第19話 侯爵令嬢エリシアは、切り捨てられた
聖騎士団上層部の署名が入った、違法な奴隷契約書。
その恐るべき事実が判明した翌日。公爵邸の執務室は、これまで以上に重苦しい空気に包まれていた。
「……騎士団上層部が貴族院の違法契約を黙認し、その見返りとして賄賂を受け取っている。そう考えるのが自然ですね」
長机に広げた契約書を見下ろしながら、カナト様が淡々と推測を述べた。
彼の手元には、昨日アスカル様が叩き出したガーラン子爵に関する宰相府の調査資料が積まれている。
「ですがカナト様、この一枚の契約書だけで、強大な権力を持つ貴族院全体と騎士団上層部を告発することは可能なのでしょうか?」
「不可能です」
カナト様は即答した。
「彼らは『下請けの騎士が勝手にやったことだ』とトカゲの尻尾切りをするでしょう。確実な勝利を得るには、ガーラン子爵のような末端ではなく、貴族院の重鎮たちが直接不正な金を動かしているという『大元の金の流れ』を証明する必要があります」
大元の金の流れ。
それを掴むための決定的な証拠が足りない。私たちが次の一手を思案していた、その時だった。
「お嬢様! お客様がお見えです!」
ナナが、少し引き攣った顔で執務室に駆け込んできた。
「どなた?」
「そ、それが……ヴェルカ侯爵令嬢の、エリシア様です」
「え……?」
私は思わずカナト様と顔を見合わせた。
あの夜会で、ナナに宝石泥棒の濡れ衣を着せようとした悪役令嬢。あの日、彼女は父親である侯爵に庇われ、逃げるように広間を去っていったはずだ。
「……お通しして」
数分後、執務室に現れたエリシア様の姿を見て、私は絶句した。
かつて王太子妃候補として社交界で我が物顔に振る舞い、最高級のドレスと宝石で着飾っていた彼女の面影は、そこには微塵もなかった。
髪は乱れ、目元には濃い隈ができている。着ているドレスも、侯爵令嬢とは思えない地味で安っぽいものだった。
何より、その瞳からかつての傲慢な光が消え失せ、代わりに深い絶望と焦燥が張り付いていた。
「……何の用ですか、エリシア様」
私が警戒しつつ冷たく問いかけると、彼女はふらふらとした足取りで進み出た。
そして、あろうことか、私の前で膝から崩れ落ちるように床に座り込んだのだ。
「助けて……ミオラ様。私を、匿ってちょうだい……っ!」
プライドの塊だった彼女の口から出た懇願に、私は眉をひそめた。
「助けて、とは? あなたはあの日、お父様であるヴェルカ侯爵に守られて帰ったのではありませんか?」
「守られただなんて、とんでもないわ……!」
エリシア様は床を強く叩き、ギリッと唇を噛み締めた。
「お父様は、私を切り捨てたのよ! あの夜会での失態のせいで、ヴェルカ侯爵家は社交界の笑い者になったわ。お父様は『役に立たない欠陥品め』と私を罵り、辺境に住む六十歳を越えた好色な伯爵の後妻として、私を今日、無理やり馬車に乗せようとしたのよ……!」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら、震える両手で自分の肩を抱いた。
「侯爵家と貴族院の繋がりを強固にするための、ただの『賄賂』として! 私は……私は、お父様に愛されていると、ヴェルカ侯爵家の誇り高き娘だと思っていたのに! 私なんて、ただの政治の道具だったのよ……っ!」
彼女の悲痛な叫びが、執務室に響く。
私は、彼女を哀れだとは微塵も思わなかった。
彼女がナナにしたことは、決して許されることではない。自分の虚栄心のために、身分の低い使用人を平気で踏み躙ったのだから。
だが同時に、この国における「貴族令嬢」という存在の残酷な真実を、嫌というほど見せつけられた気がした。
孤児たちが鉱山の労働力として売られるように。
貴族の娘もまた、血筋と婚姻で家と家を繋ぐための「所有物」として扱われている。
この腐った王国の構造の中では、彼女もまた、巨大な歯車の一つに過ぎなかったのだ。
「……それで、私に助けを求めに来たと?」
私の氷のように冷たい声に、エリシア様はビクッと肩を震わせた。
「ミオラ様、お願い……! あんな辺境の好色爺のところになんて行きたくない! あなたの権力で、私を侯爵家から匿って……!」
「お断りしますわ」
私は一切の躊躇なく言い放った。
エリシア様が絶望に目を見開く。背後に控えていたナナも、少し驚いたように息を呑んだ。
「あなたが父親に道具として扱われ、傷ついたことには同情します。ですが、だからといって、あなたがナナを道具のように扱い、人生を壊そうとした罪が消えるわけではありません。私は、あなたを友人として助けるつもりなど、毛頭ありませんわ」
エリシア様は顔を歪め、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
自分のしたことの報いが、今になって自分に返ってきたのだと理解したのだろう。
しかし、私が本当に言いたかったのは、ここからだ。
「ですが」
私が言葉を続けると、エリシア様は縋るように顔を上げた。
「あなたが、自分の罪と侯爵家の罪を公の場で証言するというのなら。私はあなたを『証人』として、宰相府の権限で保護いたします」
「……証人に?」
「ええ。あなたは身をもって知ったはずです。この国で、権力を持たない者がどれほど理不尽に切り捨てられるかを。あなたがただ泣き寝入りして辺境へ売られるか、それとも自分を道具として扱った家と決別し、一人の人間として立ち上がるか。……選びなさい」
私の言葉に、エリシア様は呆然とした。
彼女の中で、侯爵令嬢としてのちっぽけなプライドと、人間としての意地が激しく葛藤しているのが分かった。
やがて、彼女は袖口で乱暴に涙を拭うと、真っ赤になった目で私を、そしてカナト様を睨み据えた。
「……いいわ。証言する。お父様のことも、貴族院の連中が裏でこそこそとやっていた汚い取引のことも、私が知っていることは全部話してやるわ!」
完全な改心などではない。ただの復讐心と、自分を捨てた家への意地だ。
だが、それで十分だった。
「エリシア・ヴェルカ様」
それまで静観していたカナト様が、一歩前に出た。
「宰相府監査官代理として、あなたの証人保護の要請を受理します。ですが、貴族院の重鎮である侯爵を告発するには、あなたの口頭での証言だけでは証拠として弱すぎる。何か、彼らを決定的に追い詰める『物証』はありませんか?」
カナト様の無慈悲で実務的な要求。
それに答えるように、エリシア様は不敵な、それでいてどこか自嘲めいた笑みを浮かべた。
「あるわよ。お父様が私を『馬鹿な娘だ』と見くびって、隠し場所を油断していたものが」
彼女はゆっくりと立ち上がり、私たちを見据えて言った。
「貴族院と神殿、そして騎士団の汚い金の流れがすべて記録された……『侯爵家の裏帳簿』の隠し場所を、私が教えてあげるわ」




