宝に意思は要らない、ということでしょうね」


私は書状をテーブルに置き、冷たく光る月光石の空を見上げた。

腐った王国の、本当の深部。

私たちが最後に立ち向かうべき最大の敵が、ついにその牙を剥いたのだ。

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