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第18話 聖騎士団長、剣を抜けない

「この子どもを使い捨ての道具にする違法契約を、公式なものとして承認し、署名を与えていたのは――『聖騎士団』の上層部です」


カナト様が突きつけたその事実は、一時保護院の中庭に重苦しい沈黙を落とした。

ガーラン子爵は、醜い笑みをもったっぷりと深めた。


「いかにも! 王国の正義の象徴たる聖騎士団が、この雇用契約を適法と認めたのだ。宰相府の小役人ごときが何を言おうと無駄だ。これを否定すれば、貴様らは聖騎士団の威信に泥を塗る国家の反逆者となるぞ!」


子爵の背後に控える私兵たちも、勝ち誇ったように武器の柄に手をかけた。

幼い兄妹は怯えきり、ナナとユイナの背中にしがみついている。


「……その契約書を、見せてみろ」


不意に、低く押し殺したような声が響いた。

保護院の入口から、白銀の甲冑を纏った長身の青年が歩み出てくる。

王国の聖騎士団長、アスカル・ヴェイン様だった。彼はこの保護院の警護を自ら買って出てくれていたのだ。


「おお、これは聖騎士団長殿! ちょうど良いところへ来られた」


ガーラン子爵はアスカル様の姿を認めると、さらに調子づいた。


「この不届き者どもが、騎士団の署名が入った正式な契約書を『偽造の奴隷契約』などと愚弄しているのですよ。さあ、騎士団長として、彼らに組織の威信と王国の秩序を示していただきたい。その孤児を引き渡すよう命じてください」


アスカル様は子爵を無視し、無言のままカナト様の手から羊皮紙を受け取った。

その琥珀色の瞳が、契約書の末尾に記された署名と封蝋をなぞる。

そして、彼の屈強な体が、わずかに震えた。


「……間違いない。これは、騎士団総監の直筆署名だ」


絞り出すようなアスカル様の声に、ガーラン子爵は「当然だ!」と高笑いした。

だが、アスカル様の顔に浮かんでいたのは、絶望と深い苦悩だった。


「アスカル様。これは明白な違法契約です。労働条件は白紙で、期限もない。子どもを鉱山の奴隷にするための書類です」


私が静かに事実を告げると、彼は羊皮紙を握りしめたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「分かっている、ミオラ様……。だが、これが総監の署名である以上、これを『不正』と断じれば、聖騎士団という組織の根幹が揺らぐことになる。民衆の信頼は地に堕ち、騎士団は機能しなくなる……っ!」


彼は、神殿の時と同じ壁にぶつかっていた。

個人的な正義感と、組織の面子。

聖騎士団長という立場が、彼の剣を鞘に縫い留めてしまうのだ。


「なんと立派な心がけか。その通りだ、団長殿」


ガーラン子爵が、アスカル様の肩をぽんと叩いた。


「組織の面子を守るのが、上に立つ者の役目だろう。たかが孤児一人を引き渡すだけで、すべては丸く収まる。騎士団の清廉潔白なイメージも守られるのだ。さあ、早くその子どもを寄越せ」


子爵の私兵たちが、強引にナナたちを退けようと一歩踏み出した。

子どもたちの小さな悲鳴が上がる。


しかし、アスカル様は動けない。

剣の柄に手をかけてはいるものの、その手は小刻みに震え、彼自身の良心と組織への忠誠心との間で激しく引き裂かれていた。


(また……同じことを繰り返すの?)


神殿の裏手で、白い馬車に押し込まれる子どもを前にして、命令系統を理由に立ち尽くした彼。あの時と同じように、彼はまた「秩序」という言葉に縛られ、目の前の弱者を見殺しにしようとしている。


私は、ゆっくりとアスカル様の前に歩み出た。

彼を責めるためではない。ただ、彼自身に決断させるために。


「アスカル様」


私の真っ直ぐな声に、彼が弾かれたように顔を上げた。


「あなたのその剣は、一体誰の沈黙を守るためにあるのですか?」


「え……」


「組織の面子ですか? 腐敗した上層部の保身ですか? それとも、この理不尽な契約に縛られ、声を上げることすら許されない子どもたちの沈黙ですか?」


私の言葉が、彼の中の何かを強く打ち据えたのが分かった。


「……っ」


アスカル様の琥珀色の瞳に、過去の悔恨がよぎる。

神殿の馬車の前で引いてしまったこと。

聖女候補が声を奪われていた真実を知り、「今度こそ盾になる」と私に誓った夜のこと。


『私は、何のために剣を振るってきたのだ。誰を、守るために……』


あの時の彼の慟哭が、今、彼自身の枷を打ち砕く力へと変わっていく。


「……そうだ。私は、間違えていた」


アスカル様は、ゆっくりと顔を上げた。

迷いは消え失せ、かつての甘い熱情とも違う、鋭く澄み切った戦士の瞳がそこにあった。


「組織の面子を守るために民を犠牲にするのなら、そんな騎士団に何の価値がある!」


シャァァンッ!


鋭い金属音が中庭に響き渡った。

アスカル様が、腰の聖剣を抜き放ったのだ。白銀の刃が、陽光を反射して眩く輝く。


「なっ……き、貴様! 何をしているか分かっているのか! 上層部の署名があるのだぞ! 団長の命令に逆らう気か!」


ガーラン子爵が顔色を変えて叫ぶが、アスカル様は剣の切っ先を、真っ直ぐに子爵へと突きつけた。


「私が守るべきは、上官の保身ではない! この国に生きる、弱き民の命だ!」


アスカル様の気迫に押され、子爵の私兵たちが後ずさる。

それでも一人が槍を構えて向かってきたが、アスカル様は流れるような剣さばきでその槍の柄を真っ二つに斬り捨て、あっという間に私兵たちを制圧してしまった。


「ひぃっ……!」


尻餅をついたガーラン子爵の首筋に、アスカル様の冷たい剣先が突きつけられる。


「この子どもの引き渡しは断固拒否する。そして、この契約書の不正について、私は聖騎士団長として、上層部を徹底的に追及する!」


「ば、馬鹿な……。そんなことをすれば、お前自身が反逆者として裁かれることになるんだぞ……!」


子爵の震える声に、アスカル様は微かに口角を上げて笑った。


「構わない。これが、私の選んだ正義だ」


アスカル様は剣を収め、ガーラン子爵たちを中庭から叩き出した。

逃げるように走り去る子爵たちの背中を見送った後、アスカル様はゆっくりと振り返り、私の方を見た。


「ミオラ様。……ようやく、剣を抜くことができました」


彼の手はもう震えていなかった。

しかし、その表情には、これから待ち受ける過酷な運命への覚悟が刻まれていた。


「ですが、これで私は完全に上層部の命令に背きました。騎士団内部の不正を告発すれば、彼らは全力で私を潰しにかかるでしょう」


自らの立場を捨て、完全に世界を敵に回す道を選んだ聖騎士。

彼が初めて見せた「本当の味方」としての行動に、私は静かに頷いた。


「ええ。ですが、あなたは一人ではありませんわ」


私はカナト様と視線を交わした。

カナト様もまた、いつものように感情の読めない顔で、しかし確かな力強さを持って書類を抱え直した。


腐敗した貴族院、そして騎士団上層部。

新たな、そして巨大な敵が、私たちを完全に排除しようと動き出す足音が聞こえていた。

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