第14話 祈りではなく、証言を
『助けて』
インクが滲んだ羊皮紙に記された、たった三文字の痛切な叫び。
それを見た瞬間、私はユイナと呼ばれた薄水色の髪の少女の肩を、強く抱きしめていた。
「よく書いてくれたわ。もう大丈夫よ、恐れなくていい」
私が耳元で囁くと、ユイナは私のドレスの胸元をきつく握りしめ、声を殺して泣きじゃくった。
「そ、そのような落書きに何の意味がある! 彼女は神への奉仕に耐えきれず、狂乱しているだけだ! さあ、こちらへ渡しなさい!」
引率の神官が顔を真っ赤にしてユイナの腕を掴もうとしたが、その手はカナト様によって冷酷に弾き飛ばされた。
「宰相府の監査対象である重要参考人に、これ以上触れないでいただきたい」
「き、貴様ら……神の怒りに触れるぞ!」
「神の怒りより先に、国家反逆罪の嫌疑であなたを牢に入れることになりますが。近衛、彼女を馬車へ。宰相府の保護下に入れます」
カナト様の氷のような命令に、控えていた衛兵たちがユイナを囲むようにして守った。神官と神殿騎士たちは、法と権力を盾にしたカナト様の手続きを前に、ただ忌々しげに立ち尽くすことしかできなかった。
*
数時間後。宰相府の奥にある、外部の人間が一切近寄れない特別室。
ソファで毛布に包まり、疲れ果てて眠るユイナを見下ろしながら、カナト様が分厚い魔術書の記録をパタンと閉じた。
「判明しました。彼女の首にかけられているのは、違法な呪いなどではありません」
カナト様の言葉に、部屋の隅で壁に寄りかかっていたアスカル様が弾かれたように顔を上げた。彼は広場での騒動を聞きつけ、騎士団の命令を無視して駆けつけてきていた。
「違法ではない? 少女の声を奪うような術式が、国に認められているというのか!」
「ええ。月神殿が『神聖なる沈黙の行』を行うための特別な術式として、魔法院に正式に認可させているものです」
カナト様は感情の読めない灰色の瞳で、アスカル様を見据えた。
「つまりこれは、一部の狂信的な神官の暴走ではない。神殿という組織全体が、自らにとって都合の悪い事実――おそらく孤児院の横領や人身売買の真実――を知った聖女候補を、合法的な手段を装って組織ぐるみで『口封じ』しているという動かぬ証拠です」
その事実を突きつけられ、アスカル様は絶句した。
彼の赤銅色の髪が揺れ、琥珀色の瞳に激しい動揺が走る。
「神殿騎士たちが……誇り高き神の剣であるはずの彼らが、自らこんな幼い少女の声を奪い、監禁していたというのか……?」
アスカル様の声は震えていた。
彼は、民を守るための組織であるはずの騎士団や神殿が、まさか意図的に弱者を踏み躙っているとは信じたくなかったのだろう。
「これが、あなたが無条件に信奉し、守ろうとしている組織の『正義』ですわ、アスカル様」
私が静かに告げると、彼はギリッと奥歯を噛み締め、腰の剣の柄を強く握りしめた。
「私は……騎士団の面子を守るために、あの広場でこの惨状を見過ごすところだったのか……!」
アスカル様は苦悶に顔を歪め、深く頭を垂れた。
「私は、何のために剣を振るってきたのだ。誰を、守るために……」
彼の中で、強固だった「組織への絶対の忠誠」が、初めて音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
正義を語りながら組織の論理に逃げ込んでいた男が、今、本当の正義とは何かを自らに問い直している。
「アスカル・ヴェイン聖騎士団長」
カナト様が、無愛想な声で彼に告げた。
「懊悩している暇があるのなら、手を動かしてください。神殿側は必ず彼女を奪い返しに来ます。宰相府の衛兵だけでは心許ない。あなたの直属の、本当に信頼できる部下だけを集めて、この部屋の警護を」
「……ああ。分かっている」
アスカル様は顔を上げ、かつてのような甘い熱情ではなく、決死の覚悟を宿した目で私を見た。
「ミオラ様。今度こそ、私は……私の意志で、あなたとこの少女を守る盾となります」
彼は深く一礼すると、足早に部屋を出て行った。
彼が組織を裏切ってでも動く覚悟を決めたことは、大きな前進だ。
しかし、真の戦いはここからだった。
*
その日の深夜。
宰相府の執務室には、神殿から押収した膨大な帳簿、契約書、そしてユイナの証言を代筆したナナの調書が、山のように積まれていた。
「……五の月の第二週、孤児院からの移送記録、三名。同日付で、神殿の裏口座に……金貨三百……いえ、五百枚……?」
私はランプの灯りの下で、数字の羅列を追い続けていた。
しかし、連日の過労と、極度の緊張状態が限界に達していたのだろう。文字が二重にぼやけ、頭が酷く重い。
『月鏡』の能力を使いすぎた代償なのか、目の奥にズキズキとした月光のような痛みが走り、視界が歪む。
「……だめね、五百じゃなくて、五十……?」
思わずこめかみを押さえた瞬間、指先から羽ペンが滑り落ち、コロコロと床に転がった。
拾おうとして椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、ふらりと体が傾く。
「危ない」
倒れそうになった私の肩を、黒い手袋をした手がしっかりと支えた。
カナト様だった。
彼は私を静かに椅子に座り直させると、床に落ちた羽ペンを拾い上げた。
「……申し訳ありません、カナト様。少し、目が霞んでしまって」
私が自嘲気味に謝罪すると、彼は私を叱責することも、大げさに心配するような甘い言葉をかけることもしなかった。
ただ、彼自身が座っていた椅子を引きずってきて、私と全く同じ机の、すぐ隣に腰を下ろしたのだ。
「五の月第二週の入金額は、金貨三百五十枚です」
カナト様は私の手元にあった帳簿を引き寄せ、抑揚のない声で正確な数字を告げた。
「カナト様……?」
「あなたが倒れたら、この証拠は誰も救えません」
その声は冷淡なようでいて、どこか深い静けさと、揺るぎない覚悟に満ちていた。
彼は決して「君を守る」とか「休んでいてくれ」とは言わない。私が見つけた不正を、私が守ろうとした証拠を、最後まで一緒に通し切るという実務的な献身。
「私の目を、使ってください。数字と記録は、私が読み上げます。あなたは、その矛盾を繋ぎ合わせるだけでいい」
彼はそう言って、分厚い帳簿の次のページをめくった。
甘い雰囲気など欠片もない。
ただ、インクの匂いと、古い紙の擦れる音だけが響く夜。
けれど、同じ机に並んで座り、夜明けまで証拠を読み合わせるその時間は、私が初めて知る「本当の味方」の温度そのものだった。
「……ええ。頼りにしていますわ、カナト様」
私は小さく微笑み、彼が読み上げる数字の矛盾を、一つ残らず頭に叩き込んでいった。
*
そして、夜が明けた。
窓から差し込む朝の光が、完全に整理され、紐付けられた完璧な「証拠の山」を照らし出している。
孤児院の寄付金横領。
違法な人身売買の裏口座。
そして、事実を隠蔽するための聖女候補への口封じ。
すべての罪が、言い逃れのできない記録として繋がった。
「準備は整いました」
カナト様が、最後の一枚の書類に宰相府の印を押し、静かに立ち上がる。
私もまた、大きく深呼吸をして立ち上がった。目の奥の痛みは、不思議と和らいでいた。
「ええ。始めましょうか」
私は、朝日に輝く王都の街並みを見下ろし、毅然と宣言した。
「神の嘘を暴く、公開神殿審問を」




